■■とした、■がいた。

 異様な雰囲気が、夜闇とともにこの場を支配していた。




「……来たね、天翅君」




 そう言って振り返るのは、今まで何度も言葉を交わした蒼い少女。


 その表情は依然明るい。しかし、そこにはいつも見せないような色が見え隠れしている。まるで、これから、何もかもが終わるのだと言わんばかりの、優二の不安感をこの上なく煽るような、嫌な雰囲気をしていた。




 彼女は下半身全てが川に浸かった状態で、周りの風景と相まって神秘的な雰囲気を醸し出している。




「……はい、今日も今日とて」




 優二自身も、声が硬くなっているとわかった。


 緊張、しているのかもしれない。今まで、何度も感じてきた嫌な感覚。記憶の奥底を刺激され、思い出したくもないものを引きずり出される、その感覚を正体を知るのが、漠然と、怖いのだ。


 その証拠に、優二の手は震えている。




「いやー、良い加減話すネタがなくなってねー。だから今日は、趣向を変えようと思うんだ」




「……」




 川に浸かったまま、少女は続ける。


 寒くないのか、なんてくだらない疑問は、浮かぶ余地もない。なにせ、今、優二の心臓は警鐘を鳴らして、脳はぐちゃぐちゃになった思考をまとめようと動き続けて、呼吸は自分でもわからないままに乱れている。




 そしてその少女は、その決定的な一言を、言った。




「君、『昼間』の記憶、ある?」




「……」




 彼女と会うのは、いつも深夜だった。


 それは彼女がその時間しかいないからだ――なんて、幻想を抱くのは無理があるというものだ。


 夜があるなら、必然、昼もある。朝もあるし、夕方だってなければならない。しかし、優二の頭を占めるのは常に深夜の出来事で、それ以前、もしくはそれ以降のことを何一つ覚えていない。




 それもそうだろう。――ここに深夜以外の時間帯が存在しないのだから。




「答えないね。薄々勘付いてたのかな?なんでずっと深夜なのか、なんでずっと小川にいるのか、……なんで、私たちがここにいるのか」




「……僕は」




 どうにか、反論しようとした。それは違うと、ありえないと、そう言おうとする。しかし、優二の口から出るのは掠れた呼吸音ばかりで。


 いくら考えても、いや、考えたからこそ、彼女の言葉を否定できない。




 ずっと深夜。蒼い人間。人がいない小川。




 不自然さが、自然に、都合よく、今まで疑問を抱けなかったのが異常だと、考えれば考えるほど、理解してしまう。だからこそ、今の優二は少女を揶揄うことも非難することもできない。




 それは恐らく、彼女の言う通り、薄々わかっていたことだからだろう。




「いいんだ、答えなくて。君は何も悪くない。ーー悪いのは、いつだって私だ」




「…………」




 彼女の声はずっと優しい。いつものおどけた笑顔など、蜃気楼のように消え去って、一体どちらが本当の彼女なのか、わからなくなる。


 


 笑って、楽しんで、常に明るく過ごした彼女か。


 悲しんで、慈しんで、優二の全てに寄り添おうとした彼女か。




「今の時刻は大体午前二時。『丑三つ時』って言ってね、この世とあの世が繋がる時間、らしいよ」




「……それが、何か」




 優二は見ないふりをしていた。ずっと、目を逸らして、この時間が永遠に続くことを願っていた。


 永遠など存在しない。それは彼自身もわかっていたこと。


 段々、思考が鮮明になっていく。蓋をしていた記憶が、決壊したダムのように溢れ出る。


 そうだ。この空間の正体は――




「随分苦し紛れの質問だね。でも、それが正しい」




「っ……正しいことなんて、何一つないでしょうが!」




 終始冷静な少女に対して、優二は冷静さを欠いている。いつもとは真逆のようだが、本来、これが正しかったのだ。


 リアリストを気取って、無感情を演じていた優二。道化になりきって、毎日が楽しいと言わんばかりの笑顔を作っていた少女。




 それはとても歪な在り方だ。自分を偽り、自分と関わるすべての人を騙して、何もかもを塞ぎ込む。


 それでも、そうしないと耐えられないから。




 自分が不幸だとそう言い聞かせて、それを免罪符にして、優二はずっと逃げてきた。


 そして、逃げなかったのが彼女だ。




 同時に、耐えられなかったのも彼女だ。




「……君は」




「今が何時だなんて、どうだっていい!今、ここで、僕があなたと何気なく話して!別れて……また、会いに来る……それで、良いじゃないですか」




 永遠を願った。永久を望んだ。


 いくら逃げても、現実は非情にやってくるというのに、優二は逃げ続けることを選んだ。逃げ切れる可能性などないのに、自分が壊れる可能性を恐れて、今の今までこの空間に逃げていた。




 それでも――




「……でも、無理なんだよ。気づいているだろ?ーー私が、会う度に川に近づいているのに」




 最初は、川のほとり――今のように、水に浸かるようなことなどなかった。


 彼女は自分からそこに入っていったのではない。そこに引きずり込まれたのだ。




「……そんなこと、知りませんよ」




 往生際が悪く、またも見て見ぬふりをしようとする。そんな優二の姿を見て、少女は益々優二に向ける目を優しくした。




「丑三つ時、あの世とこの世、そして川。これが示すのは一つだよ」




 小さな子供に言い聞かせるように、泣きじゃくる子供をあやすように、優しく、優しすぎるくらいに、穏やかな声で語りかける。


 そんな少女の行動に、優二はもう戻れないのだと、永遠はないのだと、絶望して、失望して、ありもしない理不尽に怒って、その言葉を口にする。




「……僕と、あなたは」




「違うね。私が、私だけが、死ぬんだよ」




 しかし、即座に否定され、優二は涙目の顔を、俯いていた顔を上げて、理解できないといった表情をする。


 彼女だけが死ぬ。そう言われたとき、視界がぐらついた。


 深い失意のどん底に、現実という悪魔の魔の手に引かれて、落ちて、堕ちて、膝をついて。




「私たちは交通事故に遭った。トラックに轢かれて、今、意識不明の状態にある」




 少女の言ったその言葉に、一つの違和感を感じた。




「……『遭った』?」




「ーーそうだね。確かに、遭ったと言うのは不適切だ。何せ、私の方から飛び込んだからね」




 目を伏せて、そう言う少女。


 優二は『無感情』に、感情の全てが抜け落ちたような声音で記憶をたどる。




「……あなたと僕は、同じ道を通って、帰ってた」




「そうだよ。今までみたいに、くだらない話をしながら、歩いてた」




 淡々と話す少女に、優二は縋るように言った。




「なんで、あんなことしたんですかっ……」




 優二と少女は――夜舞蒼華は二人で歩いていた。




 優二と蒼華は『変人』繋がりで知り合った。


 優二は『青』に対する熱量が常人のそれではなく、青いものに関する知識の蓄えが多い。『青マニア』というあだ名を付けられるくらいには、青いものを愛していた。


 それに対し蒼華は――




「ごめんね。私の悪い癖が出てしまった。ーー私はね、『綺麗だ』って思ったものを、自分のものにしたいって思うんだよ。でも、幼い私は、その方法がわからなかった。だから、それを口の中に入れて、咀嚼して、自分の中に『保存』した」




 懺悔するように、蒼華は言った。


 自虐気味に、心の底から申し訳なさそうに、失意の中にいる優二の心を抉る。




 優二は力なく、




「それが、どうしたって言うんですか」




「……私は、君の心が欲しかったんだ」




 酷く不愛想な、優二の声。しかし、それは別に蒼華を恨んだり、疎んだりしていたからではない。寧ろ逆で、彼は蒼華を好ましく思っていた。




 一緒に帰るのを、許すくらいには。




「君がどうしようもなく好きだった。ずっと受け入れられず、孤立していた私にも、普通に、他の人と同じように話しかけてくれた」




 彼らの出会いは、何とも奇妙なものだ。いつも通り、学校帰りに歩いていた優二は、近くの公園でしゃがみ込んでいた蒼華の姿を見かけた。そして近づいてみると、彼女は低木の花を口に運んでいたのだ。




 驚きはあった。しかしそれ以上に、『こんな人もいるのだな』と、少しだけ、ほんの少しだけ親近感を抱いていた。


 優二は過去、その『青』への執着から友人と大喧嘩をしたり、嫌がらせを受けたりもした。


 理解できないから、理解したくないから、人は異質なものを遠ざけ、排除しようとする。そんな、誰にでも備わっている身勝手な本能。その被害者が、『変人』と呼ばれる人たち。優二はそれを、身を以て知っていた。




 だから、友達のいない彼女に、一人で苦しんでいた彼女に、手を差し伸べることができた。




「嫉妬、なんだろうね。君は人気者だからさ、友達も沢山いただろう?私とよく話すようになってから、どんどん友達を作ってしまう君を、羨ましいと思うと同時に、君の時間を奪うことのできる、そんな人間に嫉妬してた」




 優二は、『青マニア』であるという点を除けば、人付き合いが苦手なわけでもなく、他の人と同じものにハマったりもする。


 だから、高校に入学して時間がたつにつれ、彼の異常性より、他の人が共感できるような部分が大きくなっていって。


 気づけば、二人、三人と、優二の知る人間は増えていった。




「僕はーー」




「天翅君は私のものだって、根拠もないのに、勝手にそう思って……あの時、それが決壊した」




 酷く蒸し暑い、夏の日だったような気がする。


 友達が増え、少しずつ蒼華と喋ることが少なくなっていたころ。




「『友達と遊びに行くから、夜舞さんも来ますか?』だってさ。今なってはありがたいお誘いだったはずなのに、あの時の私は卑屈でさ、『他の友達』と同列に数えられてるのが、君の『一番』じゃなかったのが、腹立たしかった」




 声が徐々に震えていく。優二はもう、何も言うことができなくなっていた。




「そんな自分勝手な理由で、私は君の目の前で、道路に飛び出したんだよ。君の『特別』になりたい一心で、君の心に『爪痕』を残そうってね。私は、君の心をも、私のものにしたいと、そう、思ってしまった」




 本当に、突然のことだった。おもむろに、『君って、凄くいい人だよね』と、何の脈絡もなく言って、次の瞬間、彼女はその一歩を踏み出していた。


 酷く軽快に、酷く自然に、躊躇いなど一切なく、彼女は自らの命を投げ出した。




「酷いよね。後先考えず飛び出して、君の全てを傷つけて、それで、満足しようとしてた」




 多くの人に迷惑をかけたなあ、と蒼華は続ける。


 あの時、蒼華を撥ねることになってしまった車の運転手。娘のことが理解できないながらも愛そうとしてくれていた蒼華の両親。そして、心に深い『爪痕』が刻まれ、蒼華の身勝手な行動のせいで身も心もずたずたに傷ついてしまった優二。皆に、そう軽くない大迷惑をかけてしまった。




「だから、私は許されようだなんて思ってないよ。君が私の死を悲しもうと、私の愚行を恨もうと、それは私の本懐だ。反省なんて、死ぬまでしないよ。もうすぐ死ぬんだけどね」




「……」




 それはきっと、彼女なりの冗談だったのかもしれない。


 彼女は最後まで『変人』だった。優二には到底理解のできない思考をしていて、優二には到底実行できない行動をして、そして、何より理解できないのは、その精神性。




 彼女は今まで、何度も嫌がらせを受けたことがあるという。


 あだ名に始まり、暴力に続き、無視に終わる。


 優二はそんなことをされたことはない。だから、彼女に無責任な共感はできない。最後まで、彼女のことは何一つ理解できないまま終わる。




 それが、優二にはこの上なく腹立たしかった。




「笑ってくれないと、ちょっと傷つくなあ。……もう二度と、私みたいな悪い奴に、騙されるんじゃないよ」




 そう言って、世界が割れる。


 川の水流が激しくなって、蒼華という存在が流されていく。




 きっと、彼女がこれから行くのは地獄だ。彼女自身が言うように、蒼華は悪い奴だった。




 でも、




 「……また、会いましょうね」




 彼女はまだ悲しんでいる。




 だから、地獄まで追う覚悟を、地獄には逃がさない決意を、優二は抱いた。


 優二のその言葉に、蒼華は呆気にとられたような顔をして、




「そりゃ無理だよ。何せ、私が行くのは地獄だから――」




 ――君には到底、辿り着けない。




 その言葉を最後にして、夢が、終わった。






 *************






 優二が目覚めると、そこには真っ白い空間が広がっていた。




 そんな錯覚は一瞬のことで、体を起こすと、そこは病室であることがわかる。


 病院のベッドに、彼は寝かされたいたようだ。


 全身に包帯が巻かれ、それを自覚してから優二は体を駆け巡る激痛に気づいた。




 ――生きている。




 苦悶の表情を浮かべながら、ベッドに深く体を預ける。


 ふと、彼は窓の外に目をやった。




 雲一つない青空。そこには、彼の大好きな『青』が一面に広がっていた。


 しかし、決定的なものが欠けている。




「……馬鹿ですね」




 さっきまで会話していた少女を、もう、どこにもいなくなってしまった少女を想い、優二は一人呟いた。




「……ぽっかりと空いた大穴を、『爪痕』だなんて言わないでしょうに」

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