秘密と親密
桃始笑(ももはじめてさく)
第1話(読み切り)
カフェに葉琉の姿があった。他の客は二組ほど。個人経営だと一目でわかる店内には、シャンデリアの電球が少し黄ばんでいて、温かみのある光が店内に落ちていて、今は誰にも使われていないテーブルゲームを淡く照らしている。カウンターの奥では、静かにコーヒーミルが回る音が聞こえ、窓の外では、ひっきりなしに車の音が過ぎ去る。
葉琉の二、三テーブル挟んだ後ろの壁には、手書きのメニューが書かれたポスターが、錆びた画鋲で四隅を留められていた。
「おう」
洋平が声をかけると、葉琉は「久しぶり、私も今来たところ」と微笑みながら、両手でメニュー表を丁寧に広げ、洋平の前に差し出した。
「葉琉はもう決まってる?」
「ううん、まだ。」
洋平は、自分の前にあったメニューを葉琉の方へ向けた。彼女はまるで初めて本を読む子どものようにメニューを眺めている。対する洋平の目に映る葉琉は、服装も髪型もどこか大人びていて、婦人服売り場のマネキンのように見えた。そんな彼女の少し後ろにあるメニュー表を何気なく見た洋平は、注文を決める。
葉琉は特に断りもせず、「すみませ〜ん」と手を挙げ、店員を呼んだ。その仕草のどこかよそよそしさを感じながら、洋平はふと彼女の左手に目を留めた。
薬指の小さなダイヤが、シャンデリアの光を受けてきらりと輝いた。
「ホットコーヒーと……洋平は?」
「アイスコーヒーで。」
「かしこまりました!」
大学生らしき店員が元気よく答え、厨房へ戻っていく。
「結婚したんだ。」
「え、バレた?」
「指輪してんじゃん。」
「あっちゃー。」
葉琉は、どこか肩の荷が下りたような表情を浮かべた。
「彼の写真、見る?」 「女子高生が彼氏できたんじゃあるまいし。そんなにイケメンなのか?」 「まあね。」
葉琉は隣の椅子に置いたバッグからスマホを取り出し、ディズニーランドで撮った二人の写真を見せてきた。
彼の顔は整っているとは言い難かったが、確かに清潔感はあった。
「優しそうな人だな。結婚おめでとう。」
洋平はそう言いながら、奥のポスターに書かれた「ホットコーヒー」の「小さいツ」が「シ」に見えることが気になっていた。
コーヒーが運ばれ、アイスコーヒーにストローを挿す。
「報告ならLINEでもよかったんじゃないか?」
葉琉の結婚に興味がないわけではなかったが、生徒たちの推薦入試が始まる時期で、仕事が忙しくなっていたのだ。
「そうなんだけどね。洋平には、直接感謝を伝えたくて。」 「感謝って?」
葉琉は一瞬、カップを両手で包み込んだ。シャンデリアの光を受けた指輪が、僅かに揺れた。
「私ね、洋平と出会うまで、誰かに本当の自分を打ち明けたことなんてなかったの。みんなと一緒にいるときは、場を盛り上げたりして、それなりに楽しかったけど……私の悩みや本当の気持ちを誰とも共有できないのが、どこか寂しかったんだ。
でも、洋平と出会って、それが変わった。
私って広く浅い交友関係のタイプだから、誰かと深く仲良くなりたいなんて思ったことはなかったの。でも、洋平とは……不思議と仲良くなりたいって思ったんだよね。
洋平の部屋に初めて行ったとき、覚えてる? あの時、洋平が自分の家族のこととか、夢とか、いろいろ話してくれたでしょ? それを聞いて、『あ、私も話していいんだ』って思えたの。
家族以外の人に、あんなに自分のことを話せたのは初めてだった。本当の自分を洋平に打ち明けられて、一番悩んでた家族との問題も解決できた。本当に感謝してる。」
「……ああ、俺はなんでも喋っちゃうからな。それが葉琉にとって良かったなら、何よりだよ。」
洋平は、当時のことを思い出しながら微笑んだ。
「なあ、一つ聞いていいか?」 「なに?」 「あの日、葉琉がインフルエンザにかかってたとき、なんで犬と一緒に寝てたんだ?」 「ああ、あれね。放っておけなかったのよ。」
葉琉は、遠い昔の思い出を語るような調子で答えた。
だが洋平にとって、その出来事は今でも胸に深く刻まれている。
まるで、錆びた画鋲のように、九年もの時を超えても抜けずに刺さったままだった。
「流石にどんな動物でも家に入れるわけじゃないよ。でもね、あの犬は私に似ていたの。私が恐る恐る近づくと、その犬も同じように近づいてきたのよ。その子、後ろ足を怪我していて、歩き方がぎこちなかった。それを見たら、どうしても放っておけなくて……。寒そうだったし、一日だけ家に入れて一緒に寝たんだ。」
「どこが葉琉に似ていたんだ?」
「私が近づくまで、ずっとビクビクしていたところ。もし私が目を合わせただけで立ち去っていたら、きっとあの犬は、自分が傷を負っていて困っていることを伝えられなかったんじゃないかと思う。でも、あの子は勇気を出して近づいてきた。その姿が、昔の私に見えたのよ。だから——きっと私たちは分かり合える、そう思ったの。インフルエンザで辛かったけど、それよりも夢中で、その子を抱いて雪道を歩いた。なんか、変だよね。でも……懐かしいな。」
自分の弱さや傷を打ち明ける勇気。それがどれほどのものか、洋平には実感がなかった。だが、人はそうやって、少しずつ秘密を明かし合い、絆を深めていくのかもしれない。そう言えばあの犬と接したときもそうだった。洋平はその犬にどんな事情があるかをろくに考えようともせず、ただその犬を抱き部屋の外に連れて行った。葉琉が父親とのことで悩んでいたときも、洋平は葉琉の事情を知っていたが、葉琉の苦悩がどれほどのものだったかを理解していなかった。そう思うと、誰にでも自分の過去を気軽に話してきて、人の過去や秘密を自分と同等のものだと考えてきた自分は、本当の意味で誰かと絆を深めたことがあっただろうか、そう疑問を抱かずにはいられなかった。そんなことを考えていると、葉琉の指輪が夕日に照らされ、光の色を変えていった。
葉琉は、夫ともきっとそうやって心を通わせたのだろう。あのとき、傷を抱えながらも近づいてきた犬。葉琉は、そんな存在として夫を選んだのかもしれない。洋平は、写真の中の彼の顔を思い出した。そして、あの日、葉琉が出会ったあの犬の瞳と、彼の瞳が——ふと、重なって見えた。
秘密と親密 桃始笑(ももはじめてさく) @momohajimetesaku
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