甘酸辛苦渋

多々野

 雪川街は、この国で最も大きい歓楽街である。

見渡す限り酒場が立ち並び、もう夜も更けるというのに提灯が煌々とした光を放っている。ここから見える限りはどこも安い店ばかりだが、もっと奥に入れば高級な小料理屋、或いは曖昧宿などもあったはずだ。この辺りにも、地下に賭博場を隠した店は幾らでもある。尤も立ち入ったことはないし、これからもその予定はないが。

 歌劇の衣装を思わせるような、鮮やかな装いの傾国たちが連れ立って歩くのをそっと避ける。彼女らのうちある程度経験を積んだ者たちは宣伝などはせず、ただこうしてこの界隈を彷徨いているのだ。

――どこかの酒場に飛び入りするか出店で遊ぶかして、話に乗ってくれた男を客として自分たちの店に連れてゆく。ただそういうやり口の傾国は大抵、女からも金をとる。ただ遊び歩いているように見せて、鮮やかに掏摸を働くのである。それも結構大胆な額を。ついでに店もぼったくりであることが多いから、近付かないのが何よりも吉だ。――

と、今日会う予定の友人は言っていた。


 そもそもとして雪川街は、数百年前にこのように成り立ってから治安が上向いた試しがないのだという。勿論無法地帯であるわけではないが、警察は余程のことがなければ動かない。

幾ら確認が緩いからといって、隙をついて未成年であるのに町内に入らないこと。自らの持ち物には充分に気を遣うこと。もし賭博や薬、或いは他の認められない遊びをするつもりなら、自分を守るものは一切なくなるのだという覚悟を持つこと。それと当然、最初は大通り以外を一人で歩かないこと。たとえ一つでも忘れれば確実に、大なり小なり何らかの犯罪に巻き込まれる。初めからひどく気を付けていた私ですら、多少の金を三度盗られたのだから。

 尤も逆説的にいえば、慎重で、小胆でいればこの街は愉しい場所なのである。だからこそ私は、月に一度程気晴らしに来るのだ。あらゆる種類の人間とたった一晩限りの絆を結ぶには、何処よりもここがうってつけなのだから。



 友人とは寒いから、店の中で落ち合おうと事前に連絡をしていた。打ち合わせをしたのは街の入り口から程近い、三階建ての小料理屋の二階である。随分冷え込むというのに、向かいの吹き放ちの酒場からは大きな歌声、歓声、怒鳴り声が響いてきていた。比較的初心な来訪者が集まり、値段も安いところではあるが、自分の席という概念のない店である以上いざこざは絶えない。現に三度盗られた金のうち、二度は向かいで呑んでいた時である。

 一階が満杯なのを見た時は流石に肝が冷えたが、しかし二階は案外空いていた。溢れた客は上に行ったようだ。打ち合わせ通り私が先に着いたようであるので、先に席を取って荷物を置く。椅子の脚には柔らかい布が幾重にも巻いてあって、尾を巻き付けると心地よかった。



 奥に見える窓から聞こえてくる酒場の歌が三周、替え歌らしい前半のみのを一周、少々長い別の歌を二周した後、友人が階段を上って私の隣に腰を下ろした。

「久しぶり」

「久しぶり、竜車で来たんだけど、その手配が遅れてね……」

列車で来た方が早かったかもしれないね、友人――糸都は呟く。深い紫の角には仮漆を塗っているらしい、根本が妖しく照り映えていた。


 硝子製の杯が二つ、からんと透き通った音を立てる。中に入った、藤紫色の酒を軽く一口含む。まるで花弁を噛んだような甘い香りと同時に、小さな辛みが喉を突く。同じ意匠の杯に湛えられた、黄檗色のそれを小さく飲んだ糸都は

「やっぱり変わった味だ、」

と言葉を零した。

二人でいる時は互いの、もっと多ければ右隣の席の者の角の色をした混酒。親しい者同士でこうして食事をする時は、それを一杯目にするのが基本の礼儀である。しかし人の角の色など、幾ら単純化したところで優に百種類を超える。それにあくまで儀式であり賞味のための行為ではないから、味より見た目を優先する。その結果が、殆ど薬に似た味を漂わせる混酒なのだ。

――尚恋人と二人きりの時は匙で相手のものを一たび掬い、自分の杯に混ぜてから飲む。しかしこれは当然、今飲んだそれより遥かに烈しい味になる。かつての思い出だ。

 「そういえば、今化界人に関わってるんだって?」

手紙にあったけど、と言う糸都に

「あまり大きい声では言えないけど」

と返す。

「炊事番をね。確かに植物の使い道には明るいけど、別に料理の専門家ではないんだけれどもね……」

「本当に化界人って小食なの?」

「小食だよ。飯事みたいな量しか食べないね」

彼女はへぇ、と相槌を打ってから、再び杯に口を付けた。

「そもそも、こんなにお酒も飲めないらしい」

「度数? 量?」

「どっちも」


 

 色杯――この酒のことだ――はできる限り薄味に造ってあるそうだが、それでも顔は火照ってくる。羽織りの袖を外して椅子に置き、ぱたぱたと指で頬を仰いだ。

「そっちはどうなの? 教え子たち」

「君んところに比べたら大したことないよ、」

糸都はため息と共に言葉を吐く。方向性が違うとはいえ、教職も発見の多い仕事だと思うのだが。

「最初は単に可愛い生き物だったけど、段々中身が見えてきたよ」

 良くも悪くも――言葉を伸ばしながら、ああそうそう、と繋げる。

「自分たちが小さかった頃とあの子らの興味の方向は全然違うんだけれども。……誰が教えたんだろうね? 服飾の専門知識なんか子供たちに。

でもまあ、草花に興味を持ってくれる子は変わらずいてね。良かったら遊びに来ない?」

「一等院の子が聞いて楽しいことなんてやってないよ」

うちの同僚に面白いのはいるけど。そう返すと糸都は、

「もしやあの子? 君の級友」

と答えを当てた。



 咲野の身に降りかかった一連は当時は真剣に慌てふてめいたものだったが、今振り返ってみれば笑い話に過ぎないことである。

 私が勤めている第二植物学室の隣、第一室で働いている咲野は、学生時代からの友人だ。二等院の比較的初めの方から言葉を交わし合うようになったのだから、およそ十一年来の関係といったところか。長い髪を紐で一本に結わえているのと、少し吊り目気味の顔立ちは変わらないままだ。

大小様々な学校が集う場所、若者の町として知られている学都越里町。私と咲野が通った紀宝二等院というのもその片隅にあった。私がそうであるように、この学校の卒業生には学者が多い。つまり決して驕るつもりはないが他よりそれなりの教養を持ち、そして少し風変わりな一面を見せる人間が集まりやすい学校なのであった。


 咲野――当時は勿論本名で茶也と呼んでいた――もその中の一人だったのを覚えている。彼女は大抵毎朝、何らかの植物の束を持って登校してきた。家で育てていたのだ。といっても、土に植え肥料をやり、光に当てていたのではない。家具や壁に種を撒き、肥料と光とそして水に関しては、朝晩二回ずつ彼女自身が軽く術を使って賄っていた。むしろそれの方が主であった。花、光、水というあまりにも園芸向きの身体元素を効率的に循環させる方法として、学内で有数に成績の良かった彼女が考えあぐねた結果がそれだったのである。

 そして一年生の終わりかけぐらいだっただろうか、近くに住んでいた私の元に、

「助けて」

という書簡が届いた。朝早くのことだ。


 思春期の身体元素は大概不安定なものである。夜中のうちに急激に高まったそれが植物を無意識のうちに肥やし、家中を埋め尽くしてしまったのだった。梁から大ぶりの果実が首を垂れ、机は柔らかな新芽で覆われている。柱だけは元と同じ茶色で、どうにか助かったのかと思えば、それは小ぶりな樹木の幹なのであった。明るい緑をした葉が、私の前に顔を突き出している。

まるで幼い頃聞いた御伽噺のような光景に唖然とした私に、彼女はぼそっと呟いた。

「いや……まあ、これは後で自分で片付けるからさ。最悪このまま住むのも悪くないだろうし」

確かに彼女にとっては不快な場所ではあるまいが、それ以前に大家はどんな顔をするのか。そう思ってから、私はここが改造自由な建築物であることを思い出した。比較的年月が経った建物の一部は自由に防音設備などをつけて良い、というしきたりを設けていることもあるのだ。尤も、目の前のこの状態を改築と呼べるのかは私には分からなかったが。

 「ただ、」彼女は言葉を続ける。てっきり部屋の片付けを手伝わされるものだと思っていたが、彼女の望みはそれでないらしいのだ。

「私、ごみを肥料として吸収するように術で命じてたの。塵紙とか。そうしたら、」

「そうしたら、」

「紙を全部吸っちゃったみたい」

「それは、」

先に机を見てしまったから答えは察せていたが、調子よく相槌を打つ。

「教科書とか原稿用紙とか」

改めてそう口に出した級友は一度頭を抱え、そして私に背後から抱きついた。角が首筋に当たって、寝起きの体にひんやりとした感覚が広がる。悲痛な声が入り込む。

「ねぇ、野菜に食べられたって、課題を出さない言い訳になると思う?」



 既にしている話ではあったが、ぽつぽつと私が要点を語ると、糸都は両手を叩いて激しく笑った。

「もしかして? 咲野ちゃんってまた何かやらかしたの?」

「確か資料を何頁か滋養にした、って随分前に言ってたけど……それ以上はしてないよ。でも部屋中植物で満たしてるのは変わらないから、癖の強い人扱いはされてるけど」

 あの「事故」は結局のところ身体元素の暴走故発生したもの、つまり生理的な事情に起因しているということで不問にされた。それをいいことに、十年経った今も同じことをしているのである。流石に成人もとっくに超した現在、暴走を起こすことはなくなったが。


 「確かに、うちのちびたちはそういう人好きかも。好きなだけ花を咲かせられるんでしょう?」

「体力と肥料が保つ限りはおそらく。ただ咲野のやってることは私のよりも難しい話だし、真面目な授業は作れそうにないけど」

一等院の頃確かにあった、教師が自由に組む授業の内容は普段のよりも相当遊びに傾倒していたことは覚えているが、そうだとしてもただの草花遊びというのはまずい話だろう。

「でもまあ、私たちの頃より相当緩くなってるから大丈夫な気はするんだけど。隣の学級の先生は川に行って遊ぶつもりらしいし」

 でも待って、糸都は言葉を繋げる。

「あくまで建前だけでいいんだから。ちょっと真面目な主題として書類整えて提出すれば、上からの評価が上がりそう」

肘をついて首を回し、ぎゅっとこちらを見つめてくる。私は高身長かつ、決して脚の長い人種ではないから必然、彼女の視線は上目遣いになる。硝子玉のような瞳がゆらりと動く。

「どうしよう、本当にお願いしようかな? その時は君も来てね」

「必要な書状を送ってもらえれば大丈夫だけど……いずれにせよ、また別の機会に打ち合わせしようか。素面の時に」

先程届いた器に口をつける。少し苦いが、やはり色杯よりずっと美味い。

糸都は酒に弱い人なのだ。


 「そういえば咲野ちゃんといえば。まだ他の子たちとも連絡取ってるの? ええっと、」

「巴とか?」

「そうそう」

目の前に座る友人の問いかけで、ようやくその名前が浮かび上がった。確か三回り――十九歳の初めに出会った友達だった。同時期に知り合った他の二人も交ぜて、四人で学校生活を送っていた記憶がある。成人の典礼も並んで受けたはずだ。

「あの子たちと旅行にも行ってたっけ、しばらく一人で寂しかった気がする」

「たった三日かそれくらいだったと思うけどね。貸本屋の給料はそこまで良くないよ」

 しかし卒業してから手紙を出したことはごく僅かで、そもそも最上級の六回りを迎える頃には長々と喋ることすらなくなっていた。皆めいめいに忙しかったこともあるが、共通の趣味や目標があったわけでもなく、そもそも用があるとさっさと輪を抜けたはずの二人がその辺りで駄弁っているというような、悪意なき疎外がよくあるような集団で、皆それぞれに居心地の悪さを感じていたというのが大きかった。

だから四人で動くことは金輪際ないだろうが、「駆け落ち」の常連だった巴と艶葉は二人きりで未だに親しくしているのだ。


 そのことを話すと糸都は、ああそうだったんだ、と大きく頷いた。

「むしろ、今までこの話してなかったんだっけ」

「聞いてないと思うよ。今もあの子たちと仲良くしてると思ってたし」

糸都と会う頻度は友人の中でもそれなりに多い。古今問わず、人間関係について語り合うことも多々だ。幾度となく遊ぶ中で一度も話題に出ていなかったということは、結局巴らとはそれ程の絆しかなかったということか。

 自分らを映した写真は沢山、特に旅行に出た時は瞬きをするように撮っていたはずだが、思い出そうとしてみても、いつどんな風に撮ったのか、まるで記憶にないのであった。

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