〈短編〉夏を彩る願いの海

夕砂

夏を彩る願いの海






 七月七日の夜。




 町の灯りがすっかり眠りについたころ、空だけが目を覚ました。



 雲ひとつない夜。


 風は止まり、空気さえも息を潜めるようにして、星を迎える。




 少年は草むらに寝転び、目を見開いて空を見つめていた。




 藍よりも深い夜のキャンバスに、

 無数の星が、まるで誰かの記憶みたいに滲んで、またたいていた。



「お願い、お願い、お願い……!」



 少年は空を見上げて、息を詰めながら唱えていた。

 手を握り、心の中で叫ぶ。




“流れ星に願えば、夢が叶う”




 そう聞いてから、毎晩のように星を見ていた。

 でも、七夕の夜にはきっと、本物の奇跡が起こるはずだと信じていた。




 そのとき、空を横切る一筋の光。



「きたっ!!」



 慌てて目を閉じたその瞬間。



「……なんだお前さん、そんなに焦ってどうする」



 背後から、ひょっこりと声がした。



 思わぬ声に驚いて、願いごとを唱えるのも忘れたまま、少年はくるりと振り返った。



 振り返ると、いつのまにかベンチに腰かけていた白髪のお爺さん。

 背中を丸めて、でも目だけはやけに鋭い。



「ちゃんと流れ星にお願いしないと叶わないんだよ!」



 少年は必死だった。



 お爺さんは、空をちらりと見て、にやりと笑った。



「なにをそんなに願うのじゃ」



「ひみつ!」



 少年は少し得意げに、胸を張る。



「僕は、すごい人間になるんだ。あの星が、きっと叶えてくれるはずなんだよ!」



 お爺さんは、口の端を上げて笑った。



「星は叶えてはくれんよ。いや――正確に言えば、おまえさんの代わりに叶えてやることはできん、ということだ」



「えっ、そうなの?!」



 少年が目を丸くして、大きな声を上げる。



 お爺さんは、目尻をふっと垂らし、ゆっくりと頷いた。



「えー……じゃあ、わざわざこんな時間に家を出てきた意味ないってことか」



 少年がほっぺを膨らませると、お爺さんはくくっと喉の奥で笑った。



「星はただ、そこにあるだけ……。願う心が、あの光を動かすんだ」



 少年は、きょとんとする。



「どういうこと?」



「流れ星に願おうとする、あの一瞬な。

 あれは、魂の奥がぐっと揺れるときだ。

 ……そういう想いはな、思ってるよりずっと、遠くまで届くもんさ」



 少年はしばらく黙って、空を見上げる。

 そしてぽつりと。



「……じゃあ、叶うかな。ぼくの願い」



 お爺さんは、そっと空を指差す。



「叶った願いは星になる。

 叶わなかったやつは、風になってどこかに飛んでく。

 ……けどな、諦めずに願い続けるやつの空には、

 星は消えずに残るもんだ。

 いつかはそれが、道を照らす光になるかもしれんよ」



 気づけば、空は宝石の海だった。


 ひとつひとつの星に、人の想いが宿っている気がした。


 星たちは瞬きもせず、ただそこにあった。

 誰にも気づかれなくても、消えることなく、静かに夜を照らしていた。



 それは、誰かの愛。

 誰かの祈り。

 まだ言葉にならない、淡い願いごとかもしれない。



 いくつの想いが、いくつの夜を越えてきたのだろう。


 見上げるほどに、胸の奥に何かが溶けていく気がした。



 風がやさしく吹いた。竹の葉が、さらさらと鳴る。

 少年のまわりだけ、時間がすこしだけ止まっているような気がした。



 この夜、この空は、

 きっといくつもの祈りが交わる場所だ。


 人の願いと、空の光がすれ違う、ほんのひとときの奇跡。



 空いっぱいに広がる、無数の願い。



 その光が、迷わずに進めって、言ってる気がした。


 僕の願いも、遠いあの空に届いてるといい。

 ……いや、きっと、もう届いてる。



 七夕の夜には、そんな風に信じてもいい気がした。




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