ぼやける二重像と決まらない構図窓

Case:1

 ────大事な誰かとか、誰かにとって大事な自分とかが困った時に、他人に助けてもらえるようにだよ。情けは人の為ならず。この言葉の意味を履き違えてるヤツは多いけど、誰かに良くすれば、それは自分に返ってくるって意味だ。社会の根底が相互監視でも、それは悪いことじゃない。誰かが誰かを見てれば、世界からほんの少しでも、悲しいって場面を減らせんだから。


 いつだったかのバイトの時に、店長はそう答えた。あの時私は、確か、そう────社会の根底にあるのは相互監視で、いい人ぶりたい理由もそれだとか、そんなことを言った気がする。阿比留に言った言葉と、同じようなことを。いつも通り、ニヒルを気取っただけの、考え無しの発言だ。

 誰かが誰かを見ていれば。

 私は紅祢を見ているだろうか。

 紅祢は私を見ているだろうか。

 互いに踏み込むべきかを迷い、服の裾を掴もうとしては、その手を引く。扉一枚、数メートル。飼い馴らされた他人同士の、友人としての最短距離。

 二〇二四年。

 晩夏に差し掛かった九月。

 十七歳と十八歳。

 私達はまだ、東京にいる。




    ぼやける二重像と決まらない構図窓




 ようやく届いた中古のスマホを片手に、UQモバイルでSIM契約をしたのが二週間前。母に渡された手切れ金を使ってのことだ。

 約三か月ぶりとなる現代社会の必須機器は、今のところ、主に連絡手段兼音楽プレイヤーとしてしか使用していない。映画を見たり、メモ帳を使ったりはしているが、夜遊びばかりをしているので、それもたまにだ。

 なにはともあれ、これで私も現代人に復帰できたというもので、店長に口座と連絡先を教えることができた。店に来た阿比留ともラインを交換したし、夜遊びの予定を確認できるようになったのは上々だ。とはいえ、互いの予定を知らぬままに街を歩き、夜の中で偶然再会し、朝まで飲む。これもまた夜遊びの醍醐味であり、私はそういう関係性の方がどちらかといえば好ましいので、残念な部分もある。

 九月七日、土曜日。

 午後九時四十一分。

 天気は小雨。そろそろ台風シーズンに入るので、天候が優れないのは仕方がない。

「映画見に行こう!」

 ネットフリックスで映画を見ていた私を見て、紅祢がそう提案してきた。

「あと、旅行とか!」

 映画はともかく、旅行は無理だろう。この室内の、殺風景な惨状を見ろ。二人ともミニマリストでもないのに、家具がほとんど無いままだ。マットレスは二枚に増えたが。

「伊豆行きたい!あと、草津とか………軽井沢でもいいかも!」

「話聞け」

 とはいえ、金銭的には問題ない。母に貰った手切れ金も口座にあるし、十七日に入るバイト代も、かなりの額が期待できる。二人合わせて、恐らく四十万程度にはなるだろう。ただのバイトでも、週五日ほぼフルタイムで働いていれば、月収二十万程にはなる。稼いだ金で旅行というのは魅力的だが、しかしやはり、家具の問題を早期に解決したいのだ。

「まずはベッド買うとかさ、優先順位あるでしょ」

「最優先、旅行!なう!」

「ダメだこいつ、聞いちゃいねぇ」

 と言いつつ、頭の中で伊豆旅行をしてみる。温泉に入り、旅館の食事に舌鼓を打ち、二人で観光。成程、成程。魅力的だ。

「あれ、零。タバコ、ゴミ箱に入っちゃってるよ。まだ半分以上残ってるやつ」

 レシートを捨てるべく部屋の隅のゴミ箱を覗いた紅祢が、赤マルの箱を手に取り、こちらに見せる。

「置いとくね」

「いや、捨てていいよ」

「なんで?汚れてないし、まだ吸えるよ?」

「禁煙」

「もー、どうせすぐ吸うくせに」

 現実的に生きる。普通に生きる。今の生活を壊さないためには、それが必要だ。理由があろうとなかろうと、捻くれていようがいまいが、私はただの未成年。三年程度の禁煙禁酒で紅祢との時間を失わずに済むのであれば、安いものだと思える。

 もっとも、普通といっても、夜遊びはするのだが。そもそも、紅祢とのそういう時間を続けるための決意であって、多少普通でない程度は容認すべきだ。というか、社会が認めるべき案件である。

「さっきの話だけど」

「どの話?」

「旅行の話。シフト決まっちゃってるから、今月は流石に無理じゃん?」

 来月分のシフトも既に提出済みではあるのだが、まだ修正可能だろう。

 スマホでカレンダーを開く。十二日から十四日が三連休、秋であることからも観光客が増えそうではあるが、直近で伊豆旅行に相応しい時期はここしかない。本来は八日前後が望ましいのだが………

「紅祢、平日休めないんだっけか」

「一日くらいなら休めると思うけど」

 せっかくの温泉旅行だ、日帰りは勿体ない。となるとやはり、三連休が狙い目か。紅祢の誕生日に合わせて旅行したかったのだが。

 しかしそうなると、また家具問題を先送りにすることになる。もういっそのこと、このままでも良いのではなかろうか。いや、早まるな福家 零。室内を見回せ。ベッドがある分、まだ鑑別所の方が部屋としての体裁を保てている。女子の家としてはあまりに酷い現状から、目を背けてはならない。

「今のうちから、旅館予約しとかないとね」

 そだねぇ、とマットレスに寝転ぶ。気温が下がれば、この寝具では寒さに対応できないだろう。掛け布団くらいは早めに用意しておかなければ。

 二人でスマホの画面を見て、どの旅館に心が惹かれるかと話し合う。十時を過ぎた頃、紅祢が酒の缶を両手に晩酌を誘ってきたが、これは断ることにした。

「えー。禁酒もするの?飲もうよー」

「それなりに稼げてるっていっても、旅行とか家具とか考えると、浮かせられるとこは浮かすべきだろ」

 それに、紅祢への誕生日プレゼントもある。毎日の酒代、煙草代が無くなるだけで、月々の出費は相当抑えられるはずなのだ。

「現実的な感じになっちゃって………変わっちまった!あんた、変わっちまったよ!」

 ストゼロを開けて、親父臭い仕草で呷る紅祢。若干罪悪感が湧くが、ここで流されるようでは、普通になど到底なれないだろう。正直、紅祢にも禁酒と禁煙をさせたいところ、なのだが………

「もっと一緒に、現実逃避しようよー………」

 二本目を空けたあたりで、呂律が回らなくなり始めた紅祢が、私の肩に頭を寄せた。その左手のアームカバーの隙間から包帯が見えて、今の彼女から酒と煙草という二種類の毒を取り上げてしまったら、最悪の事態を引き起こすのでは………と、そう思わずにはいられなかった。

「見たくないんだよー、全部………。死にたいとかも、全部………」

 普通ではなくとも、二つの毒が彼女の視界を滲ませるのであれば、きっと今は、これしかないのだろう。紅祢のいない部屋など、想像したくもないのだ。

 紅祢が現実逃避を続けるなら、私が現実を見れば良いだけの話で、なぜかは知らないが、それを苦だとは思わない。

 初めて出会った時から、紅祢にはどこか、危うさを感じている。ずっと死にたいと思っていた、と彼女は言った。死を想っているが故の儚さで、故に危うく映るのだろう。

「あと三年、待っててよ。したらまた、一緒に飲もうぜ」

 紅祢の頬にかかった横髪を指で撫でて、彼女をマットレスの上に寝かせる。明日もバイトだ、私もそろそろ寝るとしよう。

 しかし、ずいぶんと長い間、アルコールで脳を浸して酔い潰れるという寝付きをしていた所為か、なかなか眠りに就くことができない。一瞬酒に手を伸ばしそうになり、それを抑えてを繰り返し、ようやく眠れた頃には空が白み始めていた。




「珍しいな、遅刻するなんて」

 九月八日、日曜日。

 午後一時三十二分。

 天気は晴れ時々曇りで、今は忌まわしき晴れの番。

 『モリヤテイ』に入ると、店長がいつものようにレジの前に座っていて、スポーツ新聞を読んでいた。

 電車に乗る前に電話をしておいたが、三十分も遅れてしまうことになるとは。初の遅刻に申し訳なさが込み上げる。

「ほんと、マジで申し訳ないっす」

「寝酒が過ぎると、逆に起きれなくなるよな。わかる」

「いや、禁酒の所為で寝付けんかったんすよ」

 へぇ、禁酒。と、店長が紫煙をくゆらせながら私を見る。

「タバコも?」

「そっすね。二十歳までは」

「二十歳過ぎても、タバコなんて吸わない方がいいぞ」

 少量であれば百薬の長にもなり得る酒と違って、煙草はただの毒物だ。乾燥させた植物の葉に火をつけ、有害物質を煙として吸っているわけなので、実質自傷行為である。店長の言葉は、煙草を吸いながらなので説得力は皆無だが、正論だ。

「まぁ、一緒に吸う相手がいるんで」

「彼氏かー?独り身のアタシへの当てつけかー?」

「ちゃいます」

 そういえば、店長は私の性的趣向を知らないのだったか。いや、話したことがあったような、なかったような。話したことがあった場合、店長はそれを忘れているか、無自覚で口にしたことになるのだが………どちらにしても酷い女だ。

「禁煙禁酒はいいことだけど、急にどうした。台風でも来るのか?」

「ひでぇお人だ。あ、台風は来てるみたいっすよ」

 お前の所為でか、と店長。未成年の、それも自分の店の従業員が更生し始めているというのに、この女に人の心はないのだろうか。これから台風シーズンに突入するというのに、その発生原因を全て私にされては、堪ったものではない。

「相互監視の………まぁ、見られても大丈夫くらいの、普通になってみようかなー、みたいな」

「なんだそれ」

 あんたが言ったことだろうが。

「情けってのを受け取れるように、ってことっすよ」

 情けは人の為ならず。良い行いをすれば、良い事となって返ってくる。しかし、未成年の身で酒と煙草に手を出したままでは、返ってきたところで、それらの補填ですぐに消費されてしまうかもしれない。

 店長のお陰でもある。年齢の離れた友人のような距離感だが、私に対して、大人をやろうとしてくれているのだから。ほんの少しだけ、子供と呼ばれなくなる日のことを、想像することができるようになった気がする。

「ま、あんま気張り過ぎないこったな。心に余裕ヒマがあるのが人間の取り柄、らしいし」

「店長、右手変形しそうっすね」

「今は寝てるけどな」

 私の場合はむしろ、もう少し気張った方が良い気がする。何しろ、今までが好き勝手にし過ぎていて、心の余裕どころか、真っ白で、空洞のようになっているのだから。世界と折り合いを付けるために、まずはを掻き集めてこなくてはならない。歯車の一部に戻れるように。

「零、飯食ったか?」

「いや、まだっすけど」

「アタシもまだなんだよな。金渡すから、なんか買ってきてくれ。お前の分も」

 なにか、と言われても困る。何でもいいは何でもよくない、その常識くらいは私にだってあるのだ。せめて、何腹かくらいは把握しておかなくては。

「寿司だな」

「寿司の持ち帰りはちょっと怖くないすか。気温的に」

 デリバリーであれば保冷バッグがあるので問題ないが、個人で寿司の持ち帰りは、もうあと一か月は待ちたいところである。ただでさえ魚は足が早いのだ、連日三十度を超えているこの時期では、十数分程度持ち運ぶだけでも、食中毒になる可能性は否定しきれない。

「なら、駅の近くのレストランで、テイクアウト」

 確か、『ぷーれ』という店名だったか。スマホで調べてみると、昼食にしてはかなりの値段で、『モリヤテイ』の商品を買って食べた方が良いのでは、と進言したくなった。それか、このレストランの近くのパン屋か。

「とりま、電話予約します?」

「おー、頼んだ」

 スマホのある生活というのは、やはり便利で楽である。オードブル盛り合わせ二人前を注文し、受取時間を二時三十分に指定。金額はなんと五千八百円。一般的な昼食の十倍程度とは、もはや豪遊だ。時折店長に昼食を奢られることはあるが、今回のような貴族的なものとなると、流石に断りたくなってくる。どういう風の吹き回しなのか、と。

「頑張る少女を労うだけだよ」

「………っす。いただいときます」

「おう」

 日曜日であるからか、客の入りは上々。店長の人気があれば赤字経営にはならないだろうが、受取時間直前まで接客するというのは、なかなか精神的な疲労が激しいものだ。

「店長、そろそろ受取行ってきます」

「ほいよ」

 来店していた心美と談笑する店長が、頷いてレジ番を交代してくれる。ちょうど良い切り上げ時だと判断したらしい心美も、店を出るらしい。

「いや、なんでついて来んの」

「なんとなく?雰囲気ちょっと変わったし、前より話しやすくなったかなー、って」

 雰囲気など自分で分かるものではないが、そんなに変わっただろうか。多少丸くなったのかもしれないが、本当に多少だろう。人付き合いに影響を及ぼす程とは思えない。しかし、こうして心美と並んで歩く程度の変化は、どうやらあったらしい。

「いい子ちゃん、みたいに言われたからさ。嫌われてるなー、とは思ってたんだけど」

 確かに、正直心美のような人間は、八方美人というか、愛想を振りまいているだけの人間に思えて、毛嫌いしていた。しかし、あの時言われた言葉は以外にも記憶に残っていて、そういう意味では、私の生活に変化をもたらした一人………とも、いえるのかもしれない。

「今はそうでもないんだよな、意外と」

「うん、そんな感じ。だから、雰囲気変わったなーって」

 高校生は、子供と大人のちょうど中間と言われることもある。私も以前と比べたら、年齢に似合った精神状態に落ち着いたのだろうか。能之の言葉を借りれば、爪先立ちをやめて、等身大になったというか。

 公園を左手に北へ歩いて、右の道へと曲がる、少し手前。五歳くらいの子供が泣いていて、その祖母らしき人物が、目の前の木と孫を交互に見ていた。

「………ああ、ボール。枝に引っかかったのか」

 すぐそこの集合住宅の住人だろうか。まだまだ気温の高い九月上旬、その昼間に外で遊ぶ幼稚園児と、それを見守る祖母。二人同時に熱中症で倒れそうだ。

 私なら、こういう場面は素通りする。電車で隣の乗客が何かを落とした時や、以前のような、自転車に撥ねられた人間を目の前にした時なども。

 でもきっとそれは普通とは違って、私が普通を目指すならば、こういう場面から変えていく必要があるのだろう。

「福家さん?」

 祖母らしき女性に声をかけていた心美を尻目に、フェンスをよじ登って、園内へと入る。助走をつけてジャンプして、枝を掴んで木に登り、少し土汚れのついたサッカーボールを、子供の前に落とす。

 飛び降りると、ボールを抱いた子供が笑顔で駆け寄ってきて、ありがとう、すごいねなんて礼を言われ、ついでにボール遊びに誘われた。用事もあるし、この暑さで外遊びをする気力もないので、当然断ったが。

「達也君、お姉さんを困らせちゃダメでしょ?どうも、ありがとうございます。本当に、どうしようかと困っていたところで………」

 六十代前半、くらいだろうか。私の三倍は長く生きているであろう相手が、手を握って頭を下げている。三か月前までは、こういう相手からも金を巻き上げていたというのに、奇妙な光景だ。

「いや、私は、別に………」

 受取時間が迫っているので、早くこの場を離れたい。予約注文しておいて遅れるというのも、店側に迷惑だ。

 適当に愛想笑いを浮かべて、そのまま立ち去ろうとする。そして、なぜか店長の言葉を思い出して、紅祢の顔が浮かんだ。

「────当たり前のこと、しただけなんで」

 無意識に、そんな気色の悪い言葉が口を衝いて出る。私の最も嫌いな、無欲系主人公の口癖のような、吐き気すら覚える文字列が。それでも、どういうわけか、不思議と心が軽くなった気すらして。

「その靴で走って、しかも木登りとか、バランス感覚どうなってんの」

 公園から離れた直後に、心美が私の足元を指して、呆れたような、感心したような声色でそう言った。

「慣れですよ、奥さん」

「慣れかー。慣れてきたから、角取れた感じ?」

「んー………どうだろ。そっちはまだ、慣れてってる最中かも」

 普通というのがどういうものかは、正直よく分かっていないのだが、案外悪くないものだ。

「福家さんじゃなくて、零って呼んでいい?」

 レストランの前で、別れ際に、心美が下の名前で呼んでいいかと聞いてくる。断る理由も既に無いので「もち」とだけ答えると、心美は「じゃあ、ねぇ、零」となぜか気障ったらしいポーズを取った。

「なに?」

「てか、ラインやってる?」

 何年前の流行りだ。お互い世代じゃないだろ。

 案外面白みのある女だな、と心美への評価を改めて、気障ったらしいポーズに苦笑が漏れる。

 夜にいると、妙な人間とばかり知り合うものだ。類は友を呼ぶ、というだけなのかもしれないが、最近は特に、普通ではない相手としか話していない。そんな中で、心美は珍しい、昼間の、普通の友人だ。きっと、貴重な出会い、なのだろう。

「やってる」

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