第38話 戦の後、静けさの中で

 戦の終わりを告げる声が響いてから、幾日かが経っていた。

 砦の上空を覆っていた黒煙はようやく晴れ、風の音が再び耳に届くようになっていた。騒がしかった野営地も、今は静けさの中にあり、槍や盾が打ち鳴らされる音も、怒号も、もはや響かぬ。


 オズベルは、砦の一角に設けられた仮の控え所で、報告書の確認に目を通していた。

 かつては文字に触れることすらままならなかった男が、今では兵の配置や負傷者の状況を把握する文面を読み下し、次の動きに備える立場にある。手は大きく、筆にはまだ不慣れな力がこもるが、それでも頁をめくる所作に迷いはなかった。


 控え所の扉が開き、一人の若い従者が入ってきた。泥に塗れた衣のまま、片腕で小包を抱えている。


「オズベル殿、負傷者の一覧、今朝分を追加で。詰所の者が――」


「ああ、そこに置いておいてくれ」


 返事をしながら、オズベルは視線を文から逸らさずにいた。

 声の調子に威圧はなく、だが気を許す隙もない。彼が何者であるかは、すでにこの砦で知れ渡っていた。ファーレン=グライスの腹心、槍を掲げる従士のひとり。


 少年のような面影を残していた頃の姿は、もはやそこにはなかった。


 若者が退出したあと、オズベルは筆を止めて小さく息を吐く。

 報告書の片隅、戦功者の記録に自らの名を見つけてしまったからだった。


 「……ハスタ」。

 名乗りを得たときの感触が、ふいに胸裏に蘇る。鉄の冷たさと、泥の匂い、剣戟の残響。

 だがその記憶も、いまはもう遠い過去のようだった。


 報せによって書きとどめられる名。それが何を意味するか。

 ただの従士である身に、それが何をもたらすか。


 何度も戦場を踏みしめ、幾度も死を見た。槍の穂先を、ただ命じられた方角へ向け、歯を食いしばって進んできた。名が記録に残るということ。それは――誰かが、それを記憶するということだ。


 だがオズベルはすぐにその思考を断ち切った。

 己の務めは、記録されることではない。命じられた役目を果たすことだ。彼の考え方は、変わっていなかった。


「……まだだ。これからだ」


 静かに呟き、筆を再び握る。視線は文字に戻り、戦の後を整えるための段取りに集中を戻す。

 その額には、焚き火の明かりが揺れていた。どこか遠くの野営地では、戦を終えた兵たちが火を囲み、剣を磨いている頃だろう。


 その夜、砦の高所から吹き下ろす風に、ファーレン家の旗が音を立ててはためいた。

 かつては名も持たぬ槍であった男が、その下で務めを重ね、そしてまた一歩、深く踏み出していく。


 翌朝。砦の中庭に整えられた仮設の会所に、軍務局からの使節団が姿を現した。

 帝都からの伝令と、それに随行する書吏、それに記録官の一人。いずれも戦場の土臭さとは無縁な身なりをしている。だが、その背後にある権威は、どの兵にも見紛うことはなかった。


 ファーレン=グライスは、戦における自部隊の行動を問われ、短く、的確に応じた。


「――東側の丘陵帯に敵の魔法兵が布陣しているとの報が入りました。

 私の従士らが斥候と共に状況を確認し、私の命により、側面から一隊を迂回させる動きを取りました。これにより、敵の魔法兵は混乱し、主戦線の圧迫がやや緩和されました」


 語調に誇張はない。勝利の主因を主張するわけでもなく、淡々と事実を伝えるのみである。

 だがそれを受けた記録官は、僅かに筆を止め、書面の余白に何やら細かく書き加えていた。


「して、その側面突撃を先導したのは?」


「私の従士。オズベル=ハスタです」


 記録官は「ふむ」とだけ短く頷いた。続けて戦功の詳細を尋ねようとするも、ファーレンはそれ以上多くを語らなかった。

 ただ、「従士として、なすべきことを果たしたまで」と言って、問いを打ち切る。


 会所の一隅では、陪席していた別の中隊長たちが、小声で囁き合っていた。


「ハスタ……あの名、以前にも聞いたな。どこかの戦報で」

「ファーレンの従士か。なるほど、道理で……」

「従士であの働きとは、大したものだ」


 噂話のようなそれらの声が、すぐに記録官の耳にも届いたのかもしれない。

 だが、記録に残されたのはあくまで「ファーレン隊の動き」としてだった。従士個人の名は、表の文面には記されることはない。

 それが、帝国の軍制における序列であり、慣例であり、主君の影に生きる従士の宿命でもあった。



 報告を終えたファーレンは会所を後にし、砦の内道を歩く。

 その背に陽が差し、影が長く伸びる中、彼の口元にかすかな笑みが浮かんだ。


「……知られていくのも、そう悪くはない、か」


 その呟きは誰に向けられたものでもなかった。


 砦の壁を渡る風が、再びファーレン家の旗を大きくはためかせた。


 その日の夕刻。砦の裏手、乾いた土の広場に数名の従士たちが集まり、各々の武具を点検していた。

 斬れ味を確かめる者、革の綴じ紐を縫い直す者、ただ黙って火のそばに座る者。戦の緊張が過ぎた今、彼らの動きにはどこか気だるげなものが漂っていた。


 オズベルは、柄の根元に泥のこびりついた大槍を、石に立てかけていた。

 いつもよりも手入れは念入りだったが、その手の動きに焦りや昂りはなかった。目の前の鉄を静かに見つめ、ただひたすらに拭い続けている。


「……やけに丁寧だな。次が控えてるってわけでもねぇだろ」


 声をかけてきたのは、ラルスだった。

 腰掛けた岩に背を預けながら、酒袋を片手に、疲れたような笑みを浮かべている。


「いつも通りですよ」


「へえ。そうは見えねえけどな。なんだ、また呼ばれる気でもしてるのか?」


 冗談のように投げかけられたその言葉に、オズベルは槍を拭う手を止めることなく答えた。


「……戦のあとに油断した槍は、次の戦では折れるのではないかと不安になりまして」


「まったく、真面目なこったな」


 ラルスは呆れたように鼻を鳴らしたが、それ以上何かを言うことはなかった。


 二人のあいだに、焚き火の火音と、どこか遠くの鳥の声が流れていった。

 やがて、ラルスが重い腰を上げ、立ち去ろうとする。


「ま、どうせすぐに何か始まるさ。お互い、気張ろうや」


 オズベルは頷くだけだった。言葉ではなく、姿勢で応じる。

 火の粉が舞い、槍の穂先にわずかに赤が映る。


 静かな夜だった。だが、いつまた命を賭ける日が来るかは、誰にもわからない。

 それでも彼は、今できること――槍を整え、心を静めることに集中していた。


 名を記されるかどうかではなく、自らの役目を果たすために。


 砦の塔の上――見張りのために設けられた高台に、ファーレンは一人、腰をかけていた。

 夜の帳が降りる直前、空は朱と藍のあいまいな境にあり、風が絶えず吹いている。城壁の下では兵たちが交替を終え、夕餉の支度を始めている頃だった。


 手すりに肘をかけながら、彼は何も言わず遠くを見ていた。

 視線の先には森と丘、そのさらに向こうに、かつて自らが従士として従った騎士の旗が翻っていたあの戦場の地――今はただの黒い影となって沈むばかりだった。


 足音がひとつ。

 オズベルだった。


「ファーレン様。次戦について、何か動きは――」


「まだだ」

 その返答は、短く、冷たいものではなかった。ただ静かで、重みがあった。


「帝都からの使いが正式に到着するには、もう数日かかるだろう。だが、その後のことは……早い」


 ファーレンは、風にたなびく自家の紋章旗を一瞥し、続けた。


「今回の戦で我が家の名は、ようやく記録される側になった。だが、それは……足場が整ったに過ぎない。今からが、本当の戦だ」


 オズベルは小さく頷いた。その言葉の意味が、わからないわけではない。

 貴族の世界で、旗を掲げることは始まりに過ぎない。その旗を守り、広げ、価値あるものとするのは、地と人と、数多の戦功によって成される。


 そしてそれを担うのは、他でもない従士たちであった。


「お前には……一つ、問うておこう」


 ファーレンの声が、今度は風に溶けず、はっきりと空に響いた。


「俺の旗の下で、これからも槍を構える覚悟はあるか?」


 オズベルは迷わなかった。


「はい。私は、ファーレン様の槍です」


 そう口にする頃には、彼の中で何かが既に定まっていた。

 主の声に応えるのではなく、自らの意思として。


 塔の上に、夜の気配が満ちる。

 どこかで遠雷が鳴り、やがて風がまた、強く吹いた。

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