第3話 森の中、少女はひとり名を得る
朝、目が覚めた。
まだ微かに仄暗い木の家の中、魔法の火を宿したランタンらしきものが、ゆらゆらと息をするように揺れていた。
草を編み、魔法で乾燥させ作った藁のベット。少しチクチクしてくすぐったいけれど、不思議とこれが落ち着く。
窓を開けると、森の爽やかな空気が流れ込み、鼻の奥をくすぐった。
「…おはよう」
誰かに返事をもらうわけではなく、ぽつりと一人呟く。
声が掠れていた。
前世では常に誰かと話していた。挨拶に、返事に謝罪に。
今は何も言わなくていい。何も返してもらわなくていい。気にしなくていい。
それがこんなにも心地いいなんて。
◇ ◇ ◇
朝食は沢の近くで採れた果物を煮て、試しに干しておいたキノコを木の皿に盛り付ける。
火の魔法もだいぶ慣れてきた。
"ついて"
と念じるだけで指先に灯がともるようになったのだ。
「魔法って…思ったより感覚なんだ」
それはまるで、心で呼吸するようなものだった。
火、水、土、風。それぞれ感覚で"ここにある"ことがわかる。こんな非現実なことなのに、わたしはもう受け入れている。
ふと鼻腔に酸味と、キノコの独特な風味を感じ思考を切り替える。
ひと匙すくって口に運ぶと、舌の上でぷちっと弾ける。
「…酸っぱい。でも、なんか目が覚める味だ」
しっかりとした酸味に、少しだけ苦味が混じる。甘さはないけど、妙に懐かしい。
子どものころ、校舎の裏で勝手に摘んだ酸っぱい実を思い出す。
あのときも誰かに怒られたような気がするけど――今は誰もいない。
干したキノコは、ちょっと土の匂いが残っていた。くにゃりとした食感と、舌の奥に残るうま味が悪くない。
「意外とイケるな……。ほんのちょっと、出汁っぽい」
ごちそうじゃない。でも、今の自分には十分すぎる味だった。
◇ ◇ ◇
午後、森を少しだけ歩いてみることにした。
なにかを探すわけではない。ただ、木々の間を通り抜けて、空を見上げて、風を肌で受け止めて。
そんな"無意味なこと"をしている自分が、ちょっとだけ誇らしかった。
「もう…誰かの役にたたなくてもいいんだ」
言い聞かせるように。でもそんなふうに思えたのも、ここに来てからだ。
けれど、ふと――不意に胸の奥で、何かが引っかかるような感覚になる。
このまま誰にも会わず、誰にも合わせずに自分勝手に生きていてもいいんだろうか。ずっと、ひとりで。
「…いや、それでいい。わたしが望んだのは、ひとりになることだから」
人と関わるたびに、疲弊し、傷ついて、自分の居場所をいつのまにか失っていった。
だからわたしは森に来たんだ。その心を癒せるように。
◇ ◇ ◇
森の中で、腰を下ろす。
大きな木の根元、葉の隙間から陽の光が溢れて、風が葉を鳴らしていた。
そんななか、ふと――思った。
「わたし…名前どうしよう」
前世の名前はもう似合わないだろう。
"直彗"
男の名前だ。過去の自分思い出させるその音の響きが、少しだけ胸を痛めた。
でも全てを捨て切れるほど強いわけではない。
「……"スイ"にしよう」
声に出してみる。
直彗の「彗」だけを残した、柔らかく、女の子的な響き。
この森で一人生きていくための、新しいわたしの名前。
もう誰の軌道にも乗らず、ただひとりの光でいいという自分の選択。
「わたしは、スイ。今日からこれが、わたしの名前」
誰に呼ばれなくてもいい 。
でも、自分だけは、自分をちゃんと呼んであげたかった。
静けさの中で、森の風がふわりと吹き抜けた。
まるで、祝福するように。
◇ ◇ ◇
夜。焚き火のそばで温かいスープを作った。
クルミに似た堅い果物を砕いて、果実と一緒に煮込んで作ったものだ。
魔法で作ったスプーンに、器。魔法で灯したランタン。
少し不恰好だけれど、どれも自分で作ったもの。
「…わたしもやれば、できるんだな」
ほんの少し自分に自信が持てた時だった。
チリン…。
森の遠くの方から、鈴の転がすような音が聞こえた気がした。
高く、透明な、どこか懐かしさを感じさせる響き。
風の音なのか?
動物の鳴き声なのか?
それとも――。
耳を澄ます。……もう聞こえてこない。
けれどそれは確かに"なにか"であった。
「だれか…いるのかな」
そう呟いた声が、焚き火の灯りに吸い込まれていった。
◇ ◇ ◇
今夜も再び、草のベットで目を閉じる。
胸の中に、少しのざわつきを残したまま。
名前をつけた。わたしがここで生きていると、やっと言えるようになった。
それなのに、こころのどこかでは誰かの気配を探してしまう。
「…おやすみ、スイ」
自分にそう声をかけて、眠りについた。
静かな夜が、少女を優しく包んでいた。
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