その子は知っていた

車を走らせながら、俺は何度か、ちらりと助手席の男の子に目をやった。


 信号待ちのたび、ルームミラーではなく、横目でそっと確認する。

 だが、彼はうつむいたまま、シートベルトも締めず、ただじっと座っていた。

 外の景色にも、俺にも興味を示さない。


 それでも、どこか“落ち着いて”いるように見えた。

 まるで、この席に座ることが決まっていたかのような、そんな姿勢だった。


 後部座席から、母親がそっと声をかけてきた。


 「この子……あまり人と話さないんです。すみません。」


 「いえ。全然、大丈夫ですよ。」


 そう返しながらも、車内には妙な沈黙が流れていた。

 母親はそれ以上話そうとせず、男の子は相変わらず無言だった。


 だが、やがて――


 助手席の男の子が、小さくつぶやいた。


 「……前にも、ここ、乗った。」


 その声は、思いのほかはっきりしていた。

 俺は、思わずハンドルを持つ手に力が入った。


 「え?」


 聞き返すと、彼は顔を上げず、同じ言葉を繰り返した。


 「前にも、この車、乗ったことある。」


 心の奥に、ひやりとした感触が走る。

 思い返してみても、俺にはこの子の記憶がない。

 年齢的に、低学年か――もしかすると保育園あたりの年齢に見える。


 たしかに、過去に子供を乗せた記憶はいくつもある。

 だが、それがこの子だったかどうかまでは、判然としない。


 ただ、何かがひっかかる。


 少しだけ視線を落とし、男の子の足元を見る。

 泥が乾きかけたスニーカー。雨で少し濡れた靴下。

 手元にはランドセルを抱えていた。


 そして、そのランドセルの脇から、古びた紙袋が覗いていた。


 紙袋は、北区内の某スーパーのロゴが入ったもので、角がすでにふやけている。


 母親が小さく言った。


 「……この子、団地でいじめに遭ってて。いまは別の場所で暮らしてます。」


 俺は「団地」という言葉に、軽く反応してしまった。

 まさか、また――?


 「もともと、どちらの団地だったんですか?」


 「……志茂の、昔からある都営団地です。今はもう取り壊しが始まってて……」


 志茂の都営団地。


 第一話『最後の客』で、女が“帰っていった”あの団地と、同じエリアだった。


 男の子は、少しだけ顔を上げた。

 その頬には、小さな痣のような、引っかき傷のような跡があった。

 生々しくはない。だが、時間だけでは癒えない種類の痛みを感じさせた。


 「……おじさん。」


 「ん?」


 「さっきの五千円札、まだある?」


 ぞくり、とした。


 意味がわからなかった。

 なぜそんなことを言う?

 そして――なぜ“知っている”?


 俺は思わず、胸ポケットに手を伸ばしかけた。

 だが、触れたくなかった。

 あの札は、昨日、いや数時間前に受け取ったはずだ。

 平成元年発行の、使われなかった五千円札。


 「……どうして、そのことを知ってる?」


 俺がそう聞くと、男の子は、

 黙って、自分のランドセルの中を開けた。


 そして、そこから取り出したのは――

 もう一枚の、同じ五千円札だった。

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