第36話 兄弟喧嘩④
ゆらりと、レイヴンのマントの中から春陽が出てきた。虚ろな瞳に、黒島の緊迫した顔が映る。
「貴様らか…。なぜ、春陽を連れていった?」
黒島が注意深くフランベルジュを構えながら、尋ねる。
「もともとF506は、H.B.Rのモノだよ。ラボの試験管で生まれて、ラボで育って…24年前に、ある特殊部隊の襲撃を受けて、1歳で連れ去られた」
レイヴンの口元に笑みが広がる。
「君、おかしいって思わなかった?彼女の髪の色。天然だなんて有り得ないだろ?筋力もだよ。筋繊維密度が常人の8倍なんて突然変異にもほどがある。――H.B.R社が受精卵の段階から人為的にコントロールして開発した超人なんだよ、F506は」
「だから何だ。彼女はもうF506じゃない、春陽だ。心優しくて愛らしい、俺の妻だ」
「…君達さぁ…もしかして、普段からナチュラルに言葉の端々で惚気てるの?あの“バカップル通信”だけじゃなくて?」
うぇ、とレイヴンが舌を出した。
「愛しているなら当然だ!!何回叫んでも足りないくらいだ。春陽が貴様らにとってモノでしかないなら、俺に返せ。確実に幸せにしてやる」
「どうでもいいよ、F506の幸せとか。それよりも彼女は貴重な個体でね。当時、ラボで開発された超人は、人間を越える能力と引き換えに先天的な疾患を持っていたり短命だったりする傾向が強かったんだ。俺も、定期的にラボに入ってメンテしないと、多臓器不全で死ぬカラダ」
レイヴンが肩をすくめた。
「H.B.Rは、24年前の襲撃以来、病院や行政にネットワークを張って超人の子達を回収してきたんだ。メンテも受けずに自立して健康が保てる個体は、ほとんどいなかったよ。それが、F506は病院の世話にもならず、社会保障の世話にもならず、能力を発現させたまま心身共に健康に育っている。H.B.R本社は興味津々だよ。というわけで、君に返すことはできない」
春陽を回収したら、このまま、実験漬けにする気だろう。何が「ホーム」だ。黒島の胸に怒りが渦巻く。
「獣人兵達は、すでに何十頭も健康そのもので跳び回っているようだが」
黒島の反論に、レイヴンは大げさに顔をしかめた。
「あんな量産型と、俺達プロトタイプを一緒にしないでよ。俺達は一体一体、丁寧に遺伝子を調整して作られているんだ。だから、獣に変身しても自由に人間に戻ることができる。F506や“フレイム”――彼もホントの番号はM332だけど――彼らみたいに超人的な能力をつけ加えるよりは、俺のように獣と合成したような手法の方がまだ成功率が高い、という判断で、ここ十数年は獣化技術の汎用性を上げるように研究が方向転換したのさ。受精卵から弄るんじゃなくて、すでに健康に育った成体を使ってね」
「…大成功だな」
ふんと黒島が鼻で嗤った。用途としてはおおかた、生物兵器として各国に売りつける気なのだろう。
「そうでもないんだなぁ…あれらは、一度、獣化したら戻れないし、発現条件も不安定だ。能力もまちまちで、完全にオーダー通り、生産・運用をコントロールすることはまだできない」
レイヴンが唇に薄く嘲弄を浮かべる。
「さぁ、F506。お家へ帰ろう。あの邪魔者を片付けてね」
春陽の翡翠の瞳が燐火のように光った。次の瞬間には、黒島の間合いに飛び込んでアーミーナイフを斬りつける。黒島が飛び退いて距離を取った。さらに踏み込んできた春陽のナイフをフランベルジュで受け止める。重い斬撃を何とか押し返して跳びすさった。
「春陽!君の還るところはこっちだ!俺のところだ!」
「おうち…かえらなきゃ…」
黒島の呼び掛けに応じる様子もなく、春陽が斬りかかってきた。黒島が身を捻って躱し、春陽の後ろを取る。このまま羽交い締めにできたら、と思ったが、春陽は凄まじい反応速度で体勢を整え斬り込んできた。黒島がまた飛び退いて、距離を取る。
「接近戦で勝つのは無理じゃない?さっきみたいに銃使ったら?それとも非情な君も最愛の女には使えない?」
レイヴンが小さく欠伸した。
「当たり前だ!へのへのもへじが春陽と同列になど並ぶか!」
いっそ爽やかなまでに堂々とした掌返しに、レイヴンの欠伸も止まる。
「かえるの…おうちに、かえるの」
黒島が、斬り込んできた春陽のナイフを弾いて距離を取る。
――幼児のような口ぶり…意識状態そのものが変容しているのか。
騙しや洗脳によってH.B.R側についているというよりは、多重人格のような状態。目の前にいる女の中身は、25歳のT部隊コマンダー・寺岡春陽ではないということだ。
――催眠暗示のような?ならば、何かしらのトリガーがあったはずだ。
突き込んできた春陽のナイフを避けて後退する。そのとき、ハッと黒島が顔を上げた。春陽が、燐光を発する瞳からポロポロと大粒の涙を流している。
「おうち…かえらなきゃ…。おうち、かえりたいの。でも、わかんなくなっちゃったの…」
微かに震える、アーミーナイフ。春陽が幼女のようにしゃくり上げる。
「おうち、かえるの…。べつの、おうちにかえるの…わかんなくなっちゃったの…」
握りしめたフランベルジュが手の中で震える。零れ落ちる涙を見ていた黒島が一度、きつく目を閉じて――がらん、とそれを手放した。
――ああ…俺には無理だ。君を殺すなんて。
「春陽、おいで」
丸腰になった両腕を広げる。
「あはははははは!!いいね!そう来たか!!“非情の戦士、愛に死す”!!」
レイヴンが笑い転げる。
「…F506」
ひー、と涙を拭くレイヴンの声に、春陽がビクリと肩を震わせた。
「あいつはシロアリだよ。僕らのお家をボロボロにしてしまう」
黒島が朝晩愛おしんできた、花びらのような唇が歪んだ。
「う…あああああ!!!」
春陽がアーミーナイフを腰だめに構えて、黒島に突っ込んでいく。突進してくるその顔は涙と苦しみに歪んだ鬼女そのもの。黒島が朝な夕なに愛した表情は微塵もなく、しかし、確かにその女は春陽だった。
ぽたぽたと床に垂れ落ちる、鮮血。
「おかえり、春陽…遅くなってすまない。もう1人じゃないぞ」
黒島が、右手で春陽のナイフの刃を握り込んで止めていた。左手が春陽の頬を包む。そのまま、手を滑らせて春陽の耳からインカムを引き抜き、廊下の隅に叩きつけた。
春陽の瞳が燐光を失うのと同時に、うなじに黒島の手刀が決まる。ずるりと崩れ落ちる身体を左腕が受け止めた瞬間、春陽のボディソープの匂いが鼻をかすめる。温かい。確かに、生きている。
黒島は、そっと彼女を床に寝かせた。
「へ…ぇ、よく気付いたね。音がトリガーだって」
レイヴンがパンパンと手を叩く。
「“春陽にしか聞こえない雑音”…貴様らがネットワークを乗っ取って、常人には聞こえない周波数の音を流したな?それが、催眠暗示のトリガーだ」
「そこまで判るの?冴えてるね。…俺ら超人の力は強大だからね。勝手な意志を持って暴走されたりすると困るんだ。だから、ある周波数の音を聞くと自我を失って特定の意識状態になるように仕込まれているんだよ」
俺もね、とレイヴンが自らのこめかみをつついて見せる。黒島が左手で床のフランベルジュを取り上げた。
「…お節介かもしれないけど、戦場で利き腕ツブしちゃって、大丈夫なの?」
レイヴンが嘲るように笑う。
「は?5年一緒に戦った愛刀だ。両手で遣えるに決まっているだろう」
すぅ…と黒島が剣を構える。
「おっと、勘弁…。俺の能力は“移動”だけなんだ」
レイヴンがマントを翻す。黒島の視界がバサバサと黒い羽根で覆われたその刹那、レイヴンの双眸が冷ややかに燐光を発したのが見えた。再び開けた頃には、レイヴンの姿は影も形もなくなっていた。
「春陽…!春陽…!!」
黒島が、床に伏した春陽の身体を搔き抱いた。その頬に、額に、唇に、雨のような口づけを降らせる。まるで、その口づけで姫の眠りを覚ませるかのように。
〈つづく〉
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