二歩先にあった桃源郷

IFです。


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 少女は一歩、踏み出した。


 一瞬の逡巡もなく、一片の躊躇いもなく、この先に起こるすべてに対して無頓着に、これ以上なく軽い一歩を踏み出した。




 今となって残るのは、届かなかったという後悔だけだ。




 もっと早く駆け出していれば、彼女の命は助かったはずだ。


 彼女の頭蓋は潰れることなく、脳漿は零れることなく、肉と骨が混ざり合うこともなく、赤く生暖かい鮮血が飛び散ることもなく、彼女の左胸の奥、そこにある命の証も、砕かれずに済んだというのに。




 もう、叶わないことだと知っている。


 もう、どうにもならないと知っている。




 過去は覆らないと、痛感している。




 ただそれでも、それでも思わずにはいられないのだ。




 ――もうあと一歩、踏み出せていたら――






 *************




 


 その手を掴んだ時、優二の心に生じたのは安心感だけだ。


 それ以外の感情は何もかも消え去り、うるさく響く鼓動の音が内から鼓膜を震わせて、先ほどまで、自分が途轍もなく動揺していたのだと実感する。




 細く白く、何かの拍子にぽっきりと折れてしまいそうな腕をつかんで、優二は乱れた呼吸を整えることなく、




「……なに、してるんですか」




 少女の願いを踏みにじり、少女の未来をつかみ取った。




 「……意外と足、速いんだね」




 まるで一世一代の大舞台を邪魔されたかのような、失望か絶望か、優二には班別のできない感情を乗せた、今にも消え入りそうな声で、少女は呟いた。


 目を伏せて、この世の全てを失ったかのように顔を蒼くして、涙がにじんだ目を優二から隠すように、手で顔を覆い、少女はすすり泣く。


 優二はそれを、彼女なりの救難信号だと感じた。




 今のが見間違いでなければ、今蒼華は自殺しようとしていたはずだ。


 自分たちと何の関係もない、恐らく家族でドライブ中だったであろう車の目の前に飛び出して、その人生を終わらせようとしていた。


 その一歩が踏み出せた、踏み出せてしまったという事実は、優二の心を傷つけ、『爪痕』というべき何かを残した。




 それは後悔かもしれないし、他の何かかもしれない。




 確かなのは、優二が思っている以上に、優二は少女を愛しているということだけだ。




 「……ひとまず、休めるとこまで歩きましょう」




 蒼華の肩を優しく支えて、彼女の小さい歩幅に合わせて、慰めるように二人は歩き始める。


 そのすぐ横では、時速数十キロで走る車の通りすぎる音が、何度も何度も繰り返されていた。






 *************






 「……もう、大丈夫」




 公園のベンチに座った蒼華は、一頻り泣いた後、隣に座っていた優二の肩をぽかぽかと叩いた。


 そうやって過ごしているうちに、感情の整理もついてきたのだろう。会話できる程度には回復したものの、彼女にいつもの元気さは微塵も残っておらず、心に深い傷を負った、ただ一人の少女だけがそこにいた。




 「どうして、あんなことをしたんですか?」




 蒼華の顔色が良くなったことを確認した優二は、一番聞きたかったことを口にした。


 それを受けて、彼女はまたも目を伏せて、




 「……わからない」




 と、力なくつぶやいた。


 泣き腫らした目に絶望をにじませて、肩を抱き、自分が自分でも理解できないと、そう言った。




 「……一時的に、気が動転してたんでしょう。今日はもう休んでください。危なっかしいので、僕も付き合ってあげます」


 


 「――ほんとに、優しいね、君は」




 さっきよりさらに小さいその一言には、形容しがたい重みがあった。


 その様子に優二は恐怖すら覚えるが、すぐに頭を振り、それを振り払う。




 少女の感情を、せきとめていたそれが決壊した。




 「君はいつもそうだ。みんなに気を配って、みんなが楽しめるよう工夫して……私の小さい変化に、ううん、『私たち』の小さい変化に、気づいてくれる」




 「……」




「なんで?なんで、そんなに優しくなれるの?この前まで、私としか喋らなかったじゃん。私にしか、優しくしなかったじゃん」




 「……」




 それは勘違いだと、あえて優二は指摘しなかった。


 彼女の心中にあるのは、否、あったのは、恐らく優越感だ。


 自分だけが優二の特別だと、自分を思ってくれる人がいるんだと、そんな事実が、彼女の心を強く、強くしてくれた。


 ある種、心の支えになっていたのだろう。




 優二は人を区別しない。誰にでも平等に、誰にでも公平に、優しさを以て接することができる。


 優二は自分に歩み寄ってくれる人がいないとわかっているからこそ、自分から歩み寄ることができるのだ。




 今、これを否定してしまえば、今度こそ彼女の心は壊れてしまうかもしれない。




 ――でも。




「嫌だよ。ずっと、私のものでいてよ。君のやさしさを独占させてよ。私は、私はっ……君のやさしさが、憎いよ……!」




 「――夜舞さん」




 だからこそ、優二は蒼華に容赦などしない。




 「思いあがらないでください」




 「っ――」




 心の底から振り絞られた、声にならない悲鳴が、彼女の喉をひゅっと鳴らした。




 「僕の優しさはあなただけのものじゃないですし、あなたは僕を独占なんてできません。僕をモノ扱いしないでください」




 「違、違くて、私はただ――」




 「言い訳はいりません。どちらが本心かなんて、くだらない問答はする気がないので」




 「……っ」




 少女の目が、またも潤んでいく。まるで大好きなものを取り上げられた子どもかのように、ここでもう一度泣いて、全てを有耶無耶にしようとしている。


 それを許す優二ではない。




「――僕ができるのは、ほんの少しだけ、『おすそ分け』することだけです。僕の心の中にある、優しさという名前の感情を、他の誰かに分けてあげる。それくらいしかできません。








 ――ただ生憎、細かい目盛りなど作っていないもので、ほんの少し、『おすそ分け』の量が多くなっちゃうことも、あるんですよね」




 「……え?」




 少女が伏せていた顔を上げる。涙のにじんだその目は、正面から向き合って、その視界一面に、優二の姿を映している。




「僕の知る限り、一番『おすそ分け』の量が多いのが、あなたです。確かに僕は、友達が多いのかもしれません。でも、僕だって、考えていることはあるんです」




 そう言って彼はスマホを取り出し、メモアプリを開いた。




 そこには――




 「みんなで遊ぶ時のスケジュールです。見ればわかりますけど……みんなより、あなたのほうが、切り上げる時間が一時間遅いんです」




 「……え」




「その一時間の間に、何ができるか。――僕とあなたが、二人で、他の友達の目も気にせずに、遊べる」




 「――」




 蒼華の目が見開かれる。そこには、先ほどまでの絶望や失望はもうない。




「笑ってくださいよ。ここであなたの泣き言を聞いて、明日を辛気臭い顔で迎えるより、明日もいつも通り、二人仲良く馬鹿みたいに笑えばいいんです」




 少女の目に涙がたまっていく。そこには、先ほどまでのそれとは大きく違う何かがあった。




 「……さあ、いつも通り、道化を演じてくださいよ」




 「……ふっ」




 蒼華は小さく鼻で笑った。そして勢い良く立ち上がって、人差し指を天に掲げて、




 「いいだろう!君のためなら、私は一肌脱ごうじゃないか!」




 そう、泣き腫らしたままの目をできる限り凛々しくして、満面の笑顔で言った。


 それにつられて、優二の頬も緩む。




 「……それでいいんです」




 そう言って、優二も立ち上がろうとして――その顔に、人差し指が向けられる。




 「それでも!君、さっきまでの物言いはひどいんじゃないか?罰として、一発受ける覚悟はできるんだろうね?」


 


 その表情を大きく変えて、わざとらしすぎる怒り顔で、少女は言った。


 いつも通りの心地よいそれに身を任せ、




 「いいですよ。ほら、どうぞ」




 と、降参の意を示すべく両手を挙げ、衝撃に備えて両眼を閉じ――




 「とりゃーっ!」




 「……ッ!?」




 パンチではない何かが飛び込んできて、思わず優二はバランスを崩し、もう一度ベンチに座り込んでしまう。




 ――気づけば、彼の腰には蒼華の細い腕が巻き付いていた。




 優二は今、彼女に抱きしめられたのだ。




 「なッ……」




 顔が赤熱していくのを感じる。


 心の底から湧き上がってくる感情、それへの不理解を彼の脳細胞の全てが訴える。


 彼女は優二の腹に顔を埋め、どんな表情をしているかもわからない。


 顔の熱さを自覚しながらも、




 「ちょっと……夜舞さんっ……」




 そうやって彼女を押しのけようとすると、バッと、蒼華が顔を上げた。




 「――」




 彼女の顔は自分と同じか、それ以上に赤くなっていた。


 喜色満面に、してやったりという感じで、少女は言う。




「……やっぱり、これじゃ満足できないね。――だから、私が満足するまで受けてもらうよ。




 何度でも」




 きりっとした少女にそう言われ、少しの困惑の後、優二は観念したように天を見上げる。




 そして、




 「そうですね……俺の負けです」




 と、自身の敗北と、彼女の『勝利』を宣言した。

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