第29話 厳重に
なるべくヴァルトを見ないように、声を聞かないようにと努めながら、リヴィアは黙々と作業に取りかかった。
エドモンが赴任してからは、彼の作成する書類の整理や、蝋板の管理がリヴィアの主な仕事となっていた。
ヴァルトやエドモンの指示を書き写した蝋板を、町の子どもたちに配達させるのもその一環である。
現場主義のヴァルトは頻繁に視察へ出かけるが、簡単な伝達は蝋板に任せているため、領主邸にいる時間も以前よりは増えていた。
「リヴィア、アレクシス陛下に出す手紙を書いた。封を頼めるか?」
突然声をかけられ、リヴィアはびくりと肩を揺らした。
「は、はい」
差し出された手紙を受け取り、彼女は机に向かって宛名と封を整え始めた。
少しでも距離を取ろうと気を張っていたのに、ヴァルトの気配が不意に近づいてくる。
「なんでそんなに遠くにいるんだ?」
唐突に言われた一言に、リヴィアの胸が跳ね上がった。机越しにヴァルトがじりじりと近づいてくる。その瞳はいつも通り穏やかで、責めるような色はどこにもない。けれど、彼の気配がすぐそこにあるだけで、息が詰まりそうだった。
(近い、近い、近いっ……!)
「ちょ、ちょっと、あの、用事を思い出しました!」
封筒に手をつける間もなく、リヴィアは半ば逃げるように椅子を引き、部屋を飛び出した。
廊下の角を曲がると、胸に手を当てて深く息を吐く。鼓動がうるさくて、自分でもどうしていいかわからない。
(いったい、私どうしちゃったのよ……)
そのまま向かったのは厨房だった。
*
リヴィアは無心で乾燥豆の仕分けに没頭していた。
ざらざらとした木の盆に広がるひよこ豆やそら豆。指先に伝わる硬さや滑らかさに集中し、小石の冷たさや時折混ざる小さなゴミのざらつきを確かめながら、一粒ずつ取り除いていく。
その単調な音と感触が、胸のざわめきをかき消すようだった。
(考えてはいけない。あの声も、あの距離も、思い出してはいけない)
そう心に言い聞かせ、リヴィアは黙々と手を動かし続けた。
時折、厨房の女たち――マルタやアニエスが心配そうにこちらを窺うが、視線を合わせることはなかった。
指先の感触に集中するうち、少しずつ感情の嵐は遠ざかっていく気がした。
目の前の豆だけに意識を向けることができる。これが、今の彼女にとって唯一の安らぎだった。
「……あんた、いつまでサボってるんだい」
背後からイザベラの鋭い声が降ってきて、リヴィアは思わず肩をすくめた。ようやく顔を上げると、促されるままに豆の入った盆を脇に置き、イザベラのあとについて部屋へと向かった。
「……あんた、恋してるだろ?」
開口一番、イザベラは腕を組みながら小馬鹿にした笑みを浮かべ、ズバリ話の核心を突いた。
リヴィアは顔を伏せ、鼓動が速まるのを感じた。
「なんだい、それくらいお見通しだよ。で、相手は誰だ?」
沈黙するリヴィアに、イザベラは鼻でフンと笑った。
「マルセル――いい男だけどね。お調子者すぎて、あんたには荷が重いよ。たぶんうまくいかない」
「ドジ眼鏡――は絶対やめときな。あれとあんたじゃ似た者同士すぎて生活が破綻するから」
イザベラがからかい気味に言うと、リヴィアは思わず眉をひそめた。
「ベルトラン――はありえないね。あいつにはもう許嫁がいる。あんたにちょっかいなんて絶対かけないよ」
次に挙がるであろう名前を考えると心臓が少しずつ重くなっていくようだ。
「――やっぱり領主様かい? まぁ、そうだろうね」
イザベラはにやりと笑い、リヴィアの目を真っすぐに見据えた。
「安心しな。言いふらしたりなんてしないよ。でもまあ……領主様、かぁ」
その一言に、リヴィアはほんの少しだけ息をついた。心の奥で張り詰めていた何かが、少し緩むのを感じた。
「領主様はねぇ、あたしの見立てじゃ――恋をするには、かなりの難物さ」
イザベラはため息交じりに言葉を続けた。
「見目はいいし、金もある。国王陛下の覚えもめでたいし、武功も文才もある。しかもあの性格だろ? 真面目で誠実。女が放っておくわけがない。そんでもって、理想も高そうときてる」
リヴィアの胸に、じわりと不安が広がった。ヴァルトと結ばれる未来を夢見ていたわけではない。けれど、誰かと並んで歩く彼の姿を想像するだけで、心の奥がきゅうっと痛んだ。
「……それでもね、あんたみたいな子が、実は一番あの人には合ってるんだよ」
不意にイザベラの声が柔らかくなった。
「面倒くさくて、不器用で、すぐ一人で抱え込んで。……でもそばにいるだけで、あの人の心の鎧が少しだけ外れるような。そういう相手が、あの人には必要なんだよ」
リヴィアはうつむいたまま、きゅっと唇を噛みしめた。
胸の奥にある言葉にならない想いが、喉のあたりで渦を巻いている。これ以上口に出せば、すべてがあふれてしまいそうで――。
「人生経験の長いあたしの目から見ればね」
そう切り出したイザベラは、卓上の茶器にゆっくりと湯を注ぎながら、ちらとリヴィアに視線を向けた。
「領主様も、あんたのことをまんざらじゃなさそうだけどねぇ」
その一言がリヴィアの耳に飛び込んだ瞬間、顔がぱっと上がる。
「本当に!?……あっ!」
思わず口を滑らせ、リヴィアは両手で慌てて口を覆った。
目を見開いたまま凍りつくように固まる。頬はみるみるうちに赤く染まり、まるで茹で上がったトマトのようだった。
(なにを言ってるの……わたし……)
胸の奥に秘めた“期待”という名の芽が、ばつの悪さとともに姿を現してしまった。
そんなはずじゃない、想ってはいけないと、あれほど自分に言い聞かせていたのに。
「まぁ、まだ五分五分ってとこだね」
イザベラはくつくつと笑い、湯気の立つ茶器に蓋をした。
その手つきはどこまでも落ち着いていて、大人の余裕を漂わせている。
「でもね、恋ってのは一方通行から始まるもんさ。頑張んな。応援してあげるよ、あたしは」
「だ、だめですっ!」
リヴィアは勢いよく立ち上がりかけ、慌てて座り直す。
「私は……領主様と、どうこうなろうだなんて……考えてませんからっ」
声がわずかに震えていた。胸の奥の“願い”を否定すればするほど、逆にその存在が色濃くなる。
それが恐ろしくて、リヴィアは唇をかみしめたまま俯いた。
「……イザベラさんは、どうして応援してくださるのですか?」
リヴィアはうつむいたまま、指先をぎゅっと握りしめた。
「私は……流刑を受けている身です。結婚なんて、きっと難しいことだって……わかっているのに」
言葉の端が震える。期待してしまった自分が恥ずかしく、情けなくて、どこか苦しかった。
「さぁてね」
イザベラは少し目を細め、手にしていた茶器を軽く傾ける。
「なんでかは、あたしにもよくわからないけどさ」
そう前置きしてから、イザベラは湯気の立つ湯にそっと口をつけた。
あたたかいものが喉を通るたび、言葉も少しずつやわらかくなる。
「――女なんてさ、どれだけ相手を好きでも、選ばれるのを祈るしかない身さ」
イザベラの声は、いつになく低く、静かだった。
「選んでくれたとしても、結婚できるかどうかは、本人と……それから親次第」
リヴィアはそっとイザベラの横顔を見た。そこには、いつもの皮肉や冗談ではなく、どこか遠くを見つめるような表情が浮かんでいる。
「そういう意味じゃ、あんたもその辺の娘たちと何ひとつ変わらないよ」
ふっとイザベラが笑った。それは慰めとも、哀しさの裏返しともとれるものだった。
「好きな人と結ばれるなんて、奇跡みたいなもんさ。だからさ――応援くらい、させとくれよ」
言葉とは裏腹に、イザベラの表情には、ほんの少しだけ寂しげな影が落ちていた。
“女は選ばれる側”――それがこの世界の当たり前。
どれほど真っすぐに想いを寄せても、どれだけ心を尽くしても、自分ではどうにもならない現実がある。
イザベラはそれを、痛いほどわかっていた。
(それでも――)
それでも、願わずにはいられない。
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