「お待たせしました、」

店員が目の前に立って、ざっくばらんな手つきで盆に乗った料理を置いていく。ぬるりとした艶が乗った海藻の和え物、野菜の飾り切りを纏った刺し身の盛り合わせ、香料入りの乾酪――先程も一つ頼んでいたが追加を幾つかお願いしたのだ、少し辛いのが意外に美味しい――と根鳥の茹で卵。

ご注文は以上でお揃いですか? 尋ねてくる店員にはい、確かに、と返すと彼は足早に立ち去っていった。


 机に備えられた調味料の壺のうち甘酸っぱい垂れの入ったものを、糸都に取ってもらって小匙で掬う。茹で卵の淡い茶色に垂れの濃い赤茶が重なって、厳かな煌めきがゆったりと殻の表面を撫でた。上から前に頼んでいたのについていた果実の輪切りを絞ると、反発した果汁が星を散らしたようになって更に良い具合になる。

 「そうそう、小花と一緒にいるとこの食べ方ができるからいいんだよね。万銛出身の人周りにいないから信じてくれないんだよね、これが美味しいって」

「私の地元だけだって、こっちでも言われたけど。皆むしろどうやって食べるの?」

「こういう時は……光砂を軽くかけるだけ、とか」

「味気なくないの」

「まず肴に茹で卵を選ばないかも。根鳥の卵でも均して焼いたのにするかな、家なら」


 卵を茹でて垂れと安果の汁をかけて食べるというのは私にとっては定番なのだが、どうも世間としては異常なものであるらしいのだった。しかし品目表にはあるのだから全くの異端ではないのか、それとも光砂つきで食べるのを選り好む変わり者が多いのか。私の生まれ育った万銛は小さい町だから、後者の可能性が濃いのだろう。

折角なのだから広まればいいのに、垂れも安果も珍味ではないのだから、と思いながら箸で卵を割る。白い中心を、とろとろと星の混じった垂れが流れてゆく。

「溢し易いのが短所だよね」

「慣れる外ない」

何せ昔から兄たちと共に父から公認で盗み食いしていたのだから、溢さないやり方は身に染みついている。軽く箸を回しながら、思い切って一度で口に入れた。舌が垂れを沁み込ませながら、卵の中心の、柔らかいところを探って潰す。果汁が軽く弾けた。



 「ねぇねぇ、化界人も海の魚食べるの?」

「食べるよ。人種によって得意不得意はあるとは聞くけど……私が担当してる子は好きみたい」

「生も食べる?」

「食べるんじゃないかな。向こうにも刺し身みたいな食文化はあるらしいし。安全面からうちじゃあげられないけど」

そっかぁ、糸都は刺し身を千重油に一枚浸しながら言った。「向こうの魚ってどんな味がするんだろう。塩辛いのはあるくらいだし……もしかして甘いとか?」

「さぁ。私はあくまで炊事と給仕しかしないから、詳しいことは知らないよ」

 糸都は、でも甘い魚って想像がつかないな、と自問自答しながら刺し身をもう一枚口に運ぶ。牛面魚だ、丁度先程言っていた元が塩辛い魚である。青みがかった切り身がまるで今も生きているかの如く、箸の先でぷるぷると震えている。


 「小花はさ、化界の草花以外に興味はないの?」

硝子の椀に口をつけて、軽く嘆息し、ぼうっと外を眺めて、そうしていきなりこんなことを言い出すものだから私は少し面食らってしまった。

「他に専門を持とうと思ったことはないよ。今とは少し違うけど、二等院の頃からその辺りの講義ばっかり受けてたし」

「でもほら、前に服飾の実験に参加してたじゃない」

「あれは関心があったというより報酬目当てだったよ、あの人らには悪いけど」

化界に於いて主要な仕事服となっているらしい衣料を着てしばらく勤務してくれないかという提案を、確かに去年受けた記憶がある。謝礼として少なくない額を受け取ったし、洗濯の手間が一時減った――上衣と脚衣は水洗不要だったのだ――が、私としてはいちいち結んだり通したりするのが煩雑な上、袴より窮屈で常用する気になれるものではなかった。

 申込書を手渡した時の、図書館棟の彼らのきらきらとした瞳を思い出しながら私がそう返すと、糸都はふぅん、と小さく音を吐き出した。

「私だったら、もっと他のにも手を出すけどね」

「糸都は並行作業が上手だからね。私は一つに傾倒しすぎる人間だから」

「そういうことじゃないでしょ、」

糸都は口を尖らせるが、私には確かにそう思えた。一等院の教師というのは、単なる教職ではない。勿論学級毎に専属の相談員はついているが、それでも些細な揉め事の仲裁や軽い遊び相手というのは教師がしてやらなねばならない時がある。他に仕事を幾つか抱えた状態でそのような問題を解決するのは、私の苦手なことの一つだ。

「植物だけでえーっと、何だっけ、あれ目指すの? 昇進するやつ」

「夏級?」

「そうそう。私には無理だなぁ、何年もかけて没頭するなんて。でもそういう人が誰より出世するんだろうね」



 そこからお互いさらに一杯ずつ――糸都に関しては止めたのだが、飲みたいのだからと押し切られた――口をつけて、他愛もない話をしながら刺身と乾酪を消費した。数年前に同時に好きになったある音楽家の新曲のこと、最近上に就いた春級研究官にいけ好かないのがいること。糸都の、職場にいい間柄の男はいるが結ばれるほどでは無さそうだ、という下りには少女のように悩み合い、そして笑い合った。

 そうして二人で席を立って、大まかな割り算で会計を済ませて店を出た。夜は更け、冷たい風が肌を刺す。酒を飲んだ後でこの寒さなのだから、本当はもっと冷え込んでいるのだろう。この時期はいくら収穫祭の後とはいえど、例年ならもう少し過ごしやすい気温が続くはずなのだが。

来客が多かれ少なかれ皆一様に酒の香りを身に纏わせ、月も上ってきたこの時刻こそ雪川街の最盛である。肩と脚を大きく出した傾国たちが練り歩き、おそらく数時間前まで見ず知らずの間柄であったであろう老若男女が歌いながら駆け回る。必然的にこの街の汚れた部分――例えば男と歩く幼い女や、只事でない叫び声、誰かの吐いた跡など――も見えてくるが目を瞑り耳を塞ぎ、糸都と二人、衝立を置いた中のように話す。



 そうして角を曲がってさらに歩き、幾らか階段も上った先にそれはあった。石で作られた粗雑な長椅子。ざわめく暗色の木々たち。空に上った桃色の月。そして、山の中にぽつぽつと見える灯りの群れ。

まるで灯篭でも並べられているかのように光っているそれらはあの、学都越里町のものだ。


 左手側に広がる森に伸びた小道を、素直に辿っていけばかの町に着く。勿論暗いが、月の色が明るい時を狙った上に行燈を持って進めば不可能ではない程度だ。それに雪川街は常に騒々しいから、多少道を外れても方向を間違えることはない。

そう、それは学生たちが教師や管理人の目を盗んで、こっそりと夜遊びをするための道である。

 とはいえ私は試験や提出物の都合もあったし、何より小銭稼ぎのつもりだった仕事が思いの外忙しかったため、そのようなことに手を出したことはない。成人を迎えて二月程した後、家族と立ち入ったのが初めての訪問だ。

――慎重で、小胆でいればこの街は愉しい場所なのである。

これは糸都からの、ひいては音弦――大きくなる前の彼女からの受け売りの言葉。そう、私が貸本屋の書庫を歩き回っていた頃、この友人は密かに雪川街に来ていた。


 酔うと糸都はいつも、この抜け道の終点に来る。素面で学生時代の話をすることは殆ど無いが、本当は懐古の中心にあるのか。今もこうして椅子に座って、今いる場所程ではないにしろ、煌々と輝く町の灯りをうっとりとした目で眺めている。そして爪を重ね、指で景色に枠を作っている。

眩すぎるくらいの光を背負って、素朴なまである輝きを見つめる。この時間を教えたかったという話は、既に何度も聞いている。何なら学生の頃から知っていた。私が帰ると、彼女は寝台にもたれかかってその風景を度々描いていたから。柔らかい筆で顔料を溶かして。或いは、鋭く削った木の棒に墨をそのままつけて。

 音弦は、芸術の道に進むことを夢見ていた。無謀な話ではなかったはずだ、彼女の生み出す絵は確かに美しかった。優美な線に縁どられた、繊細な色使い。たとえそれが想像上の景色を描いたものでも、まるで目の前にそれらがそびえ立っているかのように見えた。教師たちからの受けも悪くないのだと、彼女は言っていた。

 如何して審査員だけが彼女の絵に惚れ込まなかったのかは、今でも私には分からない。


 「ねぇ、このまま泊まっちゃわない? 今の時間なら木賃屋、まだ埋まってないと思うよ」

蕩ける彼女の声を聞きながら、私は頭の中で予定表をまさぐった。明日は仕事も早急な用も、確か無いはずだ。

「旅籠屋でも空いてるとは思うけど」

「いや……その前に外の商店に寄りたくて。安いのでいいから雑記帳と矢立が欲しい」

その言葉に、私はすぐにいいよ、と返した。隣に座った彼女の瞳には、確かに光が差している。火を入れた風船のような、丸くて温かな光。

糸都が絵を描くのは、こうして酔いどれた夜だけなのだ。

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甘酸辛苦渋 多々野 @Caramel_0327

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