第39話 槍を帯びて、扉を叩く
空は晴れていたが、風は冷たかった。砦の中庭には冬の名残が色濃く、石畳の隙間に吹き溜まった砂が小さく舞っていた。
オズベルは槍の石突を地面に軽く打ち、足元を一度見下ろしてから顔を上げた。正面、石段の上に立つファーレンは、既にその背に外套を羽織り、革の帯には礼装用の剣を佩いていた。
「今日から三日ほど、外を回る。……お前たちも、同行してもらう」
そう言って、騎士は視線を従士たちに向ける。言葉に重みはあれど、緊迫したものではなかった。あくまで騎士の命として――そして、従者には当然の任として語られる。
「まず向かうのは、アランダ家の領。北側で我らと接する者だ。続いて、オルメル家、最後にヴェスタンの使いと顔を合わせる。挨拶回りだ。形式としてはな」
「アランダ、オルメル、ヴェスタン……どこも名のある家ですな」
ラルスがやや皮肉気味に呟く。だがファーレンは応じなかった。ただ外套の端を整え、背筋を伸ばして馬丁に軽く頷く。
砦の外に馬が用意されている。その数は少ない。領主と従士三名、従騎士一名、そして口の固い馬丁が一人。小さな行列だが、目立たぬための配慮でもあった。
オズベルは口を閉ざしたまま、槍を肩にかける。これから向かうのは、剣ではなく言葉が交わされる場。だが、その背に槍があることを誰も咎めはしない。
――それもまた、騎士の姿だからだ。
道すがら、ファーレンは言った。
「……俺たちは戦で地を得た。だが、その地を周囲に認めさせるには、礼を尽くすしかない」
従士たちは黙ってそれを聞いていた。
それは、槍で切り開いた道に、言葉と信義で橋をかける作業なのだと、オズベルはぼんやりと思った。
アランダ家の館は谷あいにあった。かつて水運が栄えたという土地柄のせいか、門構えはやや古びてはいたが、石積みの塀は厚く、城館の上には細く尖った旗が揺れていた。
正門前に馬を止めると、門番が二人現れた。武骨ではあるが、槍の持ち方に怠りはない。どちらも中年に近く、若者は見えない。
「ご用向きは」
門番の一人が問いかける。
ファーレンは馬上のまま、少し身を乗り出して言葉を返す。
「ヴァルト丘地を拝領した騎士、ファーレン=グライスである。ご当主アランダ殿へ、ご挨拶のため参上つかまつった」
一瞬、風が吹いた。門番が互いに目配せし、小さく頷き合うと、一人が内へと駆け込んでいく。
残された方は、改めてファーレンの背後に目を向けた。馬上に控える従士の姿をゆっくりと確認する。
オズベルはわずかに目線をずらした。肩に背負った槍、腰に佩いた小剣、磨かれた具足。そのすべてが――周囲の視線を受け止めるための装いであると知っていた。
しばらくして門が開いた。
「ご当主がお通しせよとのこと。奥座敷にてお待ちです」
館の中庭は静かだった。兵の姿は少なく、かわりに年老いた使用人や庭の手入れをしている者たちがちらほらといた。
奥座敷に通されたのは、決して広くはないが、落ち着きのある間であった。襖の向こうに控える音もなければ、話し声もない。
そして間もなく、一人の男が現れた。
灰色の衣を纏い、杖をついた細身の老人。背筋はやや曲がっていたが、目の光には衰えがなかった。
「これは……お若い。噂には聞いておったが、なるほど、戦場で槍を振るうはこういう男か」
アランダ家当主であった。
ファーレンは丁重に礼を述べる。オズベルたちは後ろに控え、言葉を挟むことはない。
礼の応酬は、慎ましくも緊張を孕んでいた。
「地を得た若き騎士」と、「地に根差す老いた家」。立場も、血脈も違う。それでも今、同じ座敷に膝を揃え、言葉を交わす。
騎士の世界とは、こういう場所なのだと、オズベルは胸の奥で思った。
***
応接の間に差す光は、午後のそれだった。障子越しに柔らかな陽が入り込み、畳に淡い線を落としている。火鉢には炭が細く赤みを残し、脇に置かれた小皿には栗の菓子が三つ、丁寧に並べられていた。
「まずは、ようおいでくだされた。戦の報せは拝見しておりましたが、領を預かるというのはまた、別の顔が要りますな」
アランダ家当主――エルミン=アランダは、そう言って茶を口にした。白髪の髷はきちりと結われており、所作も乱れがなかったが、その眼差しには老獪なものが潜んでいる。
ファーレンは姿勢を崩さず、静かに応じる。
「不手際のないよう努めてまいります。いずれ、このヴァルトの守りが皆様の助けとなればと」
「ふむ。ならばなおさら……お若い身で、随分と立派な従士をお連れだ」
視線が、ファーレンの背後――オズベルへと一瞬だけ流れた。
オズベルは気付かぬふりで伏し目がちに立っていたが、その空気の変化はよく分かっていた。言葉の中に、試しも、観察も、含まれていた。
「槍使いか。名は?」
「オズベル=ハスタと申します」
短く、しかしはっきりと応じる。こういう場では、言葉の多寡が印象を分ける。
エルミンは小さく頷いた。深く追及することはなかった。
「ふむ、代々仕えている者か?」
「いえ、戦の果てに拾っていただきました」
「なるほど……それもまた、騎士の家というものか」
語尾には含みがあったが、それ以上は言わず、茶を飲む音だけが部屋に満ちた。
やがて、当主は少し背を屈め、茶碗を畳に置いた。
「余談ながら、隣国では再び兵の動きが見られます。北の諸侯、特にフリム辺境伯の動向には目を光らせておいた方がよろしかろう」
「承知しております」
ファーレンは表情を変えず応じた。
オズベルは、内心で舌を巻いていた。地の者とはいえ、アランダ家がここまで情勢に通じているとは。砦に届く報せよりも、幾分早い。
その後も形式的な話が続き、贈答の品について、今後の往来について、幾つかの取り決めが交わされた。淡々とした、だが重要な時間だった。
やがて、日が傾きかけた頃――
「では、これより他の館へも?」
エルミンが尋ねると、ファーレンは「はい」とだけ答えた。
「ご当主の健勝を祈ります」
立ち上がったファーレンに倣い、従士たちも姿勢を正す。
外へ出ると、陽は斜めから射していた。庭先にいる使用人が、静かに頭を下げる。
「……いかがでしたか、ファーレン様」
砦へ戻る馬上、オズベルが控えめに尋ねると、ファーレンは一度だけ息を吐いて笑った。
「剣は抜かずとも、斬られる心地だったな」
オズベルもラルスも黙ったままだったが、どこか頷き合うような空気が、そこにあった。
館を辞してなお、日は高かった。
谷を抜ける道は細く、ところどころ岩肌が露出していた。木陰の下では涼しい風が吹き、騎乗したままの一行に、わずかな緩和を与えていた。
オズベルは黙って馬を進めていた。背後にはラルスが続いており、先頭にはファーレンがいる。
彼の背中は、先ほどまでのやりとりを通してなお、少しも揺らいでいないように見えた。
「……面倒なものですな、騎士というものは」
ぽつりと、ラルスが呟いた。馬上で手綱を軽く引きながら、やや気怠そうに言葉を続ける。
「話す相手も、礼の仕方も、食う菓子まで気を遣うのですから」
「お前が口出す立場じゃない」
オズベルが小さく返すと、ラルスは笑った。
「ええ、それはまあ。……でも、やはり見ていて思います。ファーレン様、よくやっていらっしゃる」
その言葉には、からかいの色はなかった。むしろ素直な敬意が滲んでいた。
オズベルは視線を前に戻す。丘陵地を縫う道の先で、ファーレンの背が小さく揺れている。
――この数年で、変わったのは自分だけじゃない。
あの少年のようだった従騎士は、今や堂々たる騎士となった。諸侯に頭を下げ、地を治め、兵を預かる。それを見続けてきたからこそ、自分も変われたのだと、そう思う。
「……砦に戻ったら、すぐ報告書か。ああいうの、書き方が厄介で嫌になる」
ラルスの愚痴に、オズベルは答えなかった。ただ一つ、小さく息を吐いて、静かに笑った。
――そうだ、騎士というのは、戦場にいるときだけじゃない。
語り、調べ、挨拶し、振る舞う。それもまた、槍を持つ者の責任なのだ。
ファーレンの背に、そう教えられた。
この地を守ると決めたならば、自分もまた、それを支えねばならない。
砦が見えてきた。空の色が、少しだけ茜に染まり始めていた。
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