第1章 黒き炎の中で
私の祖父、アブラハム・ヴァンヘルシングが亡くなった。
その知らせが届いたのは、灰色の空が町を覆う、冷たい雨の日だった。
ロンドンの空はいつも曇っていたが、その日は特別に低く、息をするたび、肺の奥にまで冷気が染みこんでくるようだった。
祖父は、死なないと思っていた。
“化け物を狩る人間”として、人間の限界を超えた存在のように思えた。
数々の怪物たちを屠り、時にその心に触れ、そして世界の裏側で“人知れず世界を守ってきた男”。
私にとっては、ただの祖父ではない。
まるで、世の理そのものに楔を打ち込んでいた“柱”のような存在だった。
そんな人が、老いという当たり前の死に、あっけなく沈んだという報せ――
私は、まだどこかで信じられなかった。
彼の亡骸は、オランダの片田舎、祖父がかつて小さな病院を営んでいた村に運ばれた。
今はもう廃れ、教会も礼拝堂も人の出入りが少ない。
でも彼は、この場所で死にたかったのだという。
理由はわからない。だけど、彼の死を弔うには、あまりに静かすぎて、完璧な場所だった。
礼拝堂に足を踏み入れた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
祭壇の中央に置かれた黒檀の棺。
そこには銀の十字架が刻まれ、蓋には無数の古い印が彫られていた。
見たことのないものばかり――いや、1つだけ、見覚えのある紋章があった。
《V.H.》
祖父が若き日、怪物に家族を奪われてから、自分に刻んだ“誓い”の証。
どんなに年老いても、その印は手放さなかった。
棺の前に立った私は、胸の奥に何かが渦を巻くのを感じた。
悲しみでも、怒りでもない。もっと得体の知れない、“空虚”のようなもの。
「……遺体は、安らかな顔をしていましたよ」
傍らに立っていたのは、祖父の最後の助手だった老医師――ミュラー先生。
白髪で痩せ細り、手は震えていたが、目だけは祖父と同じように鋭かった。
「ですが、死因には……奇妙な点もあります。毒物の痕跡、指の火傷、血管の収縮……まるで、“死を引き寄せた”ような……」
私はノートを見せた。
祖父の形見。最後の夜、彼がベッドの上で握りしめていたという、小さな革製のノート。
ミュラーは目を細めて言った。
「それが、鍵かもしれませんな。彼が最後に残したメッセージ――“選べ、クロエ”」
その言葉は、私の中に静かに沈んだ。
ノートの最終ページには、こう記されていた。
「封印は近く解ける。鍵は“彼ら”に預けた。私がいなくとも、まだ終わりではない。選べ、クロエ。戦うのか、それとも――世界を見捨てるのか」
ページの隅には、いくつかの名前が走り書きされていた。
「カリオストロ」「アダム」「リア」「セバスチャン」「アナク・セト」「ギル」
私は知っている。その名を、物語の中で、禁書の中で、祖父の研究記録の中で。
彼らは皆、**“怪物”**だった。
棺の蓋が閉じられる音が、礼拝堂に低く響く。
神父が無言で祈りを捧げ、外の鐘が三度、遠く響いた。
そのときだった。
礼拝堂の扉がわずかに軋んだ。誰もいないはずの外から、冷たい風が吹き込む。
私は背筋を凍らせながら振り返った。
そこには、誰もいなかった。
……けれど、私は見たのだ。森の端に、黒いコートを纏った“人のような何か”が、わずかに首を傾け、こちらを見ていたのを。
棺の中から、かすかな音が響いた。
鎖が軋む音。
ありえない。
私は声を上げることができず、ただ立ち尽くした。
その夜、礼拝堂に火が放たれた。
原因は不明。警察も誰も来なかった。
ただ、黒い炎が夜空を染め、古い石造りの塔が崩れ落ちていくのを、私はただ見ていた。
灰の中から、ノートだけが奇跡のように残っていた。
私はそれを胸に抱き、こう誓った。
「あなたの遺志を継ぐ。でも……私のやり方で」
そして、ページをめくる。そこには、次に向かうべき地名が記されていた。
“バルカンの城塞。かつての吸血王、カリオストロ伯爵の居城。”
物語が始まったのだ。祖父の遺した“最後の狩人”として――そして、怪物たちの盟約者として。
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