久野さやかは止まらない エッジスポーツ株式会社
はらはらまっさー
今日も私は、問題ない
私は久野さやか、28歳。
7月、なぜか急に岡山に行きたくなった。
理由はない。理由がないこと自体が理由だ。
人はたまに、そういう行動を取る生き物である。
夜行列車を予約した。
結果、悪天候で運休した。
――うん、まあ、そういうこともある。
返金は岡山でしかできないと言われたので、
翌日、新幹線で岡山駅に向かい、無事にお金は戻ってきた。
その過程で、たまたま辿り着いた古民家で、
「2時間以内に小説を書かなければ死ぬ」
という、冷静に考えなくても理不尽すぎるルールを課され、それでも私は小説を書き上げ、結果として今日まで生きている。
……我ながら情報量が多い人生だと思う。
そして今は8月。
暑い。
とにかく、暑い。
気温35℃が「今日は暑いね」じゃなくて
「今日もいつも通りだね」くらいの扱いになっている今年の夏は、もはや人類に対する嫌がらせの域に達している。
外に出ると、セミが鳴いているというより、
セミが道に転がっている。
生きているのか、力尽きているのか、判別に困るあの状態で、彼らはアスファルトの上に点在している。
いくら昆虫とはいえ、この暑さだ。
「極楽に行った方が早い」という判断を下したとしても、私は責めない。
7年間地面の中で待機して、ようやく羽化したら灼熱地獄。
それはもう、地面が恋しくなるのも無理はない。
……同情はする。
私だって、できることなら家の中でエアコンをガンガンに効かせて、文明の恩恵に全力で寄りかかっていたい。
でも、人間である以上、そうもいかない。
働かなくてはいけない。
お金を稼がなければ、快適な生活は手に入らない。
これは真理だ。
私はこれから、片道1時間半かけて職場へ向かう。
「引っ越さないの?」
と、たまに聞かれる。
引っ越すわけがない。
私は仕事で頭も身体もフル稼働している。
だから休日は、極力何もしないで過ごしたい。
近くには商業施設があり、スタバもある。
買い物は便利だし、生活動線は完成されている。
引っ越しなんてしたら、
また一から「生活を最適化」しなきゃいけない。
せっかくの休日に頭と体を使うなんて、冗談じゃない。
たぶん私は、神奈川県外に異動になったとしても、
この場所から離れない気がする。
そう考えたところで、私は歩き出す。
真夏の太陽は容赦なく私を照らす。
最寄り駅に着く頃には、背中はすっかり汗で濡れている。
腰まである長い髪は、シャツに張り付いて不快指数を跳ね上げる。
そういうときは、ポニーテールにする。
背中と髪の毛の間に、わずかな空間を作るためだ。
風通しは大事だし、この夏を生き延びるには、
些細な工夫が命取り――じゃなくて、命綱になる。
家を出る前からポニーテールにする、という選択肢もある。
でも、しない。
結び目のところだけ、キューティクルが剥がれる。
それに、変なくせをつけたくない。
髪を切る、という選択肢もある。
でも、切らない。
私はくせっ毛だ。
短くすると、横に跳ねる。
しかもこの時期だ。
湿気にやられて朝どれだけ整えても、駅に着く頃には別人になっている。
それを手直しする時間が、私はとにかく嫌いだ。
だから、髪は長くする。
重さでくせを抑える。
理にかなっている。
……まあ、本当は短くしたいんだけどね。
我ながら、こだわりは強いと思う。
でも、このこだわりがあるからこそ、
今のところ、私の髪は機嫌がいい。
電車を二本乗り換える。
慣れたものだ。
この時間、私はだいたい何も考えていない。
考え事をするには混みすぎているし、かといって眠れるほど快適でもない。
だから思考は、自動的にオフになる。
そういう時間も、嫌いじゃない。
そして、ついに到着する。
改札を抜けて、いつもの道を曲がった先。
エッジスポーツ株式会社。
エッジスポーツクラブ24 淵ノ門店。
全国展開している総合フィットネスクラブ。
水泳分野では業界内でそれなりに名が通っているらしい。
上場企業で福利厚生も制度も、表向きは至って健全だ。
ここで働いている人間も、
見た目はごく普通の会社員だ。
私は入社して8年になる。
新卒の頃は、泳げなかった。
本当に、文字通り泳げなかった。
25メートルも持たない。
息継ぎは下手で、フォームは崩壊していて、
水は怖くないのに、身体が言うことを聞かなかった。
入社後の研修で、それを思い知らされた。
泳げないこと自体を責められることはなかった。
ただ、
「できないなら、できるようになればいい」
それだけだった。
毎日のようにプールに入った。
仕事の前も、仕事の後も。
フォームを直され、呼吸を直され、何度も沈みかけた。
正直、きつかった。
向いていないんじゃないか、とも思った。
でも、やめようとは思わなかった。
やめる理由が、見当たらなかったからだ。
時間はかかった。
人より、だいぶかかった。
それでも研修が終わる頃には、なんとか泳げるようになっていた。
今は、人並みには泳げる。
それで十分だと思っている。
お店の中に入り、スタッフ通路を抜けて女子更衣室へ向かう。
私服を脱ぎ、
ハンガーにかけてから、ユニフォームに袖を通す。
それだけで、頭のスイッチは仕事側に切り替わる。
鏡の前に立ち、ポニーテールをほどいて髪を下ろす。
更衣室にある鏡を見ながら、
私が思うことは、だいたいいつも同じだ。
美しい。
今日も私は、問題ない。
お客さんから、よく声をかけられる。
「久野さんは今日も綺麗だね」
「今日も可愛いね」
知っている。
そう言われることには、慣れている。
でも、それは心の中に留めておく。
私は笑って、
「ありがとう。
でも私は、皆さんみたいに
お淑やかで、たおやかな大人の女性になれるように
頑張らなきゃいけませんね」
と返す。
本心かどうかは、さておき。
接客業とは、そういうものだ。
事務所があるのは5階だ。
更衣室のある1階から、私は階段を使って上がっていく。
エレベーターを使う、という選択肢も一応はある。
ただ、待っている時間がもったいない。
その時間があれば、もう5階に着いている。
私はそういう計算を無意識にしてしまう。
事務所に入ると、
すでに来ていたスタッフや同僚に挨拶をして、
そのまま自分のデスクに向かう。
いつもの流れだ。
特別なことは、何もない。
時計を見る。
午前10時。
今日も、長い。
途中で2時間の休憩はあるけれど、
それを差し引いても、普通に長い。
まあ、今さらだ。
私は椅子に腰を下ろす。
今日という1日が、また始まった。
久野さやかは止まらない エッジスポーツ株式会社 はらはらまっさー @haraharamasa
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