第3話:古竜の企み
話を聞き終えた竜は小さく唸ると、おもむろに目を閉じる。
どう言葉をかけたらいいものかと悩んでいるのだろう。
赤く光る月の下、麓の村の人間はもうみんな寝静まっているようで、聞こえてくるのは虫の声とどこか遠くから届く獣の雄たけびのみだった。
あまりに長い沈黙に、このまま夜が更けてしまうのではないだろうか――と考え始めたその時。
「……約束を果たす前に、一つだけ聞いていいか?」
低く落ち着いた声が静けさを打ち破った。
「……本当に約束を守る気あるんですか?」
「そう睨むな。最後なのだから少し話すくらい良いだろう」
「……まあ、一つだけならいいですけど」
ため息混じりに竜の提案を了承する。
どういうつもりかは知らないけれど、今更何を言われたところで――。
「村から追い出された今、お前と妹を比べる者などもういないのではないか?」
その言葉に虚を突かれた私の思考は一瞬白く塗りつぶされ、そこに竜の投げかけた問いが入り込んでくる。
……言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。
ずっと村での生活しか知らなかったから、このしがらみを一生背負っていくものだと思い込んでいた。
しかし、今はもうそこから解放されたのだ。
アイリスの姉である私ではなく、等身大の私として生きる道が目の前にあるのかも――。
「……ううん、駄目なんです」
暗い感情が湧き上がってきて、私の首を横に振らせる。
それは目前の光明を覆いつくすかのように、胸の内を黒く塗りつぶしていく。
「たとえアイリスのことを知っている人がいない場所に行くことが出来ても……ここに一人、アイリスを覚えている人がいますから」
これからどこに行って何をしていても、私はふとした瞬間にアイリスのことを思い出し、輝かしい彼女と自分を比べて惨めさを覚えるのだろう。
16年間抱えてきた劣等感は、いつしか私自身を私の敵に変えてしまったようだ。
私の最終決断を聞いても、少しの間は黙ったままこちらを見つめていた竜だったが。
「……そうか。なら仕方ない」
とうとう観念したように深い息を吐いた。
そして、首を地面スレスレに下ろし、私の目の前で口を大きく開いた。
一本あれば私を確実に死に至らしめられそうな牙が何十本も並び、その隙間から腐った肉のような臭いが漂ってくる。
湿った生ぬるい空気が全身にまとわりつき、言いようのない不快感に包まれる。
捕食されるというのは、これほどまでにおぞましいものなのか。
だが、こんな私にはお似合いだろう。
私はゆっくりと目を閉じて、静かに運命を受け入れることにした。
「……来たか」
「え?」
唐突に声が降って来て、思わず目を開ける。
いつの間にか竜は首をもたげていて、どこかへと目を向けている。
竜の見ている方角へ視線を向けてみるが、立ち並ぶ木々が目に映るばかりで、何者かの姿は見当たらない。
――そう思っていた矢先に。
「伏せて!」
その声と同時に一瞬白い閃光が
次の瞬間、雷鳴に似た轟音が頭上を切り裂き、竜が悲鳴のような咆哮を上げた。
「な、なにが――」
「大丈夫!? お姉ちゃん!」
何もなかった空間から、バチバチと電気を帯びた杖を持った少女が現れ、煌めく瑠璃色の髪を揺らして駆け寄ってくる。
透明化の魔法……とても高度な魔法のはずだ。
王都に行ってから1年と少しでここまで才能に磨きを上げるなんて――。
いや、そうではなく。
「アイリス……なんでここに……?」
そこには王都に移り住んでいたはずの双子の妹の姿があった。
「学校の先生が雑談で、そろそろ赤い月が見られる時期だって言ってて。それで、村の風習のことを思い出して急に心配になったの」
そう言って彼女はしゃがんでいた私の手を取って体を引き起こす。
「早く逃げて。村……にはもう戻れないかもしれないけど。とにかくここから離れて」
「え? いったい何の話を……」
「あの邪竜をなんとかしないと。私が止めないと、言い伝え通り村が襲われるかもしれない」
私はそこでようやく気付いた。
妹はあの竜に敵意が無いことを知らないのだ。
距離があって会話が聞こえなかったのか、それとも竜が私を食べようとしている寸前に到着したのか……とにかく、彼女は目の前の竜を伝説通りの悪しき竜だと思っている。
「アイリス、あの竜は――」
不要な争いを止めるために、アイリスに声をかけようとする。
しかし、その言葉は無情にもかき消された。
「フハハハハ! やるな小娘!」
他でもない、竜の笑い声によって。
「だが、そいつは大事な生贄だからな! そうやすやすと逃がすわけにはいかん!」
先ほどまでの理性的なふるまいはどこに行ったのだろうか。
竜はギラギラと目を輝かせ、闘志で身をたぎらせている。
混乱で立ち尽くしている間に、竜の口の中にオレンジ色の光が集まり始めた。
――ブレスの前兆だ。
それと同時にアイリスも杖を構え、迎撃の体勢を取る。
「っ……なんて出力……!」
アイリスは苦し気に顔をしかめる。
火炎が水を侵食するように蒸発させ、じわじわと私たちの方へと近寄って来る。
対する竜の方はというと、どこか楽しそうに笑っていた。
「ふむ、なかなか頑張るじゃないか。『姉の方とは大違いだな』」
唐突に、聞き覚えのある言葉が胸に突き刺さる。
耳を疑って声の飛んできた方を向くが、そこには竜の姿しか見られなかった。
「双子なのにこうも才能に違いがあるとは……いや、『そもそも本当に双子なのか?』 髪色も青と白で全然違うしな」
これは、先ほど竜に語った話の中に出てきた言葉だ。
記憶の中の村人たちと同じセリフを、さっきまで優しかった竜が唱えている。
「足手まといの姉を持つと大変だな。『少しでも才能が分けられていたら』協力もできただろうに」
いったいどうして急に。
親身になって聞くフリをして、内心ではあざ笑っていたのか?
結局、私の味方なんてどこにもいなかったのか――。
「もう黙れ!」
耳元で叫び声がして、淀んだ思考の渦から現実へと引き戻される。
気づけばアイリスの杖の光が一段と大きくなっていて、水流が火炎球を飲み込み始めていた。
「お前にお姉ちゃんの何がわかる!」
彼女の感情に呼応しているのか、アイリスが叫ぶたびに杖の青白い光は力を増していく。
「お姉ちゃんはいつも私に優しかった。小さい頃喧嘩して泣いていた私を、一生懸命慰めてくれた」
……そんなこともあった気がする。確か、5歳くらいの時の話だ。
あの頃からアイリスは曲がったことが大嫌いで、私に意地悪してきた男の子に掴みかかったのだった。
「お姉ちゃんは私に魔法のコツも教えてくれた。お姉ちゃんは失敗も恐れずにチャレンジして、そこで得た経験を私に教えてくれた」
自分の中では劣等感を象徴する苦い思い出になっていたのだが……私がコツを教えたというのは、すっかり忘れていた。
私が記憶の奥底に埋もれさせてしまったようなことでも、彼女にとっては大切な思い出だったのか。
「それに、お姉ちゃんは私の憧れなんだ。優しくて我慢強いお姉ちゃんの背中を見ていたから、私も努力しなきゃっていう気持ちになれたんだ」
私が、アイリスの憧れ?
なんの取り柄もないと思っていた、この私が――。
「私の大好きで大切なお姉ちゃんを、馬鹿にするなぁっ!」
渾身の叫び声と共に、杖の発する光がひと際大きくなる。
その青い輝きは、まるで頭上に輝く赤い月の光すら全て弾き返すようで。
ついにアイリスの魔法が完全に火炎を飲み込み、その直後に白い蒸気が辺り一帯を包み込んだ。
「はっはっは! 大した姉妹愛だな!」
真っ白に煙る視界の中から飛んでくる声。
アイリスはまだ攻撃が飛んでくるのではないかと杖を構えていたが。
私には、あの優しい竜の声に戻っているように聞こえた。
「お前のことを大切に思う人がちゃんといるということを、決して忘れてはならんぞ」
その言葉の直後に、蒸気の中の影はぐにゃりと歪み。
視界が晴れた時には、まるで最初から存在していなかったかのように、竜の姿は消えていた。
「……いなくなった?」
しばらく警戒を解かずにいたアイリスだが、竜が本当にどこかに行ってしまったと確信すると、いきなり地面に仰向けになって倒れ込んだ。
慌てて顔を覗き込んでみたが、当のアイリスはどこか満ち足りた表情をしていた。
「あー疲れた……! あいつ強すぎ……! もう魔力切れ寸前……」
「だ、大丈夫……?」
「ちょっと休めば平気だよ。それに……」
アイリスの手が私の方に伸びてきて、そっと頬に触れる。
肌を通して人の温かみが伝わってくるのは、なんだかすごく久しぶりな気がした。
「お姉ちゃんが無事で良かった」
彼女の見せる屈託のない笑顔に、心が溶かされていく。
胸の内に渦巻いていた淀んだ感情は、いつの間にか随分と小さくなっていた。
「……それにしても、あいつの最後の言葉なんだったんだろうね? まるで、私たちを試していたような……」
アイリスの言葉はそこで途切れることとなった。
彼女の頬に落ちた、一粒の雫によって。
「お姉ちゃん、泣いてるの?」
ひとたび自覚すると、次から次へと涙が止まらなくなって。
私は妹に覆いかぶさるように抱き着いて、子供のように泣きじゃくっていた。
「……そうだよね、食べられそうで怖かったよね。もう大丈夫、私がいるから」
涙を流している理由は、アイリスの言うような可愛らしいものじゃないのだけれど。
それは胸三寸に納めておくことにした。
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