牛の脱走


月曜日、どうやら木下くんは課題をクリアしたようだった。

大袈裟に頑張ったとアピールして、先生に調子に乗るな!と笑われてたけれど。


五時限目。

黒板に「和と差の積」と太い字で書かれた瞬間、木下くんが大声を出した。


「あ、それ今日のボスキャラや!」


一番前の席の奈緒ちゃんが笑いをこらえて肩を震わせたのが見えた。


数式の下には「」と書いてある。これを「因数分解」と言うらしい。私は、まだ名前に慣れない。


「これは公式やけんな。にっこり因数分解、なんてね。x² - a² は (x + a)(x - a)。もうこれ、田んぼの畝うねみたいなもん。型どおりに分けていくだけや」


この先生は、地元出身の数学担当。

実家が農家で、田植えの時期には授業中でも気になって仕方ないみたい。


「今年は水張り早いのう」


……と、つぶやく人だ。


「よし、じゃあこれ! 2x² + 7x + 3。頭の中だけで考えたら混乱するやつ! 書いて書いて書きまくる!」


先生が言うたび、木下くんが「田植えと一緒やな」とか「稲の本数も数えとんのか」みたいなことを言う。

言うくせに、黒板に呼ばれると素直に前に出てきて、わりと正解する。


優子と澤田君の席は今日も空いたままだ。

もう誰も何も言わない。

奈緒ちゃんもちらっと見て、すぐに前を向いた。


「平方完成はまた来週なー。GW明けに忘れとっても怒らんけど、2次方程式のとき泣くぞー!」


公式をなぞるたびに、何かが形になるのが少しだけ安心だった。

意味のわからない言葉ばかりの家と違って、ここには答えがあるから。

千穂はさっきから少し頭が痛くて、あまり授業に集中できずにいた。


その時、校内放送がかかった。

牛の脱走だ、たまにあること。

校内放送が終わると同時に、教室がざわつき始めた。


『──えー、田中さんの牛が逃げました。学校近辺にいるとの情報があります──』


放送が切れたあと、誰かが言った。


「また……牛?ハナコの方かなぁ」


「この前も逃げたよな、ハナコ」


先生が「今日はこっちが逃げたいわ」とため息をついたとき、前方の席の木下くんが、ゆっくり立ち上がった。


「先生。俺、行ってきます」


「何やヒーローか、おまえは。座っとれ」


「いや、場所によっちゃ早めに追わんと。あれ、線路の方行ったら面倒くさいっすよ」


教室が一瞬静まり返った。


……みんな、知っている。木下くんは、牛追い名人なのだ。

昨年の体育祭前にも、校庭に現れた田中さんの牛を追い込んで、何ごともなかったように戻ってきた。


「うちとこには駅ないのになー、線路いらんよね、もう」


「こいつ、去年の体育祭の日も……無駄に才能多いのがなんとも……」


「うん、竹ぼうき一本で」


「木下の家って……」


「うち酪農じゃないよ、ふつーの農家。でも、コツはあんのよ。動きのパターンと呼吸っつーか」


そう言いながら、木下くんはジャージの袖をめくった。なぜか様になっている。


「はぁ、わかったわかった、さっさと仕留めて帰ってこいや」


先生が、呆れたように呟いた。


授業が終わり、礼のために立ち上がった千穂は、目の前がチラチラするな……と思った瞬間、目を開けたら保健室だった。


んん?寝てた?

───保健室?なんで……?

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