「忘れぬ愛のカフェ」 ~絆を紡ぐ記憶のノート~

トムさんとナナ

「忘れぬ愛のカフェ」 ~絆を紡ぐ記憶のノート~

1

 春の光が、窓際の丸テーブルに差し込んでいた。カップに注がれたラテの泡が、微かに揺れている。穏やかな風が店のドアベルを鳴らし、小さな鈴の音が「いらっしゃいませ」と言葉のように響いた。


「……こんにちは」


 少し戸惑ったような声だった。


 朝比奈悠真はカウンター越しに顔を上げ、ドアの方を見た。そこには、見覚えのある女性が立っていた。白いブラウスに春色のロングスカート。けれど、彼女の瞳は悠真を“初めて見る人”として見ていた。


 彼女の名前は——朝倉澪(あさくら みお)。


 この店の常連でありながら、毎朝「初めまして」と言わねばならない相手。


2

 澪には、特殊な記憶障害がある。24時間ごとに、その日の記憶が消えてしまうのだ。脳の機能障害という診断だったが、原因も治療法も見つかっていない。


 彼女が最初にカフェを訪れたのは、ちょうど三か月前のこと。


「ここの……コーヒー、とても香りがいいですね」


 あのときの笑顔は、柔らかく、けれどどこか翳っていた。悠真はその表情を今でも覚えている。


 翌日、彼女は同じ笑顔で言った。


「はじめまして。今日、初めて来たんです」


 そうして、悠真の日々が変わっていった。


3

「今日のコーヒーは、“思い出ブレンド”です」


 悠真は、澪の前にそっとカップを置いた。


「思い出ブレンド……?」


「昨日のあなたが、『これ好き』って言ってくれたんです。だから、今日のあなたにも飲んでほしい」


 澪は不思議そうに眉をひそめながらも、カップを手に取った。そして、一口。


「……優しい味」


「よかった」


 悠真は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。毎朝、彼女は自分のことを忘れてしまう。それでも、自分は今日も彼女に出会えた。この奇跡を、大切にしたいと願っていた。


4

 悠真は、毎日小さな“思い出の種”を用意していた。


 手書きの一言メモ——「今日のあなたは、紫陽花が好きでした」


 使い捨てカメラで撮ったツーショット写真——「昨日の私たち」


 店内の壁に設けた“思い出ノート”——澪専用の記録帳。


 カフェの常連客たちも、いつしか協力してくれるようになった。おしゃべり好きの老婦人、絵本を読みに来る親子連れ、音楽を奏でる若者たち。誰もが、澪との会話や出来事を、そっとノートに記してくれた。


「このカフェ……好きです」


 澪はある日、ノートを読みながらつぶやいた。


「どうしてか分からないけど……ここに来ると、心があったかくなるの」


5

 ある日、澪は悠真に問いかけた。


「ねえ……どうして、そんなに私に優しくしてくれるの?」


 その瞳には、不安と戸惑い、そしてどこか希望のような光が宿っていた。


 悠真はしばらく黙ってから、ゆっくりと答えた。


「君のことが……好きだから」


 澪は目を見開いた。けれど、それを否定も肯定もしなかった。


「ごめんなさい。覚えていられないのが、苦しい」


「覚えていなくてもいい。心が感じてくれるなら、それで十分なんだ」


 その言葉に、澪は少し涙ぐみながらも、微笑んだ。


6

 季節は夏へと移ろい、カフェには風鈴の音が響くようになった。


 ある朝、澪がカフェに現れなかった。次の日も、その次の日も。


 悠真は、不安を抑えながらも、毎日“思い出のノート”を開いては、空白のページに一言だけ書き続けた。


 「待ってるよ。今日も。」


7

 七日目の朝、ドアベルが鳴った。


 澪がいた。すこしやつれた様子で、けれど確かにそこにいた。


「……やっと、ここに戻ってこれた」


 彼女はカウンターに歩み寄り、胸元から小さなノートを取り出した。それは、彼女自身が自宅で記していた“記憶のかけら”だった。


「毎日、あなたのことを書くようにしてた。でも……今日は、何も見なくても、ここに来ようと思えたの」


 澪は、言葉を詰まらせながら続けた。


「あなたのことを……忘れたくないの」


8

 それからというもの、二人は毎朝「おはよう」を交わすようになった。「はじめまして」ではなく。


 澪の記憶が完全に戻る日は来なかった。それでも、心に残る“何か”は確かにあった。


 笑いあった記憶は、毎日を重ねるごとに彼女の中に少しずつ沈殿し、やがて消えない感情の核となっていった。


 ある秋の日、悠真は新しいコーヒーを出した。


「“未来ブレンド”って名前なんだ」


「ふふ……また素敵な名前」


「君と一緒に、明日を迎えるための味だよ」


 澪は目を細め、カップを手に取った。


 それは、記憶ではなく——愛を信じることの始まりだった。


(完)

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