第1章
第1話 融雪①
長い間、闇の中に沈んでいた。
その場所では、時折音が聞こえた。ゴオォ、と地が鳴る音だ。それ以外は何もない。
風の気配も人の息づかいも、何ひとつ感じられなかった。
ただ静かで、息を吸うたびに肺の奥まで冷え、身体の芯が氷に包まれていく。不思議とそれは不快ではなく、むしろ安らかで心地がよいくらいだった。
まるですべてを忘れることを許してくれるかのような、優しい闇。
けれど、どこか遠くで誰かが呼んでいた。
「──、─」
かすかな揺らぎとともに、小さな音が耳に届いた。初めは耳鳴りかと思ったが、それは何度もこちらに呼びかけ続けていた。
意味は分からない。言葉の輪郭さえ掴めない。
ただ、一つだけ確信がある。それは“人の声”だった。
しばらくの後、重く沈んでいた意識がわずかに浮上した。
瞼は鉛のように重かったが、それでも"目を開けなければ"という自分自身ではないような誰かの焦りを感じて、ゆっくりと瞼を上げた。白く眩しい視界は滲んでいて、世界全体が揺らいで見えた。
その中で、誰かの顔がこちらを覗き込んでいるのが分かった。
「……?」
目が慣れて来るにつれて、その"誰か"はまだ若くやわらかな印象を持つ青年だと認識できた。
「おっ、目が覚めたか!」
目に安堵の色を浮かべながらにこりと笑うその声と表情は、まるで温かい日差しのように柔らかい。だが、知らない顔だった。
それだけではない──"僕"は、自分が誰なのかさえ思い出せなかった。
「どうした?大丈夫か?」
心配そうな呼びかけに、返す言葉が見つからない。思考は霧に包まれていて、何一つつかむことができなかった。
名前、年齢、過去。自分という存在が、今ここにあるはずなのに、何もわからない。
──自分は、何者だ?
重力に逆らうように、ふらりと上半身を起こす。身体は鉛のように重く、筋肉は錆びついたように言うことをきかない。それでも、何かに突き動かされるように、僕は視線を周囲へと移した。
白い天井、無機質な照明。腕に差し込まれた点滴のチューブが、淡く灯るモニターと繋がっている。その機械は、規則正しく静かな音を刻んでいた。そして、ベッドの感触。手のひらに触れるシーツの滑らかさ。
目に入る一つ一つの物の名前が頭に浮かんでいく。だが、それらがどう関係し合ってこの世界を成すのか、その繋がりが見えてこない。まるで、記憶の根だけが切り取られ、世界と自分の間に見えない壁が立っているようだった。
──外に出れば、何か思い出せるだろうか。
それが根拠の無い願いに近いものだと分かってはいても、そう考えずにはいられなかった。それほどまでに、記憶が無い事に本能的な焦りを覚えていたのだ。
「おい!まだ動くのは危ないぞ!」
青年の慌てた声が響く。
しかし、僕は彼の言葉に耳を貸さず、掛け布を払いのけた。点滴のチューブを引き抜き、絡みつく管を手で振り払い、裸足のまま床へ足を下ろす。
ぺたり、ぺたり。
冷たい床が肌を刺す。
床は石のように冷たく、足裏に鋭さが突き刺さる。まだ力の入らない足首が震え、歩みはぎこちない。それでも、一歩、また一歩と前に進もうとした。
だがその瞬間、全身から糸が切れたように力が抜けた。抗う間もなく身体は崩れ落ち、視界がぐらりと傾く。床が容赦なく迫り、受け身を取る余裕もなく頬が叩きつけられた。肺の奥から空気が押し出され、喉でかすれた声が詰まる。
その衝撃が引き金となったのか、突如頭が裂けるような痛みに襲われた。内側から鋭利な刃で切り刻まれるような激痛が走り、閃光が意識を突き抜ける。視界が暗く落ちていく中、焼きつくような光景が僕の頭に浮かび上がった。
──死体の山だ。
そこには、人間と獣の亡骸が無秩序に積み上がり、血肉の塊がうず高く形成されていたのだ。裂けた肉から骨が覗き、赤黒い血が乾いて大地を覆っていた。
光景は、まるでそこに存在する現実のように生々しかった。存在しないはずの悪臭が鼻をつき、反射的に吐き気がこみ上げ、呼吸が浅く乱れる。
「……ッ」
混乱と恐怖、そして理由の分からない焦燥が胸を締め付ける。
その焦燥が消えないままに、頭の奥で再び脈打つ痛みが走り、別の映像が焼きついた。
一人の少年の姿だ。
雪のように白い髪。血を思わせる赤い瞳。背中には、瞳と同じくらい鮮やかな色の赤い羽が花のように咲き誇っていた。
少年は僕に向かってぎこちない笑みを浮かべていたが、それでもその笑顔には確かな温もりと懐かしさが感じられた。そんな彼の姿は、締め付けられるような痛みを伴って僕の胸へと強烈に刻み込まれる。
この少年は誰だ?僕にとって何だった?
その問いは心の奥で残響のように反響し続けていた。
「おい、しっかりしろって!聞こえてるか?」
身体ががくんと揺れ、意識が無理やり引き戻される。
ぼやけていた世界に徐々に輪郭が戻り、焦点がようやく定まった視界に映ったのは、先ほどの青年だった。柔らかい光を受けた茶色の髪。鮮やかな緑の瞳。背丈も体格もがっしりとしていて、僕より一回り大きいだろうか。
「……っ、あ……」
彼の言葉に何か返そうと口を開いたが、喉がうまく動かなかった。反射的に喉元へ手を当てる。記憶を失ったことに続き、まさか声も出ないのかと再び焦燥感に襲われそうになるが、彼が心配そうに手渡してくれた水で喉の渇きを自覚した。カップを受け取ってゆっくりと口に含むと、喉の感覚が少しずつ自分のものに戻っていくようだった。
「座って、落ち着け。……驚かせたね」
頭の中で言葉を組み立てながら、ようやく口を動かす。
「……いや……だいじょ、ぶ……です」
途切れがちに返した言葉に、彼は安心したように頷いた。
「そうか。なら良いんだ。身体に異常は無いか?」
その問いかけに、僕は少し迷ってから答えた。
「その……記憶が。なにも、思い出せなくて」
ぽつりと漏らした言葉に、彼の表情が一変した。眉がわずかに寄り、目が大きく見開かれる。そして一瞬の逡巡の後、彼は「少し待っててくれ」と踵を返して、足早に部屋を出て行った。
彼の足音が遠ざかると、部屋に残された僕は静寂に包まれた。
視界に広がる空間は、白く、清潔すぎるほどに整っている。壁には装飾らしい装飾はなく、天井のライトが淡く室内を照らしていた。規則的に響く機械音が、静寂の中でやけに大きく感じられた。
視線を巡らせると、先ほどは気づかなかったものが新たに認識できた。整然と並ぶ医療器具や複数のベッド。その合間から、独特な匂いが鼻を突く。まるで、嗅覚を鈍らせるための毒のように思えるそれは、不快感と懐かしさを同時に呼び起こさせた。
少し視線を上げると、壁の一角に鏡が取り付けられているのに気が付いた。。
再びぺたぺたと足音を立て、その鏡に近付く。歩く感覚に少し慣れてきたのか、今度はふらつかず、確かな足取りで進むことができた。
鏡の前に立つと、僕は自分自身と目が合った。
黒く長い、癖のない髪。年齢は二十を少し超えたくらいだろうか。指先で触れた頬の肌は陶器のように滑らかで、しかし柔らかさもある。その色白の肌は先ほどの彼と比べると、わずかに冷たさを感じさせるほどに白すぎる気もした。
特徴的な赤い瞳は、光を宝石のように反射している。その奥に映るものは、自分自身であるはずなのに、どこか見知らぬ他人のようだった。
ただ、一つはっきりしているのは、それが自分なのだという事実だけだった。
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