第1章「絶望の果ての小さな芽生え」
「セレスティア・フォン・リーゼンベルク! 貴様との婚約を、本日をもって破棄する!」
玉座の間を震わせる、かつては愛しいとさえ思った人の声。私の夫、クラウス・フォン・エルシュタイン王子の高らかな宣言に、集まった貴族たちがひそひそと囁きあうのが聞こえました。金色の髪を揺らし、私を射抜くように見つめるその青い瞳には、もはや一片の優しさもありません。
「な、なぜですの、クラウス様……わたくしが、何をしたと……?」
震える声で問う私に、クラウス様の隣で勝ち誇ったように微笑む、聖女と呼ばれる男爵令嬢マリアンヌが口を開きました。
「セレスティア様、まだお分かりになりませんか? 貴女が私にした数々の嫌がらせ、もう隠し通せませんわ」
その言葉を合図に、宰相閣下が分厚い書類を掲げ、私がマリアンヌ嬢にしたとされる「悪行」の数々を読み上げ始めます。ドレスを汚した、階段から突き落とそうとした、毒を盛ろうとした……。どれもこれも、身に覚えのない罪状ばかり。
これは罠だ、と気づいた時にはもう手遅れでした。私の父であるリーゼンベルク公爵は政敵である宰相派によってすでに失脚させられており、この場に私の味方など一人もいません。
「……言い訳はそれだけか、悪役令嬢」
クラウス様は、冷え切った声でそう吐き捨てました。悪役令嬢。ああ、そうですか。私は、物語によくある、あの滑稽な役回りを演じさせられているのですね。
判決は、あまりにも残酷なものでした。
「セレスティア・フォン・リーゼンベルクを国外追放処分とする! 二度と、この国の土を踏むことは許さん!」
――そして私は、異世界へ追放されました。
光の門を無理やり潜らされ、次に目を開けた時、そこに広がっていたのは絶望そのものでした。灰色の空、乾ききってひび割れた大地。生命の気配がまるでない、荒れ果てた土地。「辺境の地」と呼ばれる、魔力も枯渇し、王国からも見捨てられた場所だそうです。着ているものは粗末な旅人服一枚。身分も、財産も、誇りも、何もかもを奪われました。
「う……あ……あああ……っ」
膝から崩れ落ち、乾いた土を握りしめます。涙さえ、ここではすぐに蒸発してしまいそうでした。どうして、私がこんな目に。これからどうやって生きていけばいいの。孤独と絶望が、冷たい霧のように心を覆っていきます。このまま、ここで野垂れ死ぬのが私の運命なのでしょうか。
意識が遠のきかけた、その時でした。
――ぐぅぅぅぅぅ。
間の抜けた音。それは、私の腹の虫でした。あまりに場違いな生命の主張に、ぷつり、と心の中で何かが切れました。
(……死んで、たまるもんですか)
こんなところで、こんな理不尽な終わり方なんて、絶対に認めない。
その強い意志が引き金になったのでしょうか。突如、頭の中に、今まで知るはずのなかった膨大な情報が流れ込んできたのです。
『――土壌改良にはまず、緑肥が有効だ。根粒菌を持つマメ科の植物は、空気中の窒素を土に固定してくれる』
『――コンポストを作って、有機物を堆肥に……』
『――痩せた土地でも育ちやすいのは、ジャガイモやサツマイモ……』
これは……何? まるで、別の誰かの記憶。そうです、私は「セレスティア」であると同時に、科学と農業が発達した「日本」という国で生きていた、ただの農学部の学生だったのです。そうか、ここは「悪役令嬢」が登場する乙女ゲームの世界で、私はその悪役に転生してしまったんだ……。
婚約破棄も、追放も、すべてはゲームのシナリオ通り。
けれど、シナリオでは悪役令嬢はここで絶望して終わりだったはず。
でも、今の私には、この絶望を覆すための「知識」がありました。
「……面白いじゃない」
乾いた唇から、笑みがこぼれました。
「悪役令嬢、結構ですわ。むしろ、望むところよ」
彼らが私から奪ったのは、公爵令嬢という窮屈なドレスだけ。私の中に眠っていた本当の力――農業の知識までは奪えなかった。
「ここから這い上がってやる。見てなさい、クラウス様。私を捨てたこと、絶対に後悔させてあげるわ」
灰色の空を見上げ、私は固く誓いました。幸い、この世界にはジャガイモに似た芋も、マメ科らしき雑草も生えています。ゼロからのスタートではありません。
私の農園再生記は、この絶望の淵から始まったのです。
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