ないはずの部屋

助手席の男の子が差し出した五千円札は、俺の記憶にあるものとまったく同じ印刷ズレと色褪せ方をしていた。

 表面にはほんのわずかに焼けたような痕。

 そして裏側の端に、小さく書かれた鉛筆の跡のような記号――


 それは前夜、青山霊園の帰りに見つけた“最後の客”が置いていった五千円札と、まったく一致していた。


 「……これ、どこで?」


 訊くと、男の子は無言のまま、首を横にふった。


 母親が困ったように、後部座席から声をかける。


 「すみません、この子……急にこれ持ってきて。どこで拾ったのかも教えてくれなくて……」


 彼女自身も、不安げだった。

 だが俺は、それが“拾った”ものでないことを確信していた。

 そして同時に、この子が、あの夜の“何か”と繋がっているという感覚が、背骨の奥に冷たい水を流し込んだ。



 「行き先は、志茂の団地……で、よろしいですか?」


 母親は一瞬、黙り込んだ。

 やがて、諦めたように頷く。


 「はい。でも、もう部屋は取り壊されてて……何もないはずなんです。

  あの、ただ……“見に行くだけ”のつもりで。」


 俺はナビに住所を打ち込んだ。

 が、表示された団地の名前の横には、【解体工事中】のマークが点滅していた。


 団地の棟番号と部屋番号を入力しようとすると、システムが弾いた。

 「存在しない住所です」と表示される。


 母親が続けた。


 「3号棟の、202号室です。……この子が、どうしてもって……」


 俺は何も言わずに頷き、ハザードを切って、ハンドルを回す。

 北本通りから、さらに細い通りへと入っていく。

 街灯が少なく、霧のような雨がフロントガラスを曇らせていく。



 団地へと近づくにつれ、外の景色がゆっくりと“変わって”いった。


 古い低層の都営団地。

 取り壊しが始まったばかりの区域で、重機が止められたままのフェンスが並んでいる。

 立ち入り禁止のロープは切れかけ、錆びたバリケードがかろうじて入口を塞いでいた。


 けれど、その向こうに――灯りが見えた。


 工事現場にあるような投光器ではない。

 もっと暖かく、黄色く、蛍光灯と白熱灯の間のような――古い団地特有の階段灯の光だった。


 「……ついてる、ね……」


 助手席の子供が、ぽつりとつぶやいた。



 3号棟は、取り壊し予定の最後に回されている一角だった。

 その中央の階段は、まるでいまでも人が住んでいるかのように、整然とした雰囲気を保っていた。


 俺は車を敷地の前に停めた。

 ここから先はもう、タクシーでは進めない。


 「……つきました。お足元、気をつけてください。」


 母親がゆっくりと降りる。

 だが、子供は助手席に座ったまま、動かなかった。


 雨は細く、傘を差すかどうか迷うほどの霧雨だった。


 「行くよ。」


 母親が助手席のドアを開け、子供の手を引こうとする。


 そのとき――

 子供の手首に、白い手が添えられているのが見えた。


 女の手。

 指先が異様に長く、濡れているように見えた。

 腕の主は助手席の下から這い上がるように、男の子の手を握っていた。


 「……!」


 俺は反射的に目を逸らした。

 だが、もう遅かった。


 助手席のドアが閉まり、男の子が立ち上がる。


 白い手は、見えなくなっていた。



 子供と母親は、ゆっくりと団地の階段へと消えていった。


 その背中に――

 「見送る」誰かの視線が、俺の背中越しに突き刺さっているようだった。

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