第21話 孤児院

「リヴィア、お客さんだよ」


 今年最初の雪がちらつき始めたその日、ひとりの来客がリヴィアを訪ねてきた。


(誰かしら?)


 “フェルシェルの守り手”と呼ばれるようになって以来、感謝を伝えに来る人々は絶えなかった。だが、数ヶ月が過ぎ、そうした訪問もようやく落ち着いてきた頃だった。


 リヴィアはショールを羽織り、玄関へと向かった。


「どちら様?」


 扉を開けると、そこに立っていたのは、見覚えのある少年だった。


 ――母を病で亡くし、今は教会付属の孤児院で暮らしている子。

 リヴィアにとって、忘れられない少年だった。


「リヴィア様、俺……トマって言います!」


 少年は真っ直ぐにリヴィアを見上げ、少し息を弾ませながら続けた。


「あの、ちゃんとお礼を言ってなかったから……。お母さんのことも、あの時のことも……本当にありがとうございました! いつか、恩返しします!」


 照れくさそうに頭を下げるその姿が可愛らしくて、リヴィアは思わず笑みを浮かべた。


「気にしないで。孤児院のみんなと、仲良く過ごしてね」


 孤児院では、血のつながりはなくても、兄弟姉妹のように育つという。


 ――母を亡くしたという点では自分と同じ。でも、この子は違う。

 最期まで、確かに母親の愛情を注がれていた。


 きっとトマは、これからも人に愛されていける。

 孤児院の仲間たちが、彼の新しい家族になるのだ。


 かつて誰の愛も知らずに育った自分とは違う。

 だからこそ、リヴィアは心から願わずにはいられなかった。


 ――どうか、愛されて育って。

 あの時のお母さんのような、ぬくもりを忘れずに。


 トマの言う“恩返し”は、思いがけず早く、その機会を迎えることになった。



 *

 


 新しい蝋板を設置するため、リヴィアは町のあちこちを歩き回っていた。


 その日は、ことのほか冷え込みが厳しかった。

 南の王都で育ったリヴィアにとって、寒さは堪える。

 外套を何枚も重ねても、ぶるぶると震えが止まらなかった。


 いつもなら、ヴァルトが天候や体調を気にかけて、代わりに出向いてくれることもある。だがこの日は、家畜が凍えそうだと相談を受け、朝から町の外れに出ていた。


(もっと着込んでくればよかった……)


 後悔したところで、もう遅い。

 領主邸に戻るにはまだ距離があり、立ち止まっていては余計に体が冷えるだけだ。


 ふと見れば、町の人々は意外なほど薄着で、平然と歩いている。


 ――この町の人たちは、寒さに慣れているのね……


 肩をすぼめ、リヴィアは震えながら歩みを進めた。


「リヴィア様? 大丈夫ですか?」


 心配そうな声がかかり、顔を上げると――そこにいたのはトマだった。


「もしかして、寒い?」


 リヴィアが震えながら頷くと、トマは驚いたような顔をして、すぐに手を取った。


「……こっちです!」


 小さな手は意外とあたたかく、それだけでリヴィアの心もふっと緩んだ。


 トマに連れられて辿り着いたのは、彼の暮らす教会の孤児院だった。


「マザー! マザー・セラフィナ!」


 トマの声に応じて、年配の修道女が姿を現した。


「どうしました、トマ? まあ……貴女様は、リヴィア様ですね」


 穏やかな表情をたたえた修道女は、駆け寄ったトマをやさしく抱きしめた。


「リヴィア様がお外で凍えてらしたんです。だから、連れてきました!」


「それは良いことをしましたね」


 マザー・セラフィナは、にこやかにトマの頭を撫でた。


 その姿を、リヴィアはどこか憧れにも似た思いで見つめていた。


「リヴィア様、どうぞ中へ。暖炉の火にあたって、少しお休みください」


 促されて暖炉の前に座ると、冷えきった手がじんわりと温まっていく。

 ようやく震えも落ち着き、ほっと息をついた。


「あの、リヴィア様。こちらをどうぞ」


 ふと、年若い修道女が湯気の立つ器を手に差し出してきた。


「ありがとう」


 器を受け取ると、彼女はぱっと表情を綻ばせた。

 中身は温めたミルクのようで、口に含むと、やさしい甘さが広がった。


「あの……あたし、エリスと申します」


「はじめまして。シスター・エリス」


 そう名乗ると、シスター・エリスは顔を真っ赤にして、そそくさと奥へ引っ込んでしまった。


「あの……?」


 困惑するリヴィアに、マザー・セラフィナが静かに微笑んで言った。


「申し訳ありません。シスター・エリスは貴女様に憧れていましてね。緊張のあまり、あのような様子に。どうかお許しくださいませ」


「憧れ、ですか……?」


「ええ。神は、己を犠牲にしてでも人々に尽くすよう教えてくださっています。それをこの地で体現された貴女様を、若い修道女が慕うのも無理はありません。――かく言う私も、貴女様の高潔な御振る舞いに、敬意を抱いておりますよ」


 母親ほど年上の女性に、そんなふうに言われてしまっては、今度はリヴィアが顔を赤らめる番だった。


「いえ……私など、できることをしただけです。本当に、運が良かっただけで」


「それもまた、神の思し召しでしょう。――どうか、これからも神のご加護がありますように」


 そう言ってマザー・セラフィナは祈りの言葉を捧げた。

 つられるようにリヴィアも両手を組み、静かに祈る。

 この場所には、どこか温かく、清らかな空気が流れている。祈りたくなる気分になるのも、不思議ではなかった。


 

 *


 


「リヴィア様、今日はどうしてあんなところにいたの?」


 そばに寄り添ったトマが、素朴な疑問を口にした。


 リヴィアは笑って蝋板のことを話す。


「蝋板なら、我々もよく使っておりますよ。見本帳も、ありがとうございました。あれを見に来る者も、たまにおります」


 マザー・セラフィナは、以前見本帳を届けた際に一度会っていた人物だ。その後の様子を聞けたのは、リヴィアにとっても嬉しいことだった。


 


「ねえ、リヴィア様。蝋板って、絶対にリヴィア様が配らなきゃダメなの?」


 トマが問いかけてきた。


 リヴィアは小さく首を横に振る。


「そんなことはないわ。普段は、領主様も配ってくださっているし、設置も手伝ってくださるの」


「じゃあ、僕たちがやっちゃダメ?」


 ――それは、思いも寄らない申し出だった。


「……え?」


 目を丸くするリヴィアに、トマが重ねるように聞いた。


「ダメかな、リヴィア様」


「私は……構わないけれど……」


 ちらりとマザー・セラフィナを見ると、彼女は変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。


「皆のために働くのは、よい心がけです。――どうでしょう、リヴィア様。ここの子どもたちは皆、この町で生まれ育った者ばかり。いわば、自分の庭のように隅々まで知っております。給金など必要ありませんよ。この孤児院は、領主様から十分なご支援をいただいております。それ以上を望むのは、過分というものでしょう」


 その後、マザー・セラフィナは他の子どもたちにも話を聞き、手を挙げた者だけを蝋板設置係に任じることにした。

 安全を考慮し、必ず年長者と年少者のペアを組ませ、二人一組で動けるよう手配してくれた。


「リヴィア様。いつでも、温まりにいらしてください。皆、貴女様をお待ちしておりますよ」


 そう言って微笑むマザー・セラフィナと、手を振るトマたちに別れを告げて、リヴィアは領主邸へと歩き出した。


 何度も、何度も、振り返ってしまう。

 振り向けば、教会の窓に灯る明かりが、寒空の下でもあたたかく見えてならなかった。


 今の自分の「家」は領主邸だ。そこに戻らねばならない。

 ――けれど、どうしてだろう。

 あの教会の前を離れるのが、こんなにも名残惜しいなんて。


 陽だまりのような、あの場所のぬくもりが。

 ふと、心の奥に触れてくるのだった。

 

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