楽園、シンダー

SMUR

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   一話


      □


 足元で男が風呂に溺れているのを、私は足の裏で感じ取っている。

 ばしゃばしゃと、派手な音を立てながら、大して容量のないユニットバスに頭を突っ込んで、男はうめいていた。私はそばに備え付けられている手すりを掴みながら、彼の頭を足で踏みつけて浮き上がってこないように押さえていた。つまり端的に言ってしまえば、溺死させようとしていた。海外の何処かで、ワイン製造のための一環として、葡萄を踏み潰す光景を、私は思い出していた。

 男は太っていたし、なんだか薄汚い格好をしていた。このワンルームのマンションから、ろくに外に出たことはないのかもしれないが、私にそれは知らされていなかった。私が把握しているのは、この男が悪い人間なので殺害依頼が入っていることと、それに対する潤沢な報酬の金額だけだった。この男の命は、中古の乗用車一台分くらいになるが、私は車を買う予定なんてまったく無かった。

 男が風呂の中で動かなくなり始めたところで、私は思い出す。あ、やばい。そう心の中で呟いた時には、手遅れだと思った。殺害には、警察の目を欺くためのそれ相応の計画があって、依頼主や私を雇用している組織、そして死体処理業者から、指定された殺し方があるというのに、私は全く無視してしまっていた。

 悪いのは、この男だった。うまく頭のところを殴って殺すのが当初の方法だったが、男はちょうど風呂をためていたところだった。その後頭部を見た時に、最もこの状況で効率の良い殺し方が、私の中で浮かび上がってしまったから、溺死という方法を瞬時に選択した。言い訳をしたところで、いまさらその殺し方を、修正できるものでも無かった。

 ああ、私はいつもこうだ。

 犯罪組織に雇われた人間ではあるのだけれど、私は根本的に、計画的な殺しというものの才能を、微塵も持ち合わせていなかった。

 今まででも、無計画な変な殺し方をして、組織や処理業者に迷惑をかけたことが幾度もあったし、その度に辞めてしまおうだとか、クビになるんだろうかとか、こんなことをやらかせば組織も私を消すんだろうな、だとか、色々と思いつく限りの想像はしたけれど、結果としては怒られたり文句を言われるだけで、私の境遇はこの長い間に、何一つ変わらなかった。

 もうこれで何人目だろう。人を殺してしまうことに何も感じなくなってしまって、もう何回目の殺人なのか、私はもう忘れてしまった。別に、殺す相手は悪人だと聞かされているし、そう信じているから、良心の呵責というものを感じることはなかったけれど、最初に感じていた恐怖や不安は「こんな仕事は私には向いていない」と言う忌避に成り代わっていた。

 もう男が蘇生する恐れもないだろう、という状態まで入念に沈めていると、私を見ているかのようなタイミングで電話がかかってきた。

 私は濡れた手を自分の服で拭ってから、組織から支給されているスマートフォンを懐から取り出して、ディスプレイに表示された相手の名前を確認する。死体処理業者の人間だった。無視をする理由もないので、私は応答した。

「はい、こちらテレビ体験」と私は、組織から殺し屋にあてがわれている意味不明なコードネームを口にした。「時間通りのはずよ。もう少し待てないわけ?」

『すまん』業者は申し訳なさを少しも感じさせない声色で、ぬけぬけと謝った。『少し遅れる。無理は承知だが、お前、簡単な処理は出来るか?』

「あなた、私にそんな細かい作業を頼むわけ? 良いの? 間違えて首と胴体を切り離すかもしれないわよ」

『クソ……お前はそういうのダメなんだったな……。じゃあもう、そのままで良い。なんとか……急ピッチでやれば大丈夫だろう。お前に任せるよりはマシだろうな』

 なんだか私を舐めたその態度に腹が立ったのと、この計画から逸脱した状態の死体を、この男に見られたくなかったので、嫌だと言ったすぐ後に、私は口答えをする。

「馬鹿にしないでよ。包んで、指定のでかいバッグにこの男を詰めるだけでしょ」

『ああ……そうだが。それと血痕も拭き取らなければならない』

「血痕? ああ……血痕ね」

『どれくらい飛び散っている? お前のことだから、部屋中血まみれか?』

「ああ、うん。そう。そうよ。ケチャップなんかもう見たくもないくらいよ。でも拭き取るのは簡単。風呂場で殺したもの」

『……なら都合がいいな。全部水洗いすれば良い。じゃあ、任せても良いか? 運搬は予定通りこっちでやるから、とりあえず玄関の所に置いておいてくれ。いいか? くれぐれも、証拠を残すなよ』

「任せなさいってば」

 電話を切ってから、私は現実に戻った。

 どうしよう。とにかく言われた通りに死体を作るために、私は風呂から太った男を引き上げて、手近な鈍器(シャワーヘッド)で頭を殴って、流れ出てきた血が止まるのを待つ間に、ドライヤーを使って男の身体を乾かした。そして、肺に入り込んだ水も抜かなければならないことを思い出して、男を逆さにして、肺のあたりを殴ったりして吐き出させた。

 はあ……。私はため息を吐く。死体ってやつは、どうしてこうも面倒なんだろう。

 濡れた死体は、まだ全然乾いていない。私は少し息を整えようと思って、リビングの窓を開けた。窓の外からは、子供の笑い声が聞こえる。昼間だ。平日の、真昼間。昼の方が、夜や朝より人が少ないというのが、組織に出している結論だった。昼間から風呂に入るというこの男の生活スタイルが気になったが、深く考えないに越したことはなかった。

 めんどくさい。素直に私はそう思った。死体がどんな状態だろうと、適当にタオルで包んでいればわからないだろう。

 私は死体を言われた通りに布とブルーシートで包んで、本来何を入れるのかもわからないような巨大なバッグに納めた。人間がこんな所に入るのかと昨日までは不審に思っていたが、いざ詰めてみると、案外収まるものだと感心した。まあ、腕なんかは不自然に折れてしまっていたが、私にとってはどうでも良いことだった。それに、リビングも濡れた死体のせいで水浸しになっていた。興味なし。

 辞めよう。何度そう思ったかわからないけれど、私は死体を作る度にそう決意して、そうして次の依頼を言い渡される時に、また今度でいいかと先延ばしにするのを繰り返していた。

 玄関に死体を置き、そこから外に出る時に、また電話。

 今度は処理屋ではなかった。私の組織の、私を操っている上司に当たる存在だった。

 耳に当てると、聞こえてきたのは変声された声だった。いつもそうだ。この組織は、各々の情報を、極力秘匿することに莫大なコストを掛けていた。

「はい……」

『お前指名の依頼だ。明日から、蒸気島へ行ってくれ』

「蒸気島? あの金持ちが遊ぶところ?」

『リゾート地だ。そこで今回の死体を処理するついでに、指定するターゲットを殺せ』

「じゃあさっさと済ませて、その島で休暇を取るわ」

『ターゲットは、我が組織の殺し屋、あの「断片化された友人」だ』

 その意味不明な名前を聞いた時に、私は時間が止まるような感覚を覚える。

 その名前を……その殺し屋の名前なら、昔から眠る前に何度も反芻していた。

 私から全てを奪った、憎い人間のコードネームだった。



『で、もう船には乗っているのか?』

 と訊いたのは、昨日も仕事で一緒になっていた、死体処理業者の男だった。

 名前は数土だということを知っているが、呼んだことは無かったし、どうせ本名でもなんでもないっていうことは、この業界に身を沈めて時間が浅いバカにでもわかる。

「ええ。甲板が馬鹿みたいに暑い。トースター無しでパンでも焼けるんじゃないかしら」

 私は答える。沖合を突き進んでいるフェリーの上は、当然ながら風が強い。適当に染めた、自分の長い金髪が、口や目に入りそうで嫌だったが、とくに理由もなく切る気にはなれなかった。長いということに対するストレス値が、自分の容姿への貢献を上回っていないからだった。

『それで、テレビ体験。お前の今回の偽名はどうなった?』

「入宮メバエ、だってさ。変な名前よ。どこで作ったのか知らないけど、わざわざボスの実家のタンスに押し込んでくたびれさせたような、汚いパスポートまで渡されたわ。蒸気島は国内だってのに。仕方なく、わざわざ写真も自分で貼ったのよ」

『入宮ね……』数土は私の顔でも思い出しているのか、その名前に違和感を持ち出すように、そう呟く。『まあ慣れるしか無いだろう。いつものことじゃないのか?』

「そうだけど、すぐに忘れちゃうのよね。胸からパスポートをぶら下げようかしら」

『そうしてろ。俺も忘れないで済む』

 業務的な確認の話だけを済ませて、電話を切った。

 朝だった。昨日の殺人が終わったあと、寝床へ帰って適当な準備をし、次の日の早朝に蒸気島行きのフェリーに乗り込んでいる。

 蒸気島とは、ここ最近で急速に発達したリゾート地だった。もともと島の存在自体、あまり知られていなかったが、リゾートとして名を馳せると共に一般認知度も上がっていった。それはもう、私ごときが知っている、という程度に。

 一応では日本の領土、所属は東京都ということになっているが、日本からは相応の距離があるせいで、比較的南国的な気候が保たれている、広告代理店が言うには「楽園」の名を冠する場所だという。どうせ、大げさな宣伝文句だろうと思って、私はハナから信じていなかったが。

 リゾートなんて興味がない。金を持て余したバカな人間の行くところだと、私は昔から考えている。行くことで何かを得られるわけじゃない。何かが解決するわけじゃない。自分の問題を自宅に置いてきて、ただ解決を先延ばしにしているだけの、現実逃避でしかないんだ。私がどうにかしなければならないのは、問題から逃げることじゃなくて、立ち向かうことだ。そんな人間には、リゾートに行こうなんていう考えすら産み落とされないに決まっていた。

 胃が痛くなって来た。リゾートという華々しい土地に対して、身体が拒否反応を起こしている。けれどもう、船は止まることはない。ここで船長を人質に取ってシージャックでもしない限りは、私の気持ちを、電車から見える風景みたいに置き去りにして、島へ突き進んで行くんだろう。

 けれど、ついに殺すことが出来るんだ。私は思い出す。あの憎くてたまらない殺し屋……断片化された友人を。私はその感情だけを掲げて、正気を保っていた。

 大きなスーツケースを近くへ置き、私は備え付けの汚いベンチへ座って、それから耳にイヤフォンを差し込んで、スマートフォンで音楽を再生する。九十年代のオルタナティブロックが私の趣味であり、九十年代のオルタナティブロックが流れている場所こそが、私の居場所だった。組織の支部や本部は、くだらない最近のアイドルソングだとか、聴きどころが全くない霞みたいな音楽が流れているから嫌いだった。

 ニルヴァーナ、ペイブメント、あとはダイナソージュニア。そのあたりばかりを聴いている。どうして好きなのかについては、特に理由はない。なんとなく自分の厭世観に一致していると言うだけのことだろう。それに、大嫌いなうちの組織の本部では、絶対に流れないタイプの音楽ということが、余計にそれらを自分にとってのテーマミュージックにする力があった。

 音楽が、嫌な景色、海や空や潮騒や、太陽と雲と、あと鴎の声やエンジン音や、金を持っている乗客を消し去って、私だけの空間を形成してくれた。

 そうして私はいつもの癖、スマートフォンで職業診断をする。自分に適している職業を、質問に答えるだけで導いてくれる、人類の叡智だった。私はそれを、暇さえあれば立ち上げて、自分が殺し屋を辞めた後の生活についての一助にしていた。

 今日の診断は、芸術家。昨日は司書だったか。やはり私にはその方面が向いているということだろう。なら、バンドでもやるか。音楽は好きだ。だからこうして聴いている。けれども私は、人を効率的に一捻りで殺せる技術がありながら、楽器を弾くなんていう繊細な行為が向いているとは思えなかったし、歌うことが好きでもなかった。

 苛立つ。輝かしい未来は、別に今の状況を好転させるわけじゃない。

 理想の自分とは大きく違いすぎる、カスほども価値のない現状を直視することが、私の日課であり最も辛い行為だと言えた。



 港へと降り立った私は、特にこの島に対してなんの感慨も感じなかった。ただ暑いと思ったのと、人が多いなとも思った。それから、南国の雰囲気を全面に出そうとしている装飾とは裏腹に、建築や街や樹木の様相は、日本のものと少しも変わりがなかった。

 島では唯一、そして最大というホテルにたどり着き、私はさっさとチェックインを済ませた。それから見計らったようなタイミングでメールが入って、私はスマートフォンを廊下を歩きながら取り出した。

 メールの相手は数土で、内容は「今からお前の部屋に行くから部屋の番号を教えろ」というものだった。私は言う通りに教え、「良いけど襲わないでよ」と付け加えた。数土からは「バカ」とだけ返事があった。

 さして等級の高い部屋ではない。ベッドがあって、机や空気清浄機や天井近くに空調があって、窓も西側に備え付けられており、そこからはかすかに海が見えたが、少しも魅力を感じなかった。人がひしめいていて、肉団子スープみたいだと思った。

 しばらくして現れた数土。その容姿は、事前に確認した通りだった。異常に筋肉質で、眼鏡の奥は、不機嫌に見えるくらい堅苦しい表情をしていた。私の冗談がいつも通じないところを見ると、愉快からはかけ離れたつまらない男だろう、と思われた。彼はリゾートという土地に紛れようとする努力なのか、地味な柄のアロハシャツを着ていた。私がアロハを買うとなった時に、絶対に選びそうもないような、信じられないくらいの地味さだった。

 数土は、私の容姿と声を確認した。長い金髪、自分で言うのもあれだけど、顔は整っている方だと思っている。格好は、海だというから、家から競泳水着を着たまま、ここまで来た。もちろん、その上には白い上着を羽織っている。自分では似合っていると思っていたのに、数土はぎょっとしたのが解せなかった。

「お互いの顔が割れた以上、今回が最後の仕事だ」数土はルームサービスで頼んだラーメンを啜りながら言う。私は何も食べなかった。「組織の決まりだ。誰の顔も明かしてはならない。その徹底した姿勢が、他の犯罪組織から、お前や他の殺し屋を守ることになる」

「あんたが私の顔の情報を、他の組織に売りさばく可能性は?」

「そんな軽いやつが、この堅い業界で生きていけるもんか」数土は私は見る。「それにしても、こんな変な女が、組織一の手練れだなんて、実際に見てもまだ信じられん」

「美人すぎる、ってよく言われるわ」

「は。顔が割れてないのが残念だな」なんて、数土は興味もなさそうに呟く。「殺しってのは、どんな感じなんだ。俺は、そういうのに向いてないからわからないんだ」

「正義を執行している、って思い込むことが大事よ」私はベッドに座る。自分のその思い込みを、無事に現在まで続けてきたのか、不安になった。「あとは虫を殺すのと変わらないわ。あなた、そういえばそんな巨体で腕力もないんですって? 筋肉は飾り?」

「疲れることが嫌いなんだ。痛いのも、嫌だな……死体処理中に内臓なんか見ると、吐き気が止まらない。最悪だ。血も見たくない。入宮、お前が作る死体は、俺にとっては最悪の部類だ。もっと綺麗に殺せないものか」私への文句を言って数土は、ラーメンを食べ終える。

「無理よ。人ってのはね、なかなか死なないもの。あなたもやってみればわかるわよ」

「組織が俺に依頼することは、死体の処理と、速攻と遅効、そのどちらかの毒物の調達くらいだ」

「運搬は?」

「そうだな、今回は、そういうのも頼まれた。死体は重くて嫌なんだが……」数土は言いながら立ち上がった。「さて。さっそく、お前が昨日作った死体の処理をしてくる。捨てる場所は決まっているんだ。それが終わったら、組織からお前のターゲットを探すのに協力しろと言われているんだ」

「ありがたいこと。断片化された友人の顔はわかってるわけ?」

「わかってたら、俺が協力なんかしないだろ。お前は、それまで待機していろ」

「暇つぶしなら任せなさい」

 数土が出ていくと、私は早速大きな音で好きな音楽を掛けて、カーテンを閉めた。日差しも嫌い、窓から見える人たちも嫌いだった。私はそれからスーツケースから勉強道具を取り出して、机に向かった。資格の勉強だった。資格の勉強と言いつつ、何を取るのかを全く決めていないが、そのまとまった時間が、私を殺し屋から乖離させる気がした。将来のために、何かをしておくのは、大事なことだと私の死んだ両親もよく言っていた。

 けれど考えることは、断片化された友人のことだった。

 この島の何処かにターゲットが潜んでいるという調べは、組織が言うにはついている。問題は、その顔がわからないことだが、我が組織の殺し屋には、それ相応の目印がある。それを探すことが、当面の目的になるだろう。

 見つけたあとは、バラバラにして豚の餌にでもする。それが一番、私の気が晴れる気がした。



 ああ、どうしてこんなことになってしまったのか。

 そう嘆いて、私は頭を抱えたくなったが、眼の前で死体を物色している女(この島の警官だと言った)に見られて、変な疑いを生じさせるのも危険だと思って、私はその不快感を飲み込むだけで精一杯だった。

 数土は結局、私に死体の運搬をやらせた。「すまん、別の仕事で手が離せなくなった」と彼は私に、急にその役目を押し付けた。彼は私に任せる際に、死体は山に運んで、バッグから出して、そのまま谷底に捨てるんだ、という手順を私に説明した。たったそれだけのことだし、どれだけ雑に扱っても良い、と数土も言った。そこから落として、墜死に見せかける。それだけが目的だった。だから撲殺を頼んだんだ、とも言った。本当の死因は溺死だなんて、夢にも思っていないらしい。

 バッグは大きかったが、運ぶこと自体は、さして難題でもなかった。島の北の方に、観光客も入れる程度の山があって、そこには森が生い茂っていた。道は悪かったのだけれど、それでも諦めて引き返すほどでもなかった。

 しばらく登ると、数土の言うような谷が見えた。森と森の合間に、切り裂かれたように切れ目が存在していて、下には海と岩肌が見えた。落ちてしまえばまず助からないような場所だった。観光客も何人か死んでいるらしく、注意しろだとか、立入禁止だとか言った看板がいくつも立てられていた。

 それらを無視して、私は谷底に、バッグから引き出した死体を投げ捨てた。

 そこまでは順調だったのだけれど、私は変な緊張からか、自分のしていたネックレスも、谷底に死体と一緒に落としてしまった。

 バカ、何をやっているんだ、と私は自分を叱咤した。谷底へ行くには、大きく迂回して、海の方から回り込まなければならなかった。しかしネックレスをそのままにしておくのも都合が悪かったので、私はそのルートを取って、死体のもとに向かった。

 ネックレスは死体の近くにあったが、今度はその様子を、他の観光客に見られてしまい、仕方がなく私は第一発見者のふりをして、彼らに警察を呼ぶように伝えた。

 そうしてやってきたのが、この眼の前の女。名前は鷹森由加と名乗った。この暑いのに警察官の制服を着込んでいて、おまけに帽子までかぶっている。背格好は私とそう変わらないようだけど、どことなく事務的というか、冷たい印象が漂っている。

 死体は、ちょうど岩肌と海辺の間辺りに引っかかっていた。数土が着せたらしく、趣味の悪い海パンを身に着けていた。私が殺した時には、当然そんな格好ではなかった。

「えっと……」死体から目を離し、私を見つめて鷹森は尋ねた。意外に、おっとりとした可愛い顔をしていた。「入宮さん? でしたっけ。この死体とは知り合いですか?」

「さあ、初めて見る顔よ。可哀想に、苦痛に歪んでるわね」私も死体を覗き込む。そうした方が良いのかと思った。殺してから、顔を初めて見る人間というのは、私の中では珍しくない。この男も、こんな顔をしていたのかと、私はここで知る。「即死じゃないのね、きっと……」

「じゃあ……しばらくは生きていた、ってことですか」

「まあ、そうなると思うけど……」

「入宮さん、もしかしてですけど、死体って見慣れてます?」鷹森が私の顔を見た。私を疑っているというよりは、私に純粋な興味を持っているらしい。

「見慣れててるっていうか……日常みたいな……」余計なことを言った気はしたが、別に嘘をついても怪しげな挙動しかできないのが私でもあった。「まあ、仕事上ね」

「なら、この死体、どう見ますか」

「どう見るも何も……事故死よ、きっと」私は腕を組みながら、見上げる。「谷の上の、あの森の所から墜落したのよ。ここまで落ちて、でも打ちどころが良かったのか悪かったのか、この水辺で、しばらく苦痛に悶えていたんだわ。ほら、腕も折れてる」

「なるほど」鷹森は死体の腕を見る。「へえ、本当だ。折れてる。気づきませんでした。検死は不慣れなんで」

「そうそう」大丈夫かこの警官、と私は思う。「他にも、ほら唇が紫になってる。苦痛に耐えかねて、海の水で自害したとも考えられるわね」

「ああ、じゃあ墜落死じゃなくて、溺死の可能性もあると」

「そういうことよ。実際のところは、本土の鑑識にでも調べてもらわなければ、わからないけどね」

「へえ、すごいです」鷹森は手を叩く。「……助かります、入宮さん。私だけでは、どうしようもなかったんですよ」鷹森はホッとしたように息を吐いた。「この人って、旅行者ですかね。入宮さんは?」

「私も旅行者よ。リゾート地で、持て余した時間と金をひけらかすの。でも、今日着いたばかりだから、彼のことは知らないわ。ホテルに確認してみたら? 身分証は……ほら、近くの、小さな鞄に入ってるわよ」数土が持たせたものだ。中にはきっと、この男の身分証明書と顔写真と、スマートフォンが入っている。

 鷹森は男の鞄を開け、中身を改めた。私が想像しているものと、全く同じものが、乱雑に押し込められていた。鷹森はそれを、砂の上に、トランプ遊びみたいにして並べていき、男の名前を確認し、ホテルに電話をして、宿泊客かどうかの確認を取った。

 男の名前は、脇田荘。年齢は三十歳。家族らしい家族はいない。職業はイラストレーター。彼の部屋の様子から、そんな職業だと推測できる要素は見当たらなかったが、そういうことになっていた。ホテル側は、どういった男なのかは記憶していないが、脇田という名前の客に部屋を提供していることは間違いがない、と答えた。

 鷹森は電話を切った。そうして長い溜息を吐いた。

「まったく、忙しいのに……本土から応援がなかなか来ないんですよね」純然たる愚痴だった。「この島には、警官は私しかいませんし……入宮さん、このことは、他言無用でお願いします。事件だけでも辛いというのに、そんな下らない情報を聞いて、パニックになった観光客の世話なんて、私には無理ですからね」

「ええ、口は堅いってよく言われるの」

「それ、口が軽い人しか言いませんよ」


      ■


 俺が蒸気島に降り立った時に覚えた感情は、なんとも言えない開放感と、俗世からの距離感と、あとは自分のような人間が、こんな場所にいて良いのか、という思いに端を発する疎外感だった。

 別に、旅行をしに来たわけではない。相応の代金を払っていれば、それなりに自分もこの土地にいてもいい、という感情を生成することも出来るのかもしれなかった。

 ここへは、仕事をしに来たに過ぎない。いくつかの殺しの依頼を、同時にこなすためだった。この島に潜んでいるターゲットを、この機会にまとめて処理してしまおうという組織に雑な考えに付き合わされるのは、いつも俺のような現場の人間だった。

 まあそれも、俺のネームバリューを頼ってのことではあるのだろう。

 組織からは、依頼の他に、いくつかの注意点も聞かされていた。他の犯罪組織の人間も、島に入り込んでいるから気をつけろ、と。いつもなら、そんな忠告はこっちが頼んだところで一つもよこさないくせに、どうして今回ばかりは、俺を気遣うようなことを言うのだろう、と不審に思う。近頃、組織の動きが怪しいとは感じていた。もうすぐ潰れてしまうのか、それとも内部の大幅な改変が行われようとしてるのか。俺にとっては、そのどっちでも良かった。自分に不利益が生じさえしなければ。

 とにかく、先制して、ターゲットの情報と潜伏先を調べることが大事だった。こういう時に、顔を完全に秘匿している、というこちら側のメリットが際立つように思う。俺達は殺しのプロではあるが、それは暗殺の場合に限られる。正面から戦えば、別に一般人を凌駕するような戦闘能力が有るというわけではない。寝込みさえ襲えば、仕事が一番速やかに終わる計算だった。

 バカンスか……。林を歩いて、広場を通って、店が連なる街を歩いている時に、妙に温暖な気候も相まって、俺にバカンスへの感慨を与えた。バカンスという行為自体に、クソほども興味がない、というわけでもない。こんな仕事をしているが、俺だって一般人といえばそうだ。仕事から離れて、こういった場所で休暇を過ごすことに対して、憧れを持っていないといえば嘘になった。

 忘れてしまいたいことなんて、死ぬほどある。

 でも、現実逃避なんじゃないか、バカンスなんて。だけど許されるなら、それを楽しめる人間になりたいと思っていた。元来俺は、殺し屋になんて向いていなかった。

 辞めてしまおうと考える。だけど、綺麗に跡を濁さないで去るには、既にこの手は汚れすぎていた。殺し屋を辞め、そこからシームレスに一般的な社会に順応できるなんていうのは、世間を知らない俺達が抱えがちな、甘い考えでしか無かった。

 甘い考えなのはわかっているが、その甘美さに惹かれない日はない。現に、今だって自由な自分を想像して、嫉妬なのか絶望なのか、それとも諦念なのかわからないような感覚に陥っている。

 殺す相手の一人に、厄介なのがいると聞いた。同じ組織の殺し屋だ。名前は「テレビ体験」と言った。この殺し屋は、暗殺ではなく、その純粋な戦闘能力で、雑に相手を殺してきたため、業界内でも悪評が漂い、それ相応に恐れられていた。一体どんな人間なのか。俺に殺せるのか。そんなことすらも未知数だった。

 無事にテレビ体験を殺すことができれば、俺は組織を辞めようと思う。組織も、それだけの功績を上げれば、許してくれるだろう。同じ組織内で潰し合うことになるのは、笑うしか無いような現状だが、そんな組織に未来を感じないのも事実だった。辞めたあとのことは、そのときに考えればよかった。

 大丈夫、やれる。周囲の子ども、女、男……。そこにテレビ体験が潜んでいるかもしれない。

 大丈夫だ。俺は名の知れた殺し屋……。

 断片化された友人。


      □


「おかえりなさい、えっと……」

 ホテルの支配人を名乗る男が、カウンター越しに私に声をかけた。名前は千住、とネームプレートに書いてある。私のチェックインを応答したときから、ずっと私に向かってにたにたと笑顔を振りまいていた。そうでなければ、至って、特徴の薄い成人男性だと思う。

「入宮よ」私は名乗る。「入宮メバエ。入宮家って言ったら、本土じゃ良家で通ってるのよ。私という女を産み落としたという功績でね」

「はあ、入宮さまですね、覚えました」千住は頭を人差し指で突いた。「ルームサービスはいかがです?」

「そのうちね」

 単に目立っている私を、相当な金持ちだと判断して千住は、搾り取ろうとして気にかけているのだろうと私は想像する。組織からは常識の範囲であれば、どれだけの金を使おうが問題ないと言われていた。人を殺すのは金がかかるが、一体どの程度が常識の範囲なのか、この業界にそれなりにいても、まったくピンとこなかった。

 それでも千住は、支配人としては優秀らしく、観光客に挨拶をされるなど、存外に慕われている様子が、私の目にも写った。なるほど、人に好かれる仕事というのは、ここまで媚びを売る必要さえあるのだろう。私もホテルマンになる可能性だってあるわけだ。その際には、千住の動きを参考にしようと思った。

 ルームサービスを断ったが、私は喉が渇いていた。鷹森にいろいろと尋ねられたことが、妙に神経に触ったのだろうか。私はロビーにある自動販売機へ向かった。

 そこには、着崩したホテルの制服で、煙草を吸う女がいた。目付きが悪く、いかにも気だるそうな態度だった。というか、ここは禁煙だろう。彼女は私を認めると、ゲロでも吐きそうな顔をした。

 そこへ、私の後ろから千住が声を掛ける。

「盛藤くん、いる? あれやっといてって、言ったよね? どうなった?」

 おそらく、目の前の女が盛藤だろう。よく見れば、従業員の格好だった。彼女は千住の声を聞くと、この世の終わりみたいな顔をした。

 私はとっさに、彼女の口から煙草をつまんで、自分の口でくわえた。盛藤は驚いていたが、すぐに千住に応答する。

「は、はい、ちょっと飲み物を……」そして、振り返って私に言う。「すみませんお客様、ロビーは全面禁煙ですので」

「あらごめんなさい。でももう手が震えてたのよ、吸いたくて吸いたくて」

 私達がそんなやり取りをしている間に、千住は去った。

 安息。私達は顔を見合わせて、なんだかおかしくなって笑ってしまう。

「ゲホッ……まったく、煙草なんて吸うもんじゃないわ」私は彼女の口に、咥えていた煙草を突き返した。煙草なんて、趣味じゃないから吸ったことはなかった。「何が美味しいわけ? ビール飲んでる方が気持ちいいわよ」

「すみません、助けてもらって」盛藤は、残りの煙草を大切に吸いながら、私に頭を下げた。「千住のやつ、うるさいんですよね、ろくに休憩も取らせないくせに。私のこと、やる気がないだとか、ボロクソに言うんですよ。でもとにかく、ありがとうございました。えっと……」

「入宮メバエ」そう偽名を口にするのにも、ようやく慣れてきた気がした。「あなたは、従業員?」

「はい。盛藤です。この恩は忘れません」

 仕事に戻りますので、と言って彼女は去っていく。

 私は、彼女の半袖、その向こうの肩からかすかに見えた、刺青のことを思い出していた。

 彼女の趣味だろうか。幾何学的な模様だった。だが、あの口うるさいとさえ言われる千住が、そんなものを許すとは思えない。盛藤の方も、私からなるべく隠すようにしていたように見えたけれど、それを私は偶然に見てしまった。

 私の肩にも刺青はあった。これを隠す時の苦労は、私は誰よりも理解しているつもりでいた。

 いろいろと想像をしながら、私は部屋へ戻った。そこには呼んでもいないのに数土がすでに腰を下ろして、タブレット端末で仕事(もしくは動画でも見てる)をしていた。

「大変よ、数土」

 私が状況を説明する。私が第一発見者となってしまったことや、私を気にかけている鷹森のことを教えた。

「……だから、お前に頼むのは気が引けたんだよな、クソ……」数土は頭を抱える。「……まあ、もともと発見させるつもりではあった。事故死に見せかける予定だっただろ」

「じゃあ、問題ないのね」

「……わからん。お前がその鷹森と関係ができたことが、何より心配なんだよ」

「失礼ね。私のことバカだと思ってるんでしょ」

「思ってるさ」数土は無礼にも頷く。「とにかく、嗅ぎ回られても、余計なことは話すな。脇田なんて知らないんだ、俺達は」

「ええ……まあ、実際知らないし」私は彼の隣に腰を下ろす。「じゃあこれで断片化された友人探しに注力できるってわけね。なにか手がかりは見つかった?」

「あいつが島に潜伏していることは確実だろう。組織もそう言っているし、別の方面から金を握らせた情報屋からの話でも、恐らく間違いない。組織の計画だろうな。断片化された友人を、確実にこの島で処理をしたい。そのために、お前が選ばれたんだ。断片と因縁のあるお前なら、やり遂げるだろうってな」

 因縁。

 あれから、もう十年以上も前のことになるのか。

 断片化された友人は、なんの理由があったのか知らないが、私の両親を殺し、当時の私の恋人も殺した。生き残った私は、断片と同じ組織にスカウトされ、殺し屋として生活しながら、この日をずっと手ぐすね引いて待っていた。

 私から、全てを奪ったあの殺し屋。

 私をこんな地獄に陥れた、あの殺し屋を。

 この手で殺して、私は組織を辞める。待ち望んだその瞬間が、目前まで迫っている。

「でもさ」私は言う。「この島の観光客を見た? 外国人ばかり、凄い人数よ。断片って国籍も人種も割れてないんでしょ。絞り込めるの?」

「まあ安心しろ。雇った情報屋が数人手伝ってくれるさ。俺も、この仕事には本気で挑んでいるからな」

「あんたも、家族を殺されたの?」

「いや元気にしてる」数土は首をふる。「妻と娘は健在だ。俺にはな、入宮。金がいるんだよ。知ってるか? 娘を大学に行かせたいんだが、そのためにどれだけの金がいるか」

「誰に向かっていってるのよ。私が知るわけ無いでしょ」

 私の失われた未来を、親の庇護のもとで享受出来る子どもに対して、

 ああ、なんて私は、醜い嫉妬を覚えているんだろう。



   二話



      □


 こうやって、毎日毎日、断片化された友人への積年の恨みを、朝起きるとともに、ベッドの上で新鮮な状態で記憶から引きずり出すのが、私の仕事に対するルーチンだった。

 何度思い出しても、細部が大げさになることもなければ、やんわりとした印象になることもなかった。常に同じ。常に悲惨で、そして常に目を背けたくなる。

 十年ぐらい前に、家族と恋人を皆殺しにされる。理由は知らない。きっと、私が今やらされているように、私の親になにか悪い面があったのかも知れないが、そんなことはどうでも良かった。それを目撃した恋人も殺されたというのだから、どう考えたって断片の仕事ぶりは、私の雑さを超えたものだろう。

 組織にスカウトされたのは、処理屋か誰かが、私の扱いに困ったからだろう。私はその日、学校へ行っていて偶然巻き込まれなかったのだけど、家に帰ると、言葉に出来ないような惨劇に直面した。それから気を失って、気がついたら組織の手の入った病院に連れ込まれていた。

 スカウトは、チャンスだと思った。別に、もう失うものも何も無いし、この鬱屈した感情は、人を殺すことでしか解消できないんじゃないかって、若い私でもなんとなくそう思っていた。それに、私は何故か、肉体的には他人よりも優れていた。まあ、細かいことを考えるのは苦手だったから、計画が設定してある仕事には苦労したが、それでも全てを腕力で解決した。ターゲットは必ず殺した。成功率で言えば百パーセント。これは、業界でも群を抜いて高い数値だった。

 だからまあ、組織内で私は殺人マシーンだとか、殺人ゴリラだとか、あとは時間を厳守しないことから勤務態度が悪いカスみたいな従業員だとか、いろいろ言われているのも知っている。他の組織も私に気を配っており、時々私に対して罠を仕掛けてくることもあったが、その全てが、私にとってはひどく古典的で幼稚な罠にしか見えなかった。

 断片を殺せる日まで、頑張ろうと思っていた。組織が断片を手放すとは思わなかったが、組織にいれば断片を殺すタイミングが、いつかは巡ってくるだろうという算段は立っていた。まさか、こんなに直接的な形で、私に舞い込んでくるとは考えもしなかったけれど。

「入るぞ」ドアをノックして、数土が部屋へ入る。相変わらず馬鹿みたいに恰幅のいい身体だったが、そこからは想像できないほどに貧弱だった。また、誰も着ないようなダサいアロハを着ていた。

 数土とは、付き合い自体は長かった。彼は組織のお抱えの死体処理業者だったが、雑な仕事しかできない私には、世話になる回数が多かった。あんな顔をしているだなんて、初めて知ったわけだけれど。

「定期船は」数土が、私が応答する前に一方的に話す。「数週間に一度しか運行していない。この島に来る人間は、ほとんどが金持ちばかりだ。数週間もの長期滞在をすることが平均的だから、その本数で十分なんだろう。あとは、本土から必要な食料や物資などを積んだ船が、週に一度通っているが、これは観光客は乗せられない」

「ふうん。その程度の本数で、よくやっていけるわね」

「まあ、こちらとしても、断片化された友人を探すのに都合がいい。なにせ、次の定期船まで、島にいる人数は変わらないからな。そこから絞れば良い。数週間以内にな」

「出来るの? 私は無理よ」

「やるように言われている。それが俺の仕事だ」数土はそれからスマートフォンを取り出して、見る。「それから、組織からの通達だ。断片とは別に、問題のある殺し屋が島に潜んでいるかもしれんから、気をつけろとな」

「同じ組織? 私以上に問題のある殺し屋なんかいるわけ?」

「勝手に殺し屋を数人集めて、飲み会を開いているんだと」

 そのスケールの小ささに、私は思わず笑ってしまった。

「良いじゃないの、それくらい。私も人に、お酒を飲ませて潰したいわ」

「良くない。考えてみろ。組織は顔を秘匿するのが絶対条件だ。仮に合コンや打ち上げだったとして、顔を晒さないで飲み会なんか出来るか?」

「マスカレード形式でしか無理ね」私は想像をして、たかが飲み会のためにそこまでする殺し屋をバカバカしく思った。「気をつけるわ。私も後輩にアルコールハラスメントをしないようにね」

「違う。そういう奴は、組織を軽んじているって話だ。見かけたら、処理をしろ」



 数土と一緒に、スーパーマーケットで日用品を買い(私はあまり何も用意していなかった)、そのまま近くの食事処でぬるいコーラと、異様に分厚いハンバーガーを食べ、現実逃避的な味に起因するインスタントな南国気分に身を浸している時に、島唯一の警官であるという鷹森が、私達に近づいて話しかける。

 鷹森は、相変わらず私に興味を持っているらしく、お茶でも出すので交番でくつろぎませんか、というナンパにしても友だちと遊ぶにしても、悪手としか言いようがない誘い文句を口にした。

 数土は当然嫌がっていたが、私は断りきれずに結局交番までついて行ってしまった。なんだか、鷹森という女の冷たい目が、微妙な恐怖心を煽って、私に断るという選択肢を潰えさせた気がした。

 交番は、町の広場に近い場所にあった。つまりは、スーパーから、さほど距離もなかった。形は別に、本土のものと同じか、それ以上にこじんまりとしており、交番だと説明されなければ、私ではきっとなんの建物なのかは、わからなかったかもしれない。入り口に入ってすぐにカウンターと、その奥には、普段は鷹森が座ってサボっているのだろうソファや小さなテーブルが見え、更にその奥には扉があって、表には居住スペースと日本語と英語と何故かギリシャ語で書かれた紙が貼ってあった。

 私達はカウンターの奥のソファに座らされた。前のテーブルには、何処かで買ってきたジュースが、缶のまま置かれた。鷹森は正面の安っぽい椅子に座り、似合ってもいないぎこちない笑みを浮かべていた。

 私は、数土を夫だと紹介した。数土は死ぬほどに嫌そうな顔を浮かべたが、ややこしくなることを恐れて否定はしなかった。私だって、こんな人間は、別に性の対象に有るわけではない。

 鷹森の用事は、端的だった。

「いや実はですね、本土から応援がなかなか来ないらしくて……定期船もまだ来ませんから、それ用に船を出さないといけないのを、どうも本土の連中が渋ってるらしくて……そこで、入宮さんに少し協力をしてほしいと思ってて」

「協力っつったって……専門的なことは出来ないわよ」私は答える。

 数土を横目で見ると、スマートフォンで文字を入力して、私に見せた。『調べたが、この鷹森は島でも評判が悪い。関わるな』。

「なに、心配ないですよ」鷹森は両手を合わせる。意味はわからない。「また検死をしてほしいってわけじゃなくて、旅行者間でトラブルがあったら、解決して欲しいんですよね。人手が足りなくて。脇田さんの事件もありますから、パトロールなんかやってる暇がないんですよ」

「人を増やそうって考えにはならないの? 本土は。ここって、一応警視庁の?」

「そうですね。いやあ、普段はお金持ちの外国人ばかりですから、基本的に私一人で回るんですけど、数が多いとですね、やっぱり人が死んだりとか、死ぬまでは行かなくても、トラブルだったりっていう事件が、割合的には起きるじゃないですか。脇田さんみたいな事故死だって、今までに何件かありましたし」

「でも全部、観光客には隠してるんでしょ?」

「はい。面倒ですから」鷹森は正直に答える。「いや、面倒というのは、違うかな……手が回らなくなるから、余計なことは言いたくないんですよ。応援も、なかなか来ませんし。入宮さん、多分本職の方だとお見受けするので、手伝ってほしいかな、なんて」

「まあ…………良いわよ、別に」私が頷いたが、数土は歯ぎしりをしていた。「私も、どうせやることないから、観光客と友達にでもなろうと思ってたわけよ」

「ホントですか、ありがとうございます」鷹森は頭を下げた。「じゃあえっと、なにかトラブルだとか、不審者情報だとかが私のところに流れてきたら、そっちへ回しますね。電話番号とか、聞いても?」

 私達は、連絡先を交換した。鷹森由加。字面で見ると、なんだかこの女に微妙に適合しない、ある種のちぐはぐさを感じるような名前だった。

 まあこれで、この女と親しくしておけば、少しは断片を探すことの一助にもなるだろう。私はそう考えていたのだけれど、数土には微塵も伝わっていないようだった。

「入宮メバエさん、ね」鷹森はスマートフォンを眺めながら言う。「なにかこっちから、脇田さんのことで尋ねたいときも連絡しますから。さて……」

 鷹森は立ち上がって居住スペースに向かった。何をするのかと思っていたが、そこの扉を開けてから、私達に振り返って言った。

「あ、えっと、ゲームでもします? 私ね、強いんですよ」

 そこから見えるのは、古いテレビと、古いゲーム機だった。

「二〇三〇年にもなって、結構なことね」


      ■


 海岸は、俺の思考を少しだけ先鋭化させる気がした。

 波の音が俺をリラックスさせ、そして観光客の喧騒が、俺を冷静さから遠ざけた。冷静と憤怒の繰り返しだった。どんな悩み事も、まともな判断は弾き出せそうになかった。

 まだチェックインはしていない。そもそも、ホテルは取っていない。そんなものは、リスクになるだけだと考えていた。したがって、荷物も海岸に持ってきている。そこに武器は入っていない。現地でどうにかする、というか現地のものでどうにかしなければならない、と組織からはよく言われている。この現代社会において、銃器を簡単に入手できて、それを殺し屋に支給するというのは、俺達が考えるよりも、ずっと難しいことなのだろう。

 だから俺はいつも、現地の何の変哲もない日用品で人を殺す。包丁や、果ては鉛筆だ。それさえあれば、なんとかなるようにしているが、組織から通達される計画によっては、殺し方に気を使って、好きなように円滑に殺すことが、難しい場合も多々あった。

 テレビ体験という殺し屋の評判が、無視できないほど大きくなってきたのは、ここ最近だった。ものすごく雑な殺し方をするが、多分十人の殺し屋を送り込んだとしてもどうしようもないような、とんでもない奴がいる、とは聞き及んでいた。同じ組織にそういうのがいると、心強さよりも、組織が苦労するだろうな、という心配が勝った。案の定、こうして処理命令が下っていることから、俺の考えも当たっていたらしい。

 そのテレビ体験が、俺がかつて殺したターゲットの関係者だという話も、同時に流れてきた。俺にとって、そういった話が珍しいわけではなかったし、組織にとっても、素質と条件が揃えば、平気でそんな因縁の有る人間もスカウトをするほうが、楽だということは知っていた。

 つまりは、俺に恨みがある。その認識で、きっと間違いはないだろう。そんな相手こそ、関係のない殺し屋に行かせるべきだろうが、人手が足りないからか、テレビ体験を殺すのにベテランの手が必要なのか、はっきりとはしないが俺が選ばれた。

 上司からの、直接の指名だった。この上司は、ここ三年で急速に頭角を現したやり手だという。もちろん、誰の顔も知らないし、その上司だって例外ではないが、やりやすい仕事を回してくれることから、上司のことは個人的に一定の信頼を抱いていた。ちなみに前の上司は左遷された。処分されたという線が濃厚だった。

 この三年間で、組織の様子も変わったみたいだった。異様な依頼を請け負うことも増えた。本当に、殺しているのが殺人依頼のある悪人だけなのか、という疑いも生じるようなものも多かった。

 砂に文字を書く。辞めたい。ストレスを、そうすれば発散できる気がした。

 島に来た目的。それは、テレビ体験を殺すことだ。この島に潜伏していることは間違いなく、殺し屋を数人送っているが、殺害報告が上がっていないから直接お前が行け、と上司は俺に告げた。もちろん、ターゲットの顔の情報もない。この人数の中から、割り出すことから始めなければならなかった。

 それから、注意しなければならないこと。テレビ体験や、俺を狙う別の殺し屋が島には潜んでいる。むやみに、自分の情報は出すべきではなかった。孤島という条件が、きっと奴らを活発にさせている。ここで殺せば、処理するのに本土ほどの手間はいらない。

 俺を狙う者か……。

 そう思い馳せて、生き方を恥じた。どうして殺し屋なんてやっているんだ。もう記憶にすら無い。気づいた時には、こんな仕事をしていたし、人を殺すことに何も感じなくなっていたし、死体の処理も、生ゴミの処理も、個人的な気分の上では、あまり違いはなくなっていた。

 長袖が暑い。カムフラージュのために、この気温でこんなものを着ている。靴もそうだ。ビーチサンダルを履けば、どれだけ気分が楽か、想像するだけで気持ちが良かったが、これもカムフラージュに必要だった。

 あとは、街でCDを買う。これもカムフラージュ。別に、音楽なんかを聴く趣味はない。

 趣味ってなんだろう。ふと俺は、そんな疑問が湧いた。



 まったくついていない。俺は、自分の不幸を呪った。

 仕事と雑務を終えて、いろいろとあってから、日が暮れた頃にホテルのフロントに呼び出されて応答に向かった。

 そこには、鷹森という警察官の女がいた。

 この女と知り合った経緯は、そう単純ではなかった。

 まず日中、俺は潜伏先を確保しようと考えた。どれだけかかる仕事なのかわからない以上、寝泊まりする場所は、自分のコンディション管理と、隠れる場所という物理的な要因で、必要でないはずがなかった。

 チェックインはリスクがあった。それに、部屋が空いてなければ意味がないから、もとよりそんな安直な手段に頼るつもりは毛頭なかった。俺はフロントにいた個人旅行客らしき男を尾行し、彼の部屋を割り出した。次に男が外出して、戻ってきたときを見計らって、部屋に一緒に連れ入って、そのまま殺した。

 許してほしい。このくらいは、このくらいの犠牲は、テレビ体験を処理するために必要だ。そう自分に言い聞かせた。本当は何も感じていなかったが、そうやって祈らないと、人間でなくなる気がした。

 男の身分証を漁ると、肥塚という名前だと判明したので、俺は今から肥塚という男に成り代わった。そして死体は、組織がいつもやっているように、山に行き、穴を掘って、埋めた。

 そこまでは、上手く行ったはずだったが、ホテルの部屋、つまりは俺の乗っ取った肥塚の部屋に、女から電話があった。

 その女が、鷹森。警官だと名乗った。彼女は、山のあたりをパトロールをしている時に、死体を見つけたといった。どういうことだ。俺は混乱した。埋め方は雑だったにしろ、そう簡単に露呈するようなものではない。話を聞きたいから、ホテルから出ないで待機しているように俺に告げて、彼女は電話を切った。

 俺は待った。その間に、部屋で自分が肥塚だという認識を刷り込む訓練と、身分証の偽装と、持ち物の整理をしている間に、鷹森がフロントに俺を呼び出した、という経緯だった。

 鷹森が、俺に行き着いた理由は簡単だ。死体に持たせてあった手帳の名前からだった。肥塚の物だった。回収しても良かったが、考えた結果、その方が偽装にとって都合がいいと感じたから、そのままにしておいた。

 まさか、こんなに早く死体が発見されるなんて……。俺は不審に思ったが、顔には出さないように注意した。

 鷹森はフロントの椅子に座って、コーラを飲みながら俺の話を聞いてた。俺は何も飲まなかった。こういう出張先では、俺は口にする飲みものは、開けられていないことが確認できるペットボトル飲料だけだった。

「事件がねえ……」と鷹森は愚痴をこぼした。俺は相談相手ではないというのに。「多いんですよ、最近」

 鷹森は制服を着込み、帽子を被っていて、背の高い女だった。どこかわざとらしいほど不真面目で、冷たい印象が漂っている。警察官には向いていなさそうな人間だ、と思った。

「死体から、手帳が見つかったんですよ、肥塚さん。あなたの名前の書かれた。だからホテルに確認を取ってね、肥塚さんという人が泊まっている部屋を教えてもらって、電話をかけてみたんです。そしたら、あなたが出ました」

「ああ、それ、探していたんですよ」俺は、そう答えた。「いつの間にか盗まれたんです。あの人が誰なのか知りませんが、きっと俺の手帳を盗んだ犯人でしょう。手帳には肥塚って名前が書いてあったんでしょ? それ、俺のです」

 そうだと思ってましたよ、と鷹森は言い、俺に、薄汚れた茶色い表紙の手帳を渡した。手のひらより少し大きいくらいのサイズだった。中身は、肥塚(本物)の取材のメモが書かれているが、悪筆のため、あまり解読ができなかった。

「じゃあ、あの人は」鷹森が腕を組んだ。「観光客目当ての盗人だったんでしょう。昔から多いんですよね、そういうスリだとか、窃盗犯だとか……。彼の身元は、前科があればきっと、警視庁にでも問い合わせれば、はっきりすると思います。この件は、これで、一旦は解決ですね」

「ありがとうございます」

「しかし、手帳なんて盗んで、何を考えていたんでしょうね。その挙げ句に森へ逃げ込み、頭を打って死んで……それからその辺りに転げ落ちて、身体が土まみれになった。哀れな最後です。森には、潜伏している痕跡もありませんでしたから、他の盗品も見つかりませんでしたし」

「ええ、本当に、哀れですね。他の人も、彼の被害にあっていたんですか?」

「まあ、あの死んでいた人が島でいくつか発生した窃盗の犯人かどうかは、今後の捜査によりますけど……」鷹森はうんざりした顔をする。「少なくとも、こういった盗難事件自体は、さほど珍しくありませんね。なんと言っても、ここは孤島のリゾート地ですから。狙う金持ちには困らない」

 鷹森は笑ったが、俺は釣られて笑うという社会性は持ち合わせておらず、黙っていた。

 そうしてから、鷹森は急に真顔になる。

「まあ、これは本当に彼が事故死だったら、って話ですけど」

 ――。

「じゃあ、他殺の可能性が?」

「そりゃあ疑いますよ。盗人が盗みの被害者の報復で殺されて、都合のいい山中に遺棄された、ぐらいはとりあえず考えないと。それが仕事ですから。それと……」

 鷹森はコーラのことなんか忘れて、じっと、俺を見つめた。

「関係者はまず疑えって言われてるんで」

「……それは業務上仕方がないですけど」俺は不機嫌な顔を作る。「人殺し扱いされるのは心外です。俺は、そんな窃盗犯とは無関係ですよ」

「まあまあ、気にしないで下さい。形式ですよ。大体こういうのは事故死ですから。ここはですね、治安自体は良いんですよ、金持ちの観光客ばかりですから。犯罪を犯す動機がそもそもない人たちばっかなんですよ。ちょっと窃盗が多いだけで」

 俺は鷹森の話を聞きながら、組織の限界を考える。死体が時折見つかるのは、組織がこの島で、死体を処理することが多いからだ。それも同じ手で、何回も、何回も。それで何年も騙し果せるほど、この警官もきっとバカではない。

 組織ももう、限界に来ている。全てが瓦解するまで、そう時間はかからないんじゃないかと俺は感じている。

 しかし不思議なことがある。俺は、死体を埋めたはずだ。今日は快晴だ。雨が降っていて、土と一緒に死体が流れ出たなんて事はありえない。

 誰かが、俺を陥れるために、死体を掘り起こした。

 俺はその可能性を、否定できなかった。



 俺は広場のベンチに腰を下ろして、暇そうに鳩に餌をやっている若い女を眺めている。

 この女の名前は左近と言って、別に知り合いでもなんでもない。彼女は、他の組織の殺し屋で、俺の今回のターゲットの一人だった。

 リストにはいろいろと名前と、入手可能であれば顔写真もあった。左近は他の犯罪組織という、うちよりもセキュリティの甘い組織に所属しているため、顔写真は簡単に手に入れることができた。その度に、俺は顔面を徹底的に秘匿するといううちの組織の正しさを痛感させられてしまう。

 左近殺しはきっと、簡単な仕事に分類されるだろう。この女は、殺し屋としてもそう悪名が知れ渡っているような、厄介な人間でもない。

「ねえ」

 ぼーっとしている時だった。いつの間にか、俺の目の前に立って、俺を見下しながら話しかけてくる女があった。

 顔を見上げると、誰なのかすぐに判断がついた。さっきまで鳩と戯れていた女、左近だった。

 向こうから話しかけてくるなんて、ラッキーなのか不幸なのかわからなかった。多分この女も、俺のような、身の回りにいる不審な男を警戒しているんだろう。

「鳩に餌をやってるのが、そんなに珍しい?」

「別に。ただ、餌をやるなってよく書いてありますよね」

「そうね」左近は頷く。彼女は面倒くさそうな、くるくると巻いた髪型をしていた。身長は低い。まあ俺は座っているから、よくわからないが。「でも、みんなあげてる。鳩はもう自分で餌なんか取れないんじゃない? 私があげてもあげなくても、変わらないわよ」

「それもそうですけど、決まりはあるでしょう」

「あなた、口うるさいって言われるでしょ。何が目的?」

「俺、記者なんですよ」俺はそう言う。本物の肥塚も記者だったので、これは完璧に嘘というわけではない。「島のことを調べてるんです。鳩の餌問題もその一つで」

「本土でやってよ。ここより鳩は多いでしょ」左近は何が面白いのか笑った。「あなた、名前は?」

「田中。田中宏典」俺は適当に口にする。肥塚と名乗るのはやめた。

「なによそれ。偽名臭いわね……私は左近よ。見ての通り観光客」左近は素直にそう名乗ったが、もちろんこの女も、本名ではないだろう。どうでも良いことだったが。

 俺たちは牽制の意味も込めて、雑談をしながら相手を探った。記者という肩書きは、そう言った話をするのに便利だった。左近は、俺の肩書きを信じているわけではないのだろうが、それでも、島の良いところと気に入らないところを並べて、公平に記事にするように俺に言いつけた。俺は頷きもしなかった。

 そうしているうちに、さらに我々の背後に近づく人間があった。

「すみません」

 外国人の男だった。観光客の年齢層を鑑みるに、比較的若輩だった。何処の国の人間なのかはわからなかったが、その一言で、日本語がそれなりに話せることは見受けられた。

 男は、ジェルマンと名乗った。俺よりも若そうに見えるが、それ以外に何か特徴があると言うわけでもなかった。線が細く、インテリ染みた印象は受けたが、本当に頭がいいのかはわからなかった。

「記者さんに聞きたいことが」ジェルマンが言う。「この島についてです」

「良いですけど、別に詳しいと言うわけでは」

「あの、この島に、殺し屋組織が入り込んでいるという話は、聞いたことが?」

 ……。

「初耳ですね。何処からの風聞で?」

 ちらりと見ると、左近も表情を崩していなかった。

「いえ、昔から、そう言う話があって。私、ずっと気になっているんです。殺し屋組織のことが」

「何か、あなたに被害が?」

「殺されかけましたが、それが殺し屋の手によるものかまでは。マフィアだったかもしれません。でも、島に殺し屋がいるなら、見つけたいんです。見つけて告発するのが市民の義務でしょう」

「関わらないほうがいいと思いますがね」俺はしかめ面を作った。「まあ、取材のついでに聞いてみますよ。俺も、島がそんな状態だって言うなら、調べてみたいと思いますね」

「すみません、よろしくお願いします」

 ジェルマンは、頭を下げて去った。

 消えるまで背中を見つめた俺たちは、しばらくそうしていた。

「殺し屋ですって」左近が沈黙を破った。「そう言う噂、あるわけ?」

「さあ。初耳です。このリゾート地でそんなことがあるなんて、現実離れしてますよ」

 組織の噂が、ここまで流れ出ている以上、警戒を強めるのが常套句だったが、そのことよりも先に、俺はもうこんな組織が限界だ、と言う自説を強めるだけに終わった。

「ふーん……」左近は鼻を鳴らして、俺を見下した。「田中さんって、大したことない記者なんですね」

「どう言う意味です?」

「いいえ、殺し屋の痕跡くらい知ってると思って」

 左近は去った。鳩なんか、もう気にも留めていなかった。


      □


 私はフロントで、数土に声をかけられた。

 別に用事があるわけでもなく、むしろ私の仕事は、この男の進捗次第という部分が大きかったので、私は彼に着いて行き、フロントに備えてあるカフェへ入った。

 大したカフェでもない。ただ広いフロントの一角に椅子とテーブル、そしてカウンターが備わっていて、そこに名前も知らない無口な店員が、鎧みたいに立っているだけの簡素なスペースだった。私たちは、窓側の席に腰を落ち着けて、数土が何を話すのかを待った。数土はコーヒーを頼んだが、私は別にコーヒーなんて好きじゃなかったので、ミルクを啜った。本土で私の住んでいる場所に近いスーパーに売っているミルクのほうが、ずっと美味しいと思った。

「我が組織に雇入れる殺し屋には、証がある」数土が大真面目に言った。「それは、お前だって十分に承知だとは思うが」

「ええ。忘れないように冷蔵庫とトイレに貼って、暇があったら音読してるもの」私は答えた。「セキュリティ面で必要なんでしょ。同士討ちを避けるためだとか聞いたわ」

 殺し屋の条件、もとい証には三つあった。

 一つは、足の形がスクエア型ということ。つまり、足の親指から人差し指、中指の長さが均等な形をしている人間。日本人ではかなり珍しいが、例によって私も当然、その足の形をしていた。そもそものスカウトを、この足の形を元に行い、見どころがあれば一つ上の段階に上げるという段取りになっているらしい。

 もう一つは、左肩に指定の入れ墨を入れること。四角形の入れ墨だったが、それさえ分有していれば、上から加工して違う形にしても構わない。これは条件というより、我が組織の殺し屋だという証になる。

 最後に、指定したCDを所持していること。そのCDとは、ジェントル・ジャイアントというバンドのファーストアルバムと、その中身のディスクがニルヴァーナのサードアルバムになったものだった。全く意味のわからない指定だが、これを見せ合うことで、組織での取引や依頼の受注などが進む。こんなバンド同士のCDを取り違えるなんてことは、この地球上でもあまり起こり得ないということから、そう設定されている。中の音楽は、恐らくなんだってよかったのだろうし、組織の連中は、一秒だって聞いていないだろう。私はこのニルヴァーナのサードが一番好きだから、そういった組織の態度には憎しみすら覚えた。

 数土は続けた。

「これらの条件と証に、一つでも当てはまる人間を、全てピックアップした。明日からは、このリストの人間が、本当に断片なのかそうでないのかを、明かすために動いてくれ」

 数土は、紙を私に渡す。組織が使う変な暗号文字で書かれているが、私には読めた。なるほど、膨大な観光客の全てを疑うことに比べれば、大幅に見違えるくらい、この人数に絞ったことは、明るい未来を意味していた。

「へえ。早いわね。さすが。筋肉と違って、頭は飾りじゃないようね」

「うるさい。とにかく、次の定期船までだ。数週間ある。それまでに、そのリストの人間全員を調べろ。そうすれば、必ず見つかる。そこに断片がいなくとも、繋がりのある殺し屋が含まれている可能性は、大いにある。そうなれば、拷問でもして、断片の場所を吐かせれば良い。入宮、拷問は得意だろう」

「そうね。部屋の掃除より、拷問してるほうが褒められるもの」

 近くに客が座り、煙草を吹かし始めるのを確認すると、数土は嫌そうな顔をして席を立った。

「すまん、あとは好き勝手に飲んでいてくれ」

「あんた煙草も駄目なの? その見た目はハリボテ?」



 私は一人になってから、とにかく手当たり次第にミルクやジュースや、嫌いな紅茶何かを飲んで、それからいくつかの軽食を喉に流し込んだ。気がつくと、日がそれなりに暮れ始めているのが、窓から確認できた。

 私は、調査は明日からにして、部屋へ戻ろうと決めたときだった。

 不審な男が、声をかけてくる。

「えっと、あなたが、入宮さん?」

「そうよ。なに? サイン?」

「いえ、有名人ですけど、サインでは」

 そうして男は、私の格好を見る。確かに、日中に海へ出ると、視線を浴びるような格好ではあったし、町中でも例外ではなかった。競泳水着に、涼しそうなシャツ、そして無骨な暑苦しい靴。

「なによ」

「あの、記者をやっている者でして、お話を聞きたいと思いまして」

「記者?」

「申し遅れました」男は頭を下げる。「記者の、肥塚です」



   三話


      □


「記者が何の用? 私、こんな容姿だけど芸能人でもなんでもなくて」

「いえ、無差別にインタビューをしてるんです。島について特集記事を書こうと思って」

 私は、肥塚と名乗った男を眺めた。なんだか、なんとも言えない、記憶に残り辛い男だった。記者としては、それが向いているのか向いていないのか、私にはよくわからなかった。

 殺し屋の証があるかどうかすらもわからなかった。この男は長袖の薄いシャツを着ていたし、一般的なスニーカーを履いていたし、下げている鞄はCDが入りそうに無いほど小さな物だった。

 肥塚はまず、このホテルについてを尋ねた。私は、さほどここに滞在していないが、現状では不満はないと答えた。少しだけ支配人の千住が鬱陶しいのと、従業員の盛藤にサボり癖があることが気になるが、この男に伝えるほど、この男を信頼してもいなかった。

 記者は信用するな。関わるな。無視をしろ。そういう風に私に教えたのは、組織の上司の何人かと、あの数土だった。それだけの人数が、口を酸っぱくして私を戒めようとしているのだから、記者というのは本当に、信用の欠片もない職種なんじゃないかって私も本気で思ってしまう。

 私は適当にあしらうと、肥塚は興味を無くしたのか、私に礼を言って去った。その際に、自分の連絡先の書かれた名刺を突き付け、交換として私の連絡先を尋ねたが、私が答えたのは本土の住処の、その隣の家の番号だった。名前も、適当に答えておいた。

 まあ覚えておこう。肥塚。気をつけるに値するかもしれない。


      ■


 市場は、活気があった。

 訪れている人口の多さに比例して、こういう場所は、エネルギーを注ぎ込まれたみたいに、その活力を増すんだという実感があった。何かの店、屋台、店、店、屋台、店……。それぞれに、人間が取り憑いたり離れたりしている。

 しばらく理由もなく歩いていると、一人の少女が俺を気に留めた。店と店の間に、暇そうに座っていた。年齢にして、十三歳だとか、そのくらいだ。何処か汚らしい印象が、観光客との乖離を感じさせた。地元の人間だろうか。それでも顔の作りは可愛らしいと言えば、否定できなかった。

「おじさん、旅行?」

 失礼な口調で、少女はそう俺に尋ねた。無視をしても良かったが、こういう親しげな態度の地元の人間であれば、俺の探しているテレビ体験について、何か知っているかもしれないという期待感が、不躾に頭をもたげた。

「いや、取材だよ。記者なんだ」俺は足を止めて、嘘をついた。

 少女をよく見ると、身体に傷がいくつかあった。そこで思い当たるのは虐待やいじめ。学校や家での扱いはきっと……。

 そういう子供に対して、人間並みの優しさを向けて、気持ち良くなりたいという衝動が、俺にはあった。人を殺して平気な顔をしているのに、そんな偽善だけが、剃り残したヒゲみたいに立ち上がってくる。

 俺は、近くの店で適当な食べ物を買い、少女に与えた。

 少女は訝っていたが、お礼を言って食べ始めた。よく、観光客にそうしてもらっているのだろうか、面食らうこともなく、素直に人に好意を受け入れた。

「君、名前は」俺は尋ね、そして名乗る。「俺は肥塚。島には詳しいのかい?」

「わたしは、稲内、由花子」少女は無表情で名乗る。「おじさん、本土から来たの?」

「大抵の日本人の観光客は、本土から来てるよ」

「ねえ、本土って、どんなところ?」稲内由花子は首を傾げる。「わたし、外の話を聞くの好きなんです」

 俺はとりあえず、本土の基本知識を、彼女に言って聞かせた。大した内容ではない。東京は栄えているだとか、田舎は救いようがないくらい人がいないだとか、東京は人間が多すぎて嫌になるだとか、田舎はカスみたいな人間ばかりだとか、そんな誰でも知っているような、価値のない話だった。観光地や、サブカルチャーだとかの話は、俺にはわからなかった。

 昔に一度だけ、映画館に入ったことがある。東京の、もう名前も場所も忘れてしまったような、大きくも小さくもない所だった。単に、任務も終わって、仕事が嫌になって、人並みの生活や、趣味を試してみたいと思っていたから、映画館に足を運んだに過ぎなかった。

 そこでやっていたのは、惑星ソラリス。なんでも、リバイバル上映だとかなんとかで、古い芸術的な、マニアしか喜ばなさそうな作品を上映する、という祭りが丁度その時だった。

 俺は、その映画をまるで理解できず、微塵も面白いとは感じることが出来なかった。それでも途中で立つのは、他の客に白い目で見られそうで気が引けた。観客は、固唾をのんで、フィルムから発生させられている一コマ一コマの映像を、土壁でも食べるみたいに、夢中で貪っていた。俺だけが、何も感じない。つまらないことよりも、そんな不感症めいた自分自身がここにいることが、何よりも恥ずかしく感じて、いたたまれなくなった。

 あんな思いは、二度としたくは無いのだが、最近はよく同じような心境になっていることに気づいている。組織を辞めたいと思いながら、組織の仕事をしているときと同じだった。

 そんなつまらない話をした。もっと楽しい話なんか、俺にはなかった。記者だと名乗っているのに、自分の話ばかりをしているのは、なんだか間違っているような気がした。

「わたしも」由花子は、思いの外、笑顔で返した。「わります、その気持ち。学校でね、登校日に映画を見ようって話になったんですけど、それがロード・オブ・ザ・リングの二作目で、わたし、前作見てないからまったくわからなくて、寝たんですよ。そうしたら、先生に怒られた。ふざけてますよね」

「この話でここまで乗ってきたの、君が初めてだよ」

 俺達は笑った。

 妙な、安らかな気持ちがあった。これが、人に貢献をするということの充足なんだろうか。それともこの、私生活で苦労をしていそうな少女に対して、なけなしの善意を向けることで、自分がまともな人間なんだっていう確認ができたから、それで安心しているのだろうか。

 稲内は気を良くして、俺に愚痴を漏らし始めた。学校での扱いも、家での扱いも、俺の想像したとおりに、芳しいものではなかった。怪我や、汚らしい服装がそのせいなのかは、訊くことが出来なかったが、きっとそれも、想像通りなんだろう。

 けれど、一箇所だけ、目を引くアクセサリーを彼女はしていた。小綺麗なヘアピンだった。その出自が何処なのかはわからないが、それを与えてもらっていた頃は、両親とも仲は良かったのか、そう考えると、俺はただひたすらに、泥沼に足をすくわれたみたいに、何処までも悲しくなってくる。

 ひとしきり話すと、稲内は家に帰るといった。もうそんな時間か。俺は見送って、それからまた、市場で手がかりでも探そうと思って、手に持っていた荷物を持ち上げる。

 ……軽い。

 鞄を開けた。大した大きさの鞄ではないが、肥塚の持っていた私物よりも、大きい鞄だった。つまりは俺の私物で、財布は入れていないが、殺し屋の証のCDを、他のいくつかのCDと同じように入れていた。あとは何冊かの本と、記者らしく紙とペンが入っている。

 無くなっていたのは、CDだった。殺し屋の証で、プログレバンドのジャケットに中身はオルタナティブバンドのディスクが入っている、ちぐはぐなものだった。

 ……稲内由花子か?

 全部、俺からスリを行うための策略だったのか? 汚い格好も、学校や家での話も……。

 ふざけやがって。俺は舌打ちをする。

 とにかく、このまま野放しにしてはいけない。まあ、CDにさほどの価値があるわけでもないし、俺が証を必要とするほど、組織に顔を出す用事も無かったが、奇妙に思われては厄介だ。

 俺は交番へ行き、鷹森に話を通そうと思った。

 小さな交番には、誰もいなかったし、もちろん何処にも隠れるスペースなんか無かった。奥の居住スペースと書かれた場所を覗き込んでも、鷹森本人はいなかった。

 しかし机の上にメモがあった。ところどころ古びている紙だった。

「多分、数年かかります。それまで待っていてください」

 なんの手紙だろう。まさか、数年ここを留守にするという置き手紙というわけではあるまい。あいつのプライベートの交際の話だ、と考えるのが妥当だった。

 俺もそれに便乗するように、近くにあった紙に、鷹森へのメッセージを書き、わかりやすい場所へ置いた。

「スリに遭って、CDを盗まれました 肥塚」


      □


「ハァイ、お姉さん」

 町中にあるカフェだった。観光客で賑わっている、というよりかは、観光客によって蹂躙されているふうにしか見えない。

 私は、なんとなく日差しが眩しかったから、土産物屋で買ったサングラスを掛け、目的の人物に近寄って、さっきみたいな軽い挨拶をした。

 相手は席について、コーヒーを飲みながら、窓から外を見てボーッとしていたのだけれど、私が話しかけると、一気にその表情が、不信感で塗りつぶされてしまった。外国人の女だった。どちらかといえば、かなり若い。この年齢で、こんな場所で豪遊するなんて、一体どんな身分の人間なんだろう。

「あなた、英語はできる?」私は冊子を持って近づく。「これ、読んで欲しいんだけど、もしかして、日本語も通じない?」

「ああ、えーっと、わかり、ます」女は返事をした。発音もたどたどしく、文法にも不安はあったが、一応、日本語で会話は出来るみたいだった。「どれを?」

 私が取り出したのは、なんてことはない、ジェントル・ジャイアントの歌詞カードだった。組織の証に付いていたやつだ。女は、それを流暢に読み、そして不安定にも和訳してくれた。

 私は礼を言って、その内容をメモするが、実際はどうでも良かった。私の目的は、この女に近づくことでしか無かったからだった。その口実として、こんな適当な英文を和訳させるという大義名分があった。

 この女……ジョアンナという名のこの女が、もしかすれば殺し屋なんじゃないか、というリストに含まれていることは、数土から聞かされていた通りだった。彼女はもちろん、名目上は旅行者だった。長い髪を三つ編みにしていたが、体格は、私なんかよりも少し大きかった。

 数土のリストには、彼女の足の形がスクエア型だ、との記載があった。私は実際に、サンダルを履いている彼女の足を、じっと肉眼で確かめると、確かに数土の間違いではなく、彼女の足は組織が条件にしている形と、面白いくらいに一致していた。これを、金と時間を使って、観光客全員分調べたのか、あの男は。

 ジョアンナの左肩を見る。そこに入れ墨はないが、私だってファンデーションで隠していた。何処まで親しい仲になれば、素肌を確認できるのか考えてしまう。

「ごめんなさいね」私はそう言って、彼女の目の前に座った。「この英文を調べないと仕事ができなくって。音楽ライターをやってるの」

 ジョアンナは、歌詞カードを私に返した。別段、興味も動揺も見せなかった。アテが外れたのだろうか。

「音楽ライター……雑誌ですか?」

「そうそう。音楽が好きでね」職業診断で、音楽関係の仕事が出たこともあるから、私が自信を持って堂々と言う。「九十年代のオルタナティブロックが専門よ。知ってる? セバドーとか。今の音楽はダメね。未来の音楽は、きっともっと嫌いなんでしょうけど」

「ああ……えっと、私、詳しくないです」ジョアンナは申し訳なさそうな顔と、何処か嫌そうな顔を同時に浮かべた。「仕事は、音楽に関わることもあるんですけど、あまり知らなくて」

「へえ。なんかそういう事務処理とかやってるの?」

「まあそうなんですけど……」ジョアンナは項垂れた。「……嫌です。帰りたくない」

 文化の違う外国の人と言えども、仕事が嫌な気持ちは一緒なのか、と私は感動すら覚えた。この女も、現実から目を背けて、このリゾート地で問題を先送りにしているんだろう。

 同時に、殺し屋だというのなら、私と同じ種類の悩みがあっても納得できるなとも考える。

「嫌な人に、使われてて」ジョアンナは、親しくもない私に、そんな話をぽつぽつと聞かせた。「ストレスというやつです。今が幸せです」

「わかるわ、その気持ち」私は笑顔でそう口にした。「私も仕事辞めたくて」

「音楽が好きじゃないんですか? そう言いましたよね」

「聴くのが好きなだけだってことに、気づいたわけ。ライターなんて、向いてないわ」

 殺し屋なんて向いてないわ、と本当にそう口にしてやろうかという気になった。

 ジョアンナは、私の話を聞き、笑った。

 それからは彼女の愚痴を聞いて、最初からは考えられないほど親しくなって連絡先を聞いて別れた。

 聞きながら同時に私は、普通の仕事にいながら、贅沢な文句だなと思った。


      ■


 左近が何処に泊まっているのか、突き止めるのは容易だった。ただ尾行をすれば良かった。殺し屋と言っても、殺人技術や戦闘能力より、ただ殺すという度胸のみが備わっているに過ぎない人間が、そのほとんどだった。尾行に気づく勘だとか、特殊なセンスを持ち合わせている者は少ない。故に、左近を尾行する際には、何の苦労もなかった。

 左近が泊まっているのは当然、俺と同じホテルだった。ホテルは島にひとつしかないんだから、当然の帰結だった。あの支配人で成り立つのかどうか不安になるくらい、ホテルは大きさだけはあった。

 左近の部屋は、十階。部屋を確認して、俺は引き返す。自室で計画を練ろうと思った。その思案はまあ、十分ほどで終わったが。

 結局のところ、さっさと部屋に押し入って、撲殺なり刺殺なりをすれば、話は早い。向こうも殺し屋だ。死んだとて、心配して公にする身内なんていないだろう。そう考えれば、これほど殺しやすい相手もそういない。

 俺は、迷いもなく左近の部屋に押し入ろうとした。この程度の鍵は、なんとでもなる。

 そう思っていたのだが、鍵は開いていた。殺し屋の癖に不用心な奴だ。罠か? その心配もしたが、左近の実力を考えて、俺を罠に嵌めるとも思えなかった。

 俺は慎重になりながら、部屋の中を確認していく。相手がもし、テレビ体験だったら、俺に勝ち目なんて少しもありはしないが、並の殺し屋であれば、おそらく正面からぶつかったとしても、崩せるに違いない。そのための鍛錬は、ある程度の数をこなしてきたという自負があった。

 気をつけるんだ。相手は、あのとき俺の隠した肥塚の死体を掘り起こした人間かも知れない。俺を知っていて、俺に苦難を与えている。その得体の知れなさに、恐怖なのか憎しみなのか、はっきりとしない感情を抱えていた。

 風呂場を覗いたときだった。

 俺は、そこで全ての警戒を解いた。

「…………左近」名前を呼んでみたが、返事なんて当然あるわけがなかった。

 浴室。貯められた水に、頭を突っ込んで死んでいるのは、先程生きている姿を確認した女……左近に間違いはなかった。

 左近が、殺されていた。

 それも、俺を先回りするように。

 飛び散った水が、その生々しさを物語っていた。乾いていないことからしても、彼女が殺されてから、さほど時間は経っていなかった。かと言って、部屋に犯人が潜んでいる気配は、どれだけの気を回しても、感じ取ることは出来なかった。そもそも、こんな個人用の宿泊室に於いて、隠れられるところなんて、さほど多くはなかった。

 逡巡した。

 こんなに悩んだことは、殺し屋になるかなるまいかという選択肢を突きつけられたときでさえ無かった。どうすればいい。どうするのが、ベストなんだ。どうするのが、犯人の思い通りから、なるべく遠くに逸れることが出来る?

 とにかく、ここを離れよう。こういう場には、死体処理業者が尻拭いに来る可能性がある。俺のように、ほとんど自分で処理まで済ませる殺し屋と違って、大抵の者は、そういった専門業者に後始末を頼むのが、この業界の一般的な考えだった。

 俺は、なるべく平静を装って部屋を出る。むしろ、動揺する必要なんてまったくなかった。目撃者はいないし、そもそも俺が殺したのではなかった。俺がやっていないという事実が、俺がやっていないという証明の後押しをするはずだった。変に臆する方が、かえって怪しまれるに決まっていた。

 俺はそのまま、フロントに戻って、ホテルを出る。行く宛もないまま。

 俺の邪魔をしている人間が、島に潜伏している……。


      □


 港。暇そうな監視カメラ二台が、海の方に向かって首を振っていた。本来は、定期船から降りる客、乗り込む客をチェックしているのだろうが、今はただ空虚な海原を見渡しているに過ぎなかった。

 私は、またリストに記載のある人物を探して、人の多そうな場所まで出向いていた。この港は、海水浴場にも近いが泳げる場所はない。それでも海水浴場の人の多さに飽き、尚且つ海に対して恋しいと感じる少なくはない数の観光客が、その潮の流れをぼーっと眺めにここで足を止めていた。

 見つけたのは、またしても外国人。今度は男性だった。隣には、彼の妻と思われる女が立っていた。

 名前は、アルナルド。リストには、そう書いてある。

 港の細々とした施設(土産や食料や、なんだかわからないものを売っているストア)の前に、人だかりが出来ていて、その中心に立つ女の子を、私の目当てとしている夫妻はじっと眺めていた。

 アイドルか何かだろうか。なにか、私が好きでもないタイプの音楽と、ズレたような歌が聴こえてくる。私も気になって、首を伸ばして中心の女の子を覗き込むと、そこにいたのは、別になんの変哲もない少女だった。綺麗な格好をしているわけではなかったが、愛想が良いのか、観光客にウケているのだろう。私はそう判断した。店先に置かれたカラオケ装置を前にして、マイクを片手に少女が歌っていた。これはどういう催しだ、と私は疑問に思う。きっと、地域のカラオケ大会か何かの延長みたいなものだろう。

 夫妻のうち、妻の方が何処かへ消えたのを、夫は止めはしなかった。妻はスマートフォンを片手にぶら下げていたことから、こんなどうでも良い曲を歌う女の子を、撮影でもしようと考えているらしい。何が珍しいのか、私にはわからないし、何がそんなに良いのかも私にはわからなかった。

 ああ、居心地が悪い。私は嫌いな音楽が流れている場所について、憎しみという感情しか持ち合わせることが出来なかった。嫌いな音楽というのは、このような刺激の薄いなんの価値もない音楽だとか、あとはニルヴァーナと対立していたバンドみたいな音楽だとかだった。さらに付け加えるとすれば、ニルヴァーナの中でもセカンドアルバムは、身悶えするくらい嫌いで、家のCD棚にも、その箇所は空白になっていた。

 私は耳から意識を排除して、アルナルドを調べる。妻がいると言うことから、若干の話しかけづらさがあったため、私はそっと彼に近づき、足の形を確認する。

 丁度良くサンダルを履いていたアルナルドの足は、スクエア型。組織の指定する型だった。つまり、この男は組織の殺し屋の証を二つも所持している。

 彼の肩にある刺青も確かめる。四角形が中央に残されているが、その上から色々な模様を継ぎ足しているように見える。殺し屋の入れ墨の隠し方としては、常套手段だった。変にファンデーションで隠すより、上から別の形を継ぎ足してしまえば、組織指定の四角形らしさは消える。別に、組織の規定には、消すなと書かれていても形を変えるなと書かれているわけではなかった。

 後はCDが見つかれば確定だろう。刺青と足の形は、まだ偶然で片付けることもできるが、あの奇妙なCDはそうもいかなかった。

「ねえ、お兄さん」私は、彼の妻がまだ帰ってこないことを確かめると、彼に話しかけた。お兄さんという年齢でもなかったが、それ以外の呼び方は思いつかなかった。「これ、歌ってるの、誰?」

 アルナルドは私に気づいたようだが、しきりに何かを口にして、それから首を振った。顔を見ると、見慣れない国の人間ではあるけれど、普通のおじさんという印象から逸脱するものでもなかった。

 身振りを読み取るに、どうもこの男、日本語がわからないらしい。わからないふりをしているのかもしれないが、その真偽を確かめる術は私には無かった。この状態で、この男があのCDを所持しているのかどうかを、詳らかにする方法を私は思いつかなかったので、彼に謝って私はその場を去った。

 夫がわからないのであれば、妻なら日本語を理解できているのかもしれない。思い至って、私はさっき何処か人混みの中へ消えたアルナルドの妻を探した。相変わらず、興味がない上に微妙に下手くそで媚びるような歌が続いていた。

 妻、名前はマウリツィアと言った女は、程なく見つかったが、予想もしない人間と一緒に、妙に近い距離で歌う女を見つめていた。

 マウリの隣にいたのは、千住だった。ホテルの支配人で、私を金持ちだと思っているあの男だ。こんなところで、何をしているんだろう。服装は、ホテルの制服ではなく。普段の生活で着るようなカジュアルなものだった。と言うことはつまり、ホテルは今、あの隠れて煙草を吸うような従業員が、好き勝手にしているのだろう。

 マウリは疲れた顔こそ見せていたが、端的に言うと美人だった。その態度や顔つきから勝手に推察するなら、やや知的で、聡明で、そして多分、割と傲慢な女なんじゃないかと思われた。

 マウリが名残惜しそうに千住と別れると、私は千住に駆け寄って脅すように話す。

「支配人さん、関心しないわね。あんたも火遊びが好きだったの?」

「何言ってるんですか、入宮さん」千住は驚きながら、私を見た。「ちょっと親しくなっただけですよ。っていうか彼女、結婚してたんですか?」

「とぼけていけば、知らなかったで済むのかしら?」

「本当に何もしてませんってば」千住は口答えをした。「この子が誰なのか、訊かれたんですよ」

「誰なのこのガキ」

「稲内由花子。地元の子ですよ。観光客とはよく交流することから、人気があるんです」

「ふうん……」どうでも良い。忘れた。「ああいう女は信用しない方がいいわ」

「どうしてです?」

「裏で何やってるかわからないから」

「あ、そうそう」千住は私に向き直った。「さっき鷹森がホテルに来てましたよ。入宮さんを探してたみたいで」

「なによ」特に彼女から連絡は入っていない。なんだろう。大した用事ではないことは確かだった。「っていうかあんた、鷹森と親しいの?」

「ああ鷹森の奴とは幼馴染でしてね。僕たちは、生まれも育ちのこの島なので」千住が自慢げに言う。何を自慢したいのかは知らない。「僕の家は、ちょっと苦労をしていた鷹森の家を気にかけてて、それで知り合ったんです。腐れ縁ですよ」

 鷹森はこの島の人間なのか、と言われて知ったが、確かにこの島で警察なんていう仕事をこなすには、ある種の地元愛が無ければ耐えられないだろうと考えると、納得もできようものだった。

「とにかく千住さん」私は再度、彼に忠告する。「不倫は結局当人同士の問題だから、外からどうこういうのは無粋だと思うけど、あんた夫に刺されてもおかしくないわよ」

「なんですかそれ、だから不倫じゃないですって」

 私は、過去にそう言うタイプの依頼で人を殺すハメになったって言う話を、この男にすることが出来れば、かなりスピーディーに理解してもらえるんだろうと感じたが、そんなことは逆立ちしたって言えるものでは無かった。



 私は、マウリがそろそろ夫のアルナルドと合流した頃合いだと思って、下手くそな歌を聴かされながら、人混みを掻き分けてアルナルドの所へ戻ると、彼は知らない男性と笑顔で話していた。アルナルドより身長が大きく、この人の多い港の中でもかなり目立つ人間だった。私ほどでは無いにせよ。

 その男には、見覚えがあった。と言うか、顔だけは知っている。あの数土の殺し屋の疑いがある観光客リストの中に、その顔が並べられていた。

 名前は、ジェルマンだと書いてある。若そうな男だった。アルナルドとは歳の差も多少はあるようだが、それほどに盛り上がれる共通の話題があるらしく、もう二人には稲内とかいう女の歌なんて、耳に届いていないようだった。

 ジェルマンが疑わしい理由は、足の形がスクエア型だと確認したからだ、と数土のリストには記載されていた。外国人なら、日本人と違ってそう珍しくない形なんじゃないのかとは思ったが、その格好を見ると、多分私だってリストに加えてしまう気がした。

 この暑い中、長袖の上着。冬物というほどではもちろん無いが、それにしたって、この気温の中で袖を通すのは、いささか頭がおかしいと感じられるくらいの物だった。

 そう、喩えるなら……入れ墨を隠そうとしている人間しか着ないような。

 私はジェルマンとアルナルドに近づいて、スマートフォンで会話を翻訳した。

 途切れ途切れにもなったが、内容を要約すると、ジェルマンはこの島の遺跡に興味があり、よく調べているのだという。考古学が専門だとも取れるようなことも言っていた。

 島の遺跡には不審な点があり、妙なほど新しく、歴史をまるで感じないのだという。なにか、捏造されたかのような印象を受けるらしい。地元の住民が聞けば怒りそうなことを平気で口にする男だ、と私は思った。

 島の歴史についても聞き込みをして調べているが、芳しくなく、アルナルドに何か知らないかを尋ねたが、アルナルドは「家族旅行だからそういうのはわからない。けれど個人的に興味があるから、遺跡には立ち寄って調べてみる」と答えた。なんなら、金を使い、知人にそういう人がいないか尋ねてみても良い、とも付け加えた。

 二人はそれから肩を叩き合って、にたにたと笑いながら別れた。

 その様子を、少し離れた所から、マウリが見つめていた。何を考えているのかは、私には読み取れなかった。


      ■


 夜だった。街にあるダイナーの前に、俺が探している人物が、物欲しそうな顔をして立っていた。

 あの憎い少女、稲内だ。彼女はダイナーの内部の、料理を口に運ぶ観光客を、水族館の魚を観賞するように、飽きもしないでじっと眺めていた。

 比較的人気のある店なのか、この島ではこんな店しか無いのかはわからないが、とにかくダイナーは賑わっていた。賑わいすぎて、入るのが躊躇われるくらいだった。

 俺は、稲内の背後から近寄り、腕を掴んで言う。

「ガキ。探したぞ」稲内を見ると、目を丸くしていた。「俺の鞄のCD、盗んだよな」

 抵抗するのかと思った稲内は、拍子抜けを覚えるくらいに、素直に頭を下げた。

「ごめんなさい、おじさん、出来心で……食べる物が無いから、お金に変えられないかなって……」

「それも演技だろ」俺は毅然とした態度を取った。「お前、俺に同情を誘って食べ物を買わせて、挙句にスリまでするとはな。別に、俺はお前の教育に対して興味はないが、ろくな親じゃないんだろうな。とにかく、そのCDだけは返せ」

 稲内は、俺から親の話を指摘された時に、暗い顔をする。

「……なんだ」

「…………」

「家族、いないのか?」

「いえ、いますけど……」

 どうしてだろう。俺は、この娘を放っておくことが出来なかった。どうせ親から虐待されているだとか、学校では居場所が無いだとか、こうやって物乞いみたいな真似をしているのも何か理由があるだとか、そんなものは全部、嘘なんだろうって、

 頭では思っているのに、俺の心はその理屈を理解しなかった。

「腹が減ってるのか?」

「……うん」

「……スリをしているのも、何か理由があるのか」俺は、自分がこの娘の罪を糾弾する立場にないことを思い出した。「仕方ないな、飯を食わせてやるから、CD、俺に返すんだよ」

 稲内は頷いた。俺が昼間に食べ物を奢った時よりも、嬉しそうな顔をしていた。

 俺たちはダイナーに入り、窓際の席に案内され、そこに座って一息ついた後に、料理を注文した。俺はパスタの欄にある一番安い物を頼み、稲内はハンバーグステーキを遠慮もしないで言いつけた。

 料理は、まずまずだった。リピートはしないと思うが、稲内は気に入っていた。島に住んでいながら、島のダイナーに入ったことは無いのかも知れなかったが、どうでも良かった。

 俺はCDを返して貰い、中身を確かめた。ジェントルジャイアントとかいう昔のバンドのアルバムの中身が、ニルヴァーナになっている。こんな意味不明な証をよく思いつくものだ、と俺は今になって感心した。このCDは、未だかつて聴いた事はなかったが、返却する前に一度耳を通しても良いのかも知れないと思った。

 俺は、この稲内という物乞いの生活習慣を鑑みて、彼女に、なにか怪しい人物がいないかどうかを尋ねた。具体的には、これと同じCDを持つ者や、刺青をしている者がいないかを訊いた。

「知り合い?」稲内は尋ねる。「仲良いんですか?」

「まあ、仕事仲間だよ」俺は答える。「殺したいくらい、嫌いなんだ」

 稲内は考えた後、何かに気づいて周りを見てから、指を指す。

「そういえばね」稲内はもう馴れ馴れしい態度を俺に取っていた。「あの人、怪しいと思います」

「あの人?」首を後ろに俺は向けた。

「うん、警察の人」

 警察?

 俺の睨んだ方向には、見覚えのある人物が座っていた。

 警官の鷹森だった。

 彼女は、何かをつまみに酒を飲んでいた。当然制服ではなかったけれど、飾り気が薄いと言うか、厳かそうな雰囲気は普段と変わらなかった。その証拠に、彼女の周りには、彼女の連れと思しき女以外は一人も座っていなかった。

 鷹森の連れも、俺には見覚えがある。ホテルで働いている盛藤とかいう女だった。仲が良かったのだろうか。それとも鷹森が一方的に巻き込んでいるのかは、俺には判断がつかなかった。

 何の会話をしているのかはわからない。ここからでは聞こえるはずもないし、向こうはこちらに気づいていない。気もするだけ無駄だと思って、俺は稲内に戻した。

「何で怪しい? 警察じゃないのか」

「……わからないけど、怖いんです。昔と、なんだか雰囲気が違って」

「……よく厄介になってるのか?」

「ううん、頑張ってバレないようにやってますから」稲内は小声で言う。「……でも会いたくない。この島にいる以上、あの人とか、家族とか、学校の奴らとか……気にして生きていかないといけないなんて……」

「そういう生き方してる以上、仕方がないよ」

「好きでやってるんじゃないんですよ」

「……君は」俺は真っ直ぐに尋ねる。「孤独なのか?」

「うん……本土なら、わたし、受け入れられるのかな」

「……行ってみると良い」俺は無責任ながら答える。「良くも悪くも、こことは環境が違うよ。君の生き方だって許されるかも知れないし、もっと良い生き方に適合できるかも知れないし、どうしようもなくて死ぬかも知れない。いや、社会福祉がここよりは充実している都会なら、死ぬ事はないだろうが」

「……行きたいな、本土」稲内が漏らした。「いえ、本土でなくても……許されたい。大の字になって、眠れる所に住みたい」

「……まあ、頑張るんだね」

 稲内とは、それから下らない話をした。スリや窃盗の常習犯らしいが、観光客には好かれるのか、あまり怪しまれず上手くいっている、と自慢げに話した。

「そういえば、おじさん」稲内は笑いながら話す。心の底から、楽しいのだろうか。「わたし、面白いもの、見つけたんですよ」

「なんだ? 良い感じの洞窟でも見つけたのか?」

「ううん、もっと面白いもの。おじさん、あのホテルに泊まってるでしょ?」

「ああ、他にホテルはないからな」

「あそこの十階でね」

 十階。俺も立ち入った。

 左近の部屋がある階で、

「人が死んでるの、見たんです」



   四話


      □


 部屋に来訪者があって、私は考え事をそのあたりに捨てて、応答に向かった。

「やあ、入宮さん」

「あら鷹森さん、モーニングコールまで仕事の内?」

 立っていたのは、警察官の鷹森だった。朝も早い時間ではないが、もう何処となく疲れた顔を見せていた。二日酔いでもしてるのだろうか。

 鷹森は部屋へ上がり、さっきまで私の寝転んでいたベッドに腰掛けて、話し始める。私は近くにある椅子に座った。

 彼女は帽子を脱いだ。思いの外長い髪が顕になって、埃と一緒に床に向かって垂れ下がっていった。

「いやあ、別に大した用事では無くてですね」鷹森は申し訳なさそうに言う。「あの脇田さんの死体を調べたんですよ。本土からの応援はまだ来ませんけど、まあ放っておいても腐っちゃうんで」

「死体は何処に置いてるの?」

「病院に霊安室があって、そこに。ああ、もちろん病院の人には断ってますし、運ぶのも手伝って貰いました。それでね、確かに、入宮さんの言う通り、どうも溺死っぽいんですよね」

「やっぱりしばらく息があったのね」よし、これで自分の間違った溺死を正当化できる、と私は思った。「そして折れた足と腕を引きずって水辺に飛び込んで自害した」

「でもね、入宮さん」鷹森は私を見つめる。「腕の骨折の方ですけど、外傷が無かったんですよ。つまり……」

 何が面白いのか、鷹森はにこにこした。

「墜落する前から、元々折れていたって事です。不自然ですよね」

 …………。

「確かなの?」

「本格的な検死ではありませんけど、おそらくは」鷹森は腕を組んだ。

 私は、脇の下にじっとりとした冷や汗をかくのを認識し、それから自分はやっぱり殺し屋なんて全然向いてないんだと自覚した。

「じゃあ他殺ね」私はなるべく自然にそう言う。「誰かが彼を殺したのよ。そして運搬の際に間違えて腕を折ってしまった。その容疑者はきっと、悪名高い殺し屋よ」

「殺し屋って随分飛躍しますね」

「でも過去にそう言う事件、あるんじゃないの」

「……確かに」鷹森は頷く。「不審な死は、過去に何件か見つかってますね。私、この島で警察やって、まあそれほど経ってるわけじゃ無いですけど。入宮さん、もしかして、殺し屋に心当たりが?」

「ええ」私は平然と言う。「実は、この島に来た目的は、その殺し屋を探しに来たのよ」

 私もその言葉を聞いて、鷹森は複雑な表情を見せたが、すぐにシームレスに私に対して尊敬の眼差しを向けた。

「もしかして、特殊捜査官、的な……?」

「まあ、公には出来ないけど、そんなようなもんよ」

「へえ! カッコいい!」鷹森が両手を合わせた。「すごいすごい! なんか、只者じゃ無いって思ってたんですよね。私、そう言うのに憧れて、本土の警察学校に行ったんですけど、結局島に戻されちゃって。島がリゾート化してからだから、五年前くらいかな。それはもう不本意でしたよ」

「島のリゾート化って結構最近なのね」私は相槌を打ったが興味はなかった。「実はね、殺し屋には特徴もあって。それに照らし合わせて観光客の中に潜んでいる殺し屋を見つけるのが当面の目的なんだけど」

 鷹森は協力すると申し出て、私は殺し屋の特徴、つまりは証を彼女に教えた。数土のリストは、不審に思われると思い、見せるのをやめた。それと、サンプルという名目で、CDも見せた。ジェントルジャイアントもニルヴァーナも、この女は聴いたことがないと言った。

 とにかく、この女は使える。私はそう思った。使えると言うよりは、そうしないと誤魔化せる自信が無かった。

「本土にいたのね、あんた」私は鷹森のことを探る。足元はサンダルを履いていて、その足先は殺し屋の条件とは当てはまっていないから、彼女は少なくとも私の探している断片化された友人ではない。「島の出身だって聞いたけど、千住から」

「ああ、千住……」鷹森はため息を吐く。「幼馴染で、昔から世話を焼いてくれるんですけどね、もう良い加減、私も自立してるし、鬱陶しいって言うのが正直な感想です。本土の警察学校に行ってたって言っても、なんだか信じてくれないみたいでね」

「昔の癖ってのは抜けないもんよ。あんたに世話を焼いて、子供だったころを思い出して、気持ち良くなりたいのよ、千住は。人妻に手を出してるくせにね」

「人妻?」

「アルナルドさんっていう男の妻のマウリさんってのと話してるの見たことある? 私は詳しいからわかるんだけど、あの距離の近さは完全にそう言う関係よ」

「へえ、千住がねえ……」鷹森は馬鹿にするように笑い飛ばした。「自分を大きく見せたがるって言うか……私がこの島に帰ってきたら、なんかリゾート地になってるし、千住くんは支配人になって偉そうにしてるしで、面食らいましたよ。実家も無くなってますし」

「両親はいないの?」

「ああ、死にました」

 もう少し抑揚でもつければ良いのに、鷹森はごく普通に、昨日の晩御飯でも思い出して教えてくれるみたいな言い方で、自分の両親の死を告げた。

「事故?」

「まあ、そうなってますけどね」

 鷹森は、そんな表向きなんて全く信じていない風な口調で、そう続けた。



 鷹森が、何故か海岸へ行きたいと言うので、私はそれに付き添った。彼女は、私がこんな格好(競泳水着)をしているに、一向に海に身体を浸しに行かないことを気にしていると言った。忙しいからそんな暇がないんだと彼女は思っているのだろうが、単に私に海で泳ぐなんて趣味がないだけだった。

 いつもは日が昇ってさえいれば、どれだけ暑い日であっても観光客と言うものは、海に屯していたのだけれど、今日は微妙に天気が悪く、朝方に雨が降ったせいもあって気温が低く、砂浜も泥みたいになっていた。そのため、あまり海岸に人はいなかった。私たちは砂の上を、靴を履いてとぼとぼ散歩している。

 数土は今日も調査だろう。鷹森を上手く利用できた私を褒めて欲しい、と言う願望すらあったが、彼はそもそも私と鷹森が関わること自体を、大きな問題であるかのように語っていた。向こうから接触があるまで放っておこう。私は、彼からの報告を待って、彼が断片化された友人を特定できたのであれば、その対象を始末するという時にだけ、全力を出せば良い。

 鷹森は楽しそうだった。元来歩くのが好きなのか、それとも島が好きなのか、そのどちらとも言えたが、どちらだろうと私が理解できる感情ではなかった。微妙に冷たい風が、彼女の髪を揺らした。もう帽子は、持っていた小さい鞄に押し込んだらしい。

 波が高いな、と思う。泳ぐつもりは全くなかったが、暇を持て余して、何故か私はそんなことを確認する。あれでは、泳ぐのはあまり賢い選択とは言えなかった。

 波の音。潮の匂いも、砂の匂いも、気にしなければ何も感じなかった。歩き辛い。微妙な喧騒、車道を車が走る音、鳥の鳴き声。全部、耳障りなだけだった。

 歩いていると、何処か切羽詰まった顔をした女が、こちらに近づいてくるのが見えた。

 その人物を、私は知っている。

 私が怪しいと疑っているアルナルド、その妻のマウリツィアだった。距離があってもわかる。何故か、筆で塗ったような少量の涙を流していた。目にゴミが入った場合と、本当になにか感情に訴えかけられる事があった場合の二通りの可能性を考えられる。

「どうしました」鷹森は、私に対する態度とは打って変わって、愛想もへったくれもない、毅然とした態度で接した。「なにか、事件でも」

「いいえ……」マウリは流暢な日本語で答えた。「家庭のことです。本当に、それだけ」

 そこで鷹森はきっと、私が口を滑らせて教えた、千住との関係のことを思い出したのだろう。好奇心なのか、業務上なのかはわからなかったが、何処かそのあたりに座って話を聞く、と彼女言った。アルナルドが怪しいことも、鷹森には教えていたのもあるだろう。

 私達三人は、砂浜に隣接しているコンクリートブロックに腰掛けた。歩かなくなると、なんだか生ぬるかった風に、冷たさが際立ってきた気がした。

「別に……」マウリは話し始めるが、すぐに帰りたそうな表情をぶら下げたままだった。異常なほど顔の作りが良く、そして直ぐにもヒビが入ってしまいそうな繊細さも同時に感じた。透き通ったガラス細工みたいな印象だった。髪も体型も、気を使っているらしい。「夫が、私を何も出来ない女だと決めつけた、っていうだけの話ですよ。そういうのが積み重なって、限界に来たってことです」

「あなたが日本語が上手なのは?」私が尋ねた。「アルナルドさんを見かけたことあるけど、彼はさっぱりよね」

「日本に留学していたんです。えっと、あなたは」

「入宮メバエ」

「イリミヤさんね……姿は見かけるから、その、覚えているのだけど」私が変人だとでも言いたげに、マウリはそう言った。鷹森はそれを聞いて笑った。「私が日本語を話せるから、この島に旅行に来たようなものです。夫は、全く話せませんし、国の言葉と同じ所へ行っても、海外旅行っていう気にはならないんだって、あの人が」

「家族旅行?」鷹森は義務的に尋ねた。「ご家族は、アルナルドさんと?」

「いえ、二人だけです。子どもはいません。もっとも、私はあの人の子供を、産む気分には、もうなれないでしょうけど」マウリは自嘲する。「今朝も、お前は何も出来ない、顔だけの人間だって言われたんです。殴られるとか、そういった暴力はありませんけど」

「なら自分で話せるように日本語を勉強しろ」私は言う。「そう言ってやれば黙ると思うけど」

「お前が日本語を話せるから、活かしてやるためにここを選んだ、って言われておしまいですよ」マウリは諦めたような口調だった。「家のことも、手伝いが全部やっちゃうんで、じゃあどうしろって話なんだけど」

「アルナルドさんは」鷹森が尋ねる。「お仕事は?」

「さあ……でもなにか特殊な事業だって聞きました。それで、かなり儲けたみたいで……私を拾ったのは、お金にも困らなかったそんな男の、余興なんでしょうね。儲けたがゆえに敵も多いみたいですけど、でも世渡りも上手いらしくて、味方もいます……」

 特殊な事業。殺しだと断定するには早いが、断片化された友人も、その依頼の量と殺し特有の高額報酬を鑑みるに、相当な儲けがあることは、疑いようもなかった。

「彼は、今はなにを?」と鷹森。

「部屋で呑気に、映画でも見てると思いますけど。浮世離れしてるっていうか、俗世のことに同調しないのが彼で、海には入ろうとしません。私は……せっかく来たんだから、海で泳いだほうが良いって言ってるのに」

 私はそこで、千住のことを考えていた。



 昼間は天気も戻り、街を行き来する人が多くなってきたのが嫌だった。

 またホテルで眠り腐ろうか考えていた時に、仕事があると言って別れた鷹森から連絡があった。なんだろう、事件や治安維持の横流しの依頼だろうかと思って、彼女からのメールの文面を確認する。

『そういえば、条件に当てはまる日本人観光客の二人組が、今図書室にいるんで調べてもらえますか?』

 なんとまあ仕事の早いことだと思った。リストには、日本人の名前も当然あって、恐らくはそれらのことだろう。

 図書館は街の中にあったが、観光地に於いて、わざわざそんな所で時間を潰す人間は少数派らしく、立派な四角形の建物に反して、全くと言っていいほど賑わっていなかった。はっきりと言ってしまえば、閑散としていた。

 中は中央に大量の本棚、取り囲むようにそれなりのテーブルが置かれていた。二階などはなく、さほど多い蔵書もない。そもそもの話、わざわざこんな離島に本を運搬するコスト自体が面倒なのだろう。棚には種別のラベルが貼っており、主にこの島の歴史や関連書籍が大半を占めていた。暇を潰せそうな分厚い小説の類は、数えるほどしかなかった。

 図書館には、司書らしき人物を除けば、客が二人だけいた。男性二人。テーブルに座って、本を読むでもなく二人で会話をしていた。リストを見ると、彼らと顔写真は見事に適合した。ああ、こいつらだな、と私は彼らに近づいた。

 彼らに話しかけると、何故か妙に嬉しそうな顔を浮かべた。暇だったのだろうか。

 男の片方は小井土。こちらが先輩だと名乗った。やや髪が長く、軽薄そうな印象ばかりが目立っていた。背は高いのか低いのか、椅子に座っているためよくわからなかったが、その座り方が、嫌に尊大というか、虚勢を張ったみたいに偉そうだった。

 そしてもう片方、後輩の方は梶栗と言った。頭は刈り上げていて、スポーツなんかを嗜むようには見えた。小井土が可愛がっているのがわかると言うか、犬みたいな愛玩動物的な雰囲気が彼にはあった。彼は小井土の隣に、小井土よりも退屈そうに座っていた。目の前には漫画と、島に関する本がいくつか置かれていた。

「もしかして」小井土がにたにたと笑いながら言う。「ナンパか?」

「どう見ても私はナンパされる側でしょ。断り方ならプロよ。教えましょうか?」

「だったら」梶栗が口を挟んだ。「俺らになんの用事です?」

「別に。こう外国人が多いと、日本人が恋しくなるのよ」私は言いながら、この男たちを観察する。

 小井土も梶栗も、長袖を着ている。足はサンダル。二人ともスクエア型の足先だった。日本人では少ない形だから、そんな偶然が本当にあるのかは信じられなかった。もちろん、そのことも数土のリストに記載されていた。

 しかし、この二人が同時に殺し屋という線はありえないはずだろう。その理由は単純で、顔を秘密にすることを徹底しているという点に於いて、組織は殺し屋に対して単独での仕事しか流さないからだった。

 つまり、どちらかが殺し屋。どちらかが、一般人。常識的に考えれば、そういう結論になる。

「そう言えば入宮さん」小井土が尋ねる。「俺はね、会った人間全てに訊かなくちゃいけないことがあってな、聞いてくれるか」

「なによ。職業診断でもしてくれるの?」

「いや、今、何月何日の何時だ」

 突拍子もないというか、そんな質問をする人間が、この世に本当に存在すること自体が、私には信じられなかった。しばらく私は、目眩にも似た感情を抱えていたが、とりあえず、義務的に腕を動かして、スマートフォンを開いて、それから彼の質問に答えた。その間、梶栗の方はというと、申し訳無さそうにしていた。

「なるほどな」小井土は納得する。私の時計がズレているわけでもないらしい。「梶栗、やっぱりお前の時計はズレている。これでは、俺が薬を飲む時間がズレてしまうだろ」

「いや先輩」梶栗は呆れた顔をする。「だから携帯電話は電波で時計を合わせてるから、ズレるとかそんなのないですってば。何回言わせるんですか、この話」

「薬って」私は手を上げて言う。「麻薬?」

「あははは、入宮さん」小井土は、想像の五倍くらいの勢いで笑った。「面白いね。いやなに、俺は躁鬱だと診断されていてね。外を歩いていると、薬を飲む時間がよくわからないだろう。なにかに夢中になっている、例えば海で泳いでいるとすると、薬の時間になっても気づかないわけだ。だからここで本を読んでいることにしたんだよ。梶栗! 薬の時間は?」

「ああ」梶栗は鞄からティッシュに包んである錠剤を、小井土に手渡した。「ちゃんとピルケースから今日の分を持ってきましたよ」

「すまんな……。俺はな、薬が切れているという状態が耐え難いんだ」小井土は薬を飲みながら、私に向き直った。「だというのに、梶栗の時計だけでは、飲み逃すかもしれないだろう。だから、人に会って、少し親しくなると、時間を尋ねるんだ。梶栗の時計だけでは、ズレているかもしれないからな」

「じゃあどっちもズレてたらどっちを信じるのよ」

「梶栗だ。こいつはな、可愛い後輩なんだよ」

 小井土は、精神の薬を常服していることから(そう言っては偏見かもしれないが)、何処となく神経質そうというか、その粘土みたいに不安定な人格が見え隠れしていて、離していると少し気味が悪くなってくる。殺し屋にするにも、個人的にはどうかと思うような人材だろう。

 梶栗がしっかりしていなければ、小井土はおそらく、破滅しているんじゃないかという確信さえ持てるくらいに、この男は氷の上に立つみたいな危なっかしさを孕んでいた。

 梶栗の方は、どうも小井土に突き合わされているだけらしく、ずっと不満そうな顔を浮かべていた。本当は、図書館になんか居たいわけではなくて、彼が私が来るまで開いていたであろう島の遺跡に関する本から推測すると、そういった島の歴史についての探求に足を運びたいのだろう。

 そんな、他人の楽しみを、爪楊枝の先みたいに潰して、ヘラヘラとしている小井土は、しばらくしたあとで、急に部屋へ戻ると言い始めた。何処となく彼の顔色をうかがうと、悪い訳では無いが、明らかに気分が盛り下がっていた。

「入宮さん、また機会があればな」小井土は手を降った。「俺は眠い。薬が効いてきた」

「じゃあ今度はあんたからナンパして来なさい。断り方の手本を見せるから」

「……その勇気があればな」

 梶栗が小井土を引っ張って、図書館から消えた。

 残された私は、さっきの二人が私の憎んでいる殺し屋なのかどうかを、目を瞑って考える。


      ■


 俺は考える。

 稲内の言ったこと……稲内が見たのは、間違いなく左近の死体だ。俺が左近を殺そうとして、誰かに先回りをされていた件だ。

 思えば島に来て、奇妙なことが多い。埋めたはずの死体がどうして掘り起こされたのか。誰かが俺を、惑わそうとしているがその理由は。そもそも稲内は、俺を騙しているのか。何もわからなかった。テレビ体験の居場所なんて、この調子ではさっぱりだろう。

 そんな事を考えながら歩いていると、遺跡に行き当たった。遺跡は森の中にあって、少し開けた場所に、ただ石の家屋がいくつか点在していることのみが、最大の特徴だった。

 石の家屋は全てが大きく、三階建てほどの高さもあった。一体この家屋を作った目的はなんなのか、資料を読んですらいない俺が、考えたところで答えが出るはずもない。

 観光客もあまり寄り付かない場所だったため、不審なほどの静かさが辺りを包んでいた。静謐な雰囲気が、遺跡からだだ漏れになっているような気さえしてくるほどだった。まるで心霊スポットだ。怨念が、そこから噴出しているのかもしれない。

 そういった、島では特殊な場所ではあったが、訪れて面白いものでもなく、観光に来た客は、ここから見回すだけでも一人しかいなかった。それもそうか、と俺は納得した。石の家屋の中には、ただ石の壁があるだけだった。

 俺よりも先に来ていた男は、俺を確認すると、家屋の出入り口からこちらへ歩んできた。観光ガイドかなにかだろうかと俺は思った。

「お兄さん、観光ですか」男は馴れ馴れしくそう尋ねる。

「いや、取材だよ」俺は記者のようにそう答えた。「逆に観光以外で何の用事がある?」

「確かにそうですね。いや、でも遺跡なんかにくる人って珍しくて」男は言い訳めいたことを言い始めた。「何にもないでしょ、ここ。歴史的に重要な場所かも知れませんけど、島の自治体がその価値をわかってないみたいで」

「で、なにか俺に用事?」

「用事ってほどじゃ。俺、遺跡が好きなんですけど、人が少ないから、地元の素行の悪い奴らが溜まり場にしてることがあるんですよ。それが気に入らなくてね。こうして、遺跡に入り浸るついでに、遺跡の治安を守ってるんです。ガーディアンですよ」

 男は梶栗と名乗った。若く、そして威厳の薄い顔をしていた。かなりの歳下に見えるが、実際はそれほど離れていないのかも知れない。高校の時はきっと、小学生ぐらいに見られていたんじゃないかと俺は勝手に哀れんだ。

 俺は、梶栗を観察する。足元はサンダル。そして足の形はスクエア。まさかこいつ、殺し屋だろうか。テレビ体験だとするなら、俺はかつてないほどの危機に立たされている。こんな場所で、素手でテレビ体験を御せる程、俺は戦いに向いている人間ではない。

 向こうから話しかけてきたのも怪しげだったが、もう少しこの男を調べる必要があると思った。せめて、刺青かあのCDを持っているかどうかを、確認したい所だった。

 急に梶栗が「げ!」と間抜けな声を上げて、俺の腕を掴んで遺跡の中に連れ込んだ。ひょっとして、ここで完膚なきまでに殴り殺されるんじゃないかと心配になったが、梶栗は息を潜めてしゃがめ、と俺に指示した。窓(正確には、覗き穴のような壁の空間)から、首を伸ばして、梶栗は外を伺った。俺も反対側からそうした。

 広場に現れたのは、警察の鷹森だった。

「鷹森さんじゃないか」俺は小声で梶栗に言う。「何かやましいことがあるのか?」

「無いですけど、あの人苦手なんですよ。俺、昔から意味なく疑われるタイプですし」

「そんな理由で隠れるのか?」

「いやいや、俺を嗅ぎ回ってるんですよ、あの人。何もしてないのに。考えてもみて下さいよ。この島じゃ、スリや人死にが横行してるんですよ」

「そう言うのは昔から、何件かあると聞くけど」

「全部が俺の罪にされるのなんて勘弁ですよ」

 鷹森は広場の中央で帽子を取って、背伸びをしてから、その長い髪を整えて、また帽子に納め直した。それから手に持っていた缶の飲み物を開けて、めんどくさそうな顔をしながら喉に流し込むように飲み干した。空の缶を潰して、手に持ったまま彼女は広場を去ろうとしたが、そこへまた人が現れる。

 知らない女だ。儚げな印象の小柄な女だった。

「誰だ」俺は尋ねた。

「えっと、観光客のロジーって女です」

「ロジー?」聞き覚えが、なんとなくあった。「どんな奴?」

「ミュージシャンだって聞きましたけど、どんな人かまでは、俺は知りません」

 いや、ミュージシャンだから有名だから知っていると言うわけではなかった。俺はもっと最近、あの女を見ている。

 その可能性があるものといえば、一つしかないだろう。俺は、スマートフォンで殺しの依頼のリストを開く。すると、その感覚は間違いでないことがわかった。ロジーという女は、優先順位こそ高くはないが、俺の殺害対象だった。

 目を凝らして俺はじっと、ロジーを見る。鷹森はロジーと会話をしている。英語が話せるのか、それとも何か翻訳を介しているのか、それともロジーが日本語を理解できるのか、そこまではわからなかったが、二人は顔見知りらしく、少し親しげに挨拶をしていた。

「あの女」梶栗は呟く。「本国じゃ、有名なミュージシャンなんですよね。それがこんなところに……バカンスでしょうかね」

「当たり前じゃないかな。リゾート地だ、ここは」

「来るのにそれなりの金がいる……その時点で、馬鹿なミーハーファンがこんな所にいるのはありえないから、安心ですね」梶栗は何処か憎らしく言う。「彼女、マネージャーと来てるみたいですよ。二人で。もちろんボディガードもいるかも知れませんが」

「ふうん……男?」

「いえ、女ですね。ジョアンナっていう女、見たことあります?」

 俺は記憶を辿るが、そんな女がいた覚えはなかった。有名ミュージシャンの付き人ということから、結構な収入なのだろうか。二人で来ているということは、プライベートでも交流があるのか、どうなのか……。

 ロジーは、殺害依頼が出されていることから推察するに、ミュージシャンだというけれど、真っ当な人間ではないのだろう。その理由を聞かされていないが、音楽の他にあくどいことをやって金を稼いでいるのかも知れない。

 ロジーと鷹森は、そのまま話をしながら広場を離れていった。

「ロジー、ジョアンナにずっと頼ってるみたいですね」梶栗は聞いてもいないのに続ける。鷹森が消えて、気が抜けたらしく、石で出来た床の上に座って、煙草を吸い始めた。「一人じゃなんにも出来ないくらい、生活能力が壊滅的っていうか。日本語通訳も、ジョアンナに頼っているみたいですよ」

「梶栗さん、嫌に詳しいね」俺は指摘する。「ファン?」

「別に……」梶栗は首を振る。「俺は遺跡のガーディアンだから、遺跡に来る人間のことは調べるんですよ。彼女、よく遺跡に現れるんでね」

 俺はその話を聞き流しながら、ロジーを殺す方法を考え、そして嫌になる。

 俺は一体、いつまでこんなことを。




   五話


      ■


「あんた、稲内のなんだ?」

 そんなテンプレートじみた台詞を発したのは、いつか出会った外国人観光客のジェルマンだった。確か、犯罪組織について訝っている危険人物だったと記憶している。

 街の広場で、テレビ体験らしい人間を探している時だった。俺は、記者という肩書を使って、取材という名目で、いろいろな人間と接していたり、人の問題に首を突っ込んだりしていた。その過程で、もはやあまり覚えがないような男に話しかけられて、思い出すまでにはあまり短くはない時間を要した。

「何を言っている」俺は面食らいながら答えた。「別に、少し話して、それから食事を奢っただけだよ。あなた……ジェルマンさんだっけ? あなたこそ何のつもりだ?」

「あの女は、ロクな女ではないんだよ」ジェルマンは頭を掻き毟る。「関わるな」

「犯罪組織にでも関係してるって言いたいのか?」

 俺が皮肉でそう言うと、意外なほどにジェルマンは素直に頷いた。

「あの女は悪魔だ。そういう組織と関係があってもおかしくはない。無垢な顔をして観光客から平気で金を巻き上げている。俺は、あの女の本性を知っているんだ。なのに誰ももう、そのことを忘れていて、気にも留めていない……」

「話が要領を得ないね」

「お前が稲内と一緒にいる所を見た。スリにあってなお、それを黙認している所も……あの警官、鷹森も同じだ。みんな、稲内を見逃している」

「鷹森さんが?」俺は尋ねた。「そんなにふざけた警官に……見えないことも無いけど」

「とにかく俺は、あの女を許してはおけない」ジェルマンは俺の肩を掴む。「あんた、稲内の居場所は知っているな。何処だ」

「何するつもりだ?」

「犯罪組織との関係を吐かせる。何か知っているはずなんだ……」

 根拠の欠片も無いっていうのに、この男はそう決めつけて話した。俺はもう、ジェルマンは狂っているんだと思いながら、乱雑に答えた。

「あー、山に行くだとか言っていたような」

「本当だな」ジェルマンは俺に念を押す。

「あの娘を庇う理由が俺には無いよ」

 聞いたジェルマンは、何も答えずに俺の前から去った。その背中には、乗らなければならない電車に滑り込もうとするような焦燥感があった。

 彼の背中が消えるまで俺はじっと、その場から動かないでぼーっとしていた。

 さて……となると、稲内に危害が及んでしまうが、どうするべきだろうか……。さっきもジェルマンに言った通り、俺に稲内を助ける義理などは無い。

 しかし、何処かあの娘を放っておけない気持ちが、どうしても海の底に沈めても浮き上がってくる人間の死体みたいに、そこにあった。

 とにかく鷹森にでも伝えようと俺は判断した。トラブルの解決も警官の仕事だろう。俺は交番へ向かった。

 交番へ行くと鷹森がサボっていて、俺は稲内の住所を尋ねると、彼女は何かの紙を参照してから、俺に住所らしき文字列を教えた。俺はそれをメモに記し、鷹森に礼を言って、それからジェルマンが稲内に危害を加えるかも知れないことを伝え、稲内の家へ向かった。

 稲内の家は住宅地にあった。ホテルを中心とした観光地からは、思ったよりも距離があったが、歩いて行けないわけではなかった。ただ疲れるだけだ。不可能じゃない。

 本土の住宅地とは、密集具合が少しまばらだったが、それでも家屋のタイプは見慣れたものと同じだった。電柱があって、溝があって、苔が生えたような塀が、それぞれの家を囲んでいた。

 稲内家は、両隣の家とその質感は何も変わらない、至って特筆することもない普通の家屋だった。新しくも、古くもなかった。

 俺はそこのインターフォンを無視して、こっそりと窓から内部を覗き込んだ。見えるリビング、誰もいない。路地裏に回って、塀に登って、二階を覗いた。

 稲内はそこにいた。自分の部屋にいるだけで、何もしていなかった。ダンボールが積み上げられていて、汚く、酷い部屋だと思った。これが……年頃の子供の部屋なのだろうか。信じられないものを見た、という気分になった。

 俺は窓に小石を投げ、稲内を呼び出した。彼女は気づくとすぐに俺だとわかり、玄関まで降りて来て、それから俺の用事も聞かないで、少し離れた公園に行こうと言った。断る理由はなく、俺は従う。

「肥塚さん、会いたかったんです」稲内はベンチに座ってそんなことを言う。「不安で」

「俺も言わなきゃいけないことがあってね」俺はやったまま、その辺りで買った缶コーヒーを飲みながら話した。味は最悪だ。「不安って、何かあったのか」

「昨日あたりから、誰かに追われているような気がして……」彼女は俯いた。「そもそも、あんまり家にいたくないですけど、外にもあんまり……視線を感じるって言うか。わざわざ遠回りして、家まで帰ったくらいで……」

 俺は彼女の話を聞き、ジェルマンの奴の行動の速さに少しだけ畏怖を感じた。もうつけ狙っていたのだろうか。ジェルマンが、何も知らない人間に、そう言った嫌がらせをするように扇動をしている可能性もあったが、どちらにせよあの男が元凶で間違いはないだろう。

 もしくは、彼女のスリ被害に遭った別の観光客が、彼女を潰すべく行動を起こしているのかも知れないが、視線を感じたのは昨日からだ、というタイミングからして、少し違うような気もした。

「ああ、俺も同じ要件だよ」俺は彼女の頭頂部を見ながら話した。「ジェルマンって観光客の男が、君のことを気に入らないらしい。スリのことをあの男は知ってる。あいつから、なにか盗んだのか?」

「覚えてない」稲内は首を振った。「そんなの……些細なことだもん」

「とにかく……家からなるべく出ないほうが良い。学校へ行くときも、誰かと一緒にいるべきだよ」

「友達が、わたしにいると思う?」

「じゃあ、外国人の男が現れたら、交番へ駆け込むんだ。鷹森さんには、伝えてある」

「……あの人、嫌い」

「……なら俺に連絡してくれ」俺は紙に連絡先を書いて彼女に渡した。「俺も、人探しで忙しいが、大抵は暇なんだよ」

「……わかりました」

 それとも、先んじて俺の方でジェルマンを始末するか。なんて、考えたくもないことを思い浮かべている。


      □


 私は、部屋で数土と情報を整理している。つまり、別にやることがないと言ってしまって、差支えはなかった。

 数土は、リストにした断片化された友人候補以外にも、私が関わった人間について、それなりの金と労力を払って調べてくれていた。死体処理屋が本業だなんて、本当は嘘なんじゃないかと思えるくらいに、彼は様々な雑務を、頼んでもいないのにこなしていた。

 いきなり私に話しかけてきた男は、記者の肥塚。それは間違いないらしい。旅行という名目なのか、取材という名目なのかははっきりしなかったが、そこはさして重要でもないだろう。聞けば、鷹森や旅行者に手当たり次第に探りを入れいているらしい。殺し屋としての証は見つかっていないが、その行動は怪しんで然るべきだった。

 千住支配人の実家は現在でも残っており、彼の両親が住んでいた。千住はホテルに住処を作っているため、実家に帰る必要はなかったが、両親との仲は良好で、時折顔を見せるという。隣には鷹森の実家があったという話だが、現在は学習塾が建っていた。それでも聞き込みによると、鷹森の家があったのは本当らしい。

 千住は幼馴染である鷹森を気にして、観光客が鷹森を避けているのを気にして、鷹森のイメージアップを図るために、何か下らないことをいろいろとやっているみたいだったが、私が見たところでは、あまり効果が上がっているようには見えなかった。鷹森も、そんな千住を鬱陶しいと思っている様子だった。

 夫婦で来ているアルナルドには、左肩に刺青……。妻のマウリツィアは千住との関係が、もしかすれば不健全なものなのかも知れないという疑念があった。

 図書館にいた小井土と後輩の梶栗……。小井土には躁鬱の症状があり、薬を飲んでいるし、その管理を梶栗が担っているところを、数人の観光客が目撃していた。嘘ではないだろうし、その嘘で生じるメリットが思いつかなかった。梶栗は、その上で英語も話せるらしく、小井土の通訳もやっているようだった。仕事のほうは調べた限りでは、よくわかっていない。ちなみに二人とも、頭が雲にでもなってしまいそうなくらいに煙草を吸うらしい。

 私たちの持っている情報をすり合わせた後、数土は私に、建設的で無いことを言う。

「ここまでで、誰が怪しいと思う?」

「全員殴っていいなら、そうするところよ」

「騒ぎを起こすなよ」数土は呆れる。「もう少しこっちでも絞り込んでみる。お前も、なにかわかったら、俺に連絡してくれ。鷹森との関係はどうだ?」

「上手く取り入って、ミスまでカバーできて、最高の気分よ」

「……あまり変なことを口走るなよ」

 数土が出ていった。私は窓の外を見ながら、うたた寝をして、それから三十分後に目を覚ました。まだ日は高く、海には観光客が雲霞みたいに集まっていた。

 私は顔でも洗って出かけようかと思い、部屋の出入り口の脇にあるユニットバスへ入ろうとすると、出入り口の扉の下に、なにか紙が差し込まれているのが見えた。

 不審に思って、それを拾い上げた。わざわざ他の観光客が通るような場所ではない。偶然ではなく、廊下から、この部屋に用があって、意図的に差し込まれた物でしか無かった。

 紙にはこう書かれていた。

「お前の探している人を知っている。組織に感づかれたくないから、洞窟にて待つ」

 ふん……。私は鼻を鳴らす。

 これが罠じゃなかったら、私を呼び出した人間に土下座でもしてやるわよ。



 洞窟は森の中にあって、もちろん観光地扱いされており、森の入り口から洞窟までは、看板をたどると簡単に到着出来たが、こう見たところでまるで面白い物でもないし、ガイドと一緒じゃなければ中へ入る許可も下りないので、この島では圧倒的に不人気なスポットだと言えた。ここと、何処かにあるという収容所が、島の不人気スポットの二大巨頭だろう。

 木が少なくなって、広場のようになっている場所に、目指している洞窟はあった。高く盛り上がって丘のような形になっている地形の、麓の部分に口が開いていた。入り口の正面には看板が立っていて、「許可なく立ち入るな」という文言と、洞窟の歴史が書かれたプレートが土埃を被っていた。

 どうせ待ち構えるなら中だろう、そう思って私は洞窟へ入る。許可はない。

 明かりがない。スマートフォンのライトで前を照らしながら進んだ。内部は、さして面白くもない構造だった。入り口から長く伸びた通路、その果てにたどり着くとやや広い空間に出る。壁画も、鍾乳石も何もなかった。出来の悪い映画の撮影ぐらいにしか使い道は無いような、触ると怪我をしそうな鋭い石肌が露出した、広い部屋だけしかなかった。

 背後に気配があったが、私は振り返るのを辞めて、声をかけられる前に、すぐに両手を挙げた。

「はーい、降参します」私は言う。声が響いた。「用件は?」

 先に気取られたのが意外だったのか、背後の人間が焦っているように、慌てて息を吸った。それから少しの間があり、平静さを取り繕ったような不安定な声で、私に告げた。

「お前の組織の情報を、聞き出してこいと言われている」女の声だった。聞き覚えは、無い。「お前は、テレビ体験で間違いないな」

「テレビなんか観ないわ」

「お前が殺し屋だということはわかっている。テレビ体験だとされる人間の顔写真と、そのテレビ体験がこの島に潜伏していることが、うちの組織の情報屋の手柄でようやくわかった」

「そうなの。どう思う? この綺麗な顔を隠して仕事してるって。もったいないわよね」

「お前の組織の情報を流せ」

「残念だけど、私もよく知らない」私は適当に答えた。「あんたは、何処の組織? この業界じゃ、うちがシェア率が高いけど、あんたのところはどのくらい?」

「無駄口を叩くな。それから右手の指、ちゃんと伸ばせ。中指を立てるな」女は言う。多分、銃を構えている。「良いから答えろ、組織の所在、ボスの名前……断片化された友人の顔写真なども持っているだろう」

「そんなのあったら苦労しないわよ。ところで……」

 私は唯一の灯り――挙げている左手に握られているスマートフォンを、

「あなたは目を瞑っても、この距離でその弾を私に当てる自信、無かったの?」

 くるりと裏に向ける。

 ライトの灯りは背後を照らした。

 女は小さく声を上げた。

 目潰し。私はその隙をついて、女に反撃をする。

 腕力で動かされた腕が、風を切る音を立てた。

 拳には、感触があった。肉と、皮膚と、骨。

 それから、血液。

 私に殴られて、怯んだ女が、落とした銃。それを速やかに、奪った。

 構える。

「あなた、殺し屋には向いてないわよ」私は女を観察する。見覚えがない、普通の日本人の女だった。「おすすめのね、職業診断サイトがあるんだけど教えてあげましょうか」

「クソ……」女は照らされたスマートフォンのライトから、眩しそうに目を逸らした。「目を瞑っておけば良かった」

「だからあなたに中指を立ててたのよ。目が開いてるか、開いてないかを確かめようと思って。開いてたから、今の方法で良いやって思って」

「瞑ってたら、どうするの」

「そのまま振り返って殴って終わりよ」

「これが、あのテレビ体験か……」女は、心底悔しそうに、奥歯を噛みしめる。「初めから、少しも勝ち目は無かったのか……」

「さっさと脚でも撃てば良かったんじゃないの、三下」私は引き金に指をかける。「そうだわ、私もそうしましょう。どっちの足が良い?」

「わかった、やめて!」女は首を振る。「痛いの、嫌なのよ。虫のいい発言だと、思うけれど。全部話すわ……」

「組織への忠誠とか無いわけ? 私と一緒ね」

「どうせこの業界、末端の私たちに大したことは知らされてないわよ。それに組織とは、お金で繋がってるだけ」

「あなた、名前は?」

「左近よ。もちろん偽名だけど、ここではそれで通ってる。観光客としてね」

「私も入宮で通ってるわ。入宮メバエっていうの」

「入宮……変な日本人の女がいるって、島では噂になってるわ。ずっと水着を着て歩いてる美人だって」

「そうそう。容姿だけは自信があるのよね。だからみんなに見せないと、と思って」

 それから左近は、島に来た経緯を話し始める。うちとは別の殺し屋組織に雇われていた左近は、私から情報を引き出して、それから私を殺せば、報酬として大金を支払うと言う依頼を受けた。その殺し屋組織は、どうも私の活躍が気に入らないらしく、私の組織もろとも、粉々にして潰したいのだと言う。

 任務に当たったのは左近と、もう一人だと聞かされていた。それが誰なのかまでは、左近に知る権利は無かったが、別に一緒に仕事をするわけでも無かったし、どちらかが成功すれば、双方に報酬は満額で支払われるという契約だったため、文句を言う理由も無かった。

「でも、実際は捨て駒だった……こんな依頼、おかしいと思ってた。あのテレビ体験を殺すのに、こんな拳銃一丁なんて、無理があるわよ。本人なら、そう思うでしょ」

「まあ……自分で言うのもなんだけど、業界での悪評を鑑みると、ロケットランチャーぐらいはなんとか入手すべきじゃないかしらね」

「もう一人も、行動を起こしている様子もない。私は騙されたと思ったの。だから、一人でもやってやろうって……でも無理だった。初めから、誰かの捨て駒にされていた」

「……断片化された友人かしらね」私はその名を口にする。「私だって、毎日襲われれば疲弊する。そのための尖兵だったってことよ、あなたたち」

 左近は項垂れた。

「うちの組織に……断片化された友人が、依頼したって言うの?」

「身内から狙われていることを、あいつは知っていて、他の組織の人間を雇って、自分を狙うそれらしい人間を、勝手に炙り出して貰おうっていう考えだったのよ、きっと」私はさて、と一息をついて、彼女に言う。「まあ可哀想だけど、あなた、そういう人生だったのよ」

「ま、待ってよ!」左近は慌てる。「痛いの嫌だって、言ったじゃない。ねえ、入宮、私……協力するわ。あんたの仕事、なんでも手伝うから、殺さないで……」

「そう」

 私は銃を下ろした。左近はそれを見て安堵する。その隙に襲いかかる度胸も、もう無いらしい。

「私も、とっても大事な仕事で島に来てるの」私は腰を下ろし、左近と目線を合わせた。「さっきの断片化された友人を殺すことよ。あなた、なにか怪しい人、見なかった?」

「え、えっと……」左近は考え込んでから、思い出して口を開いた。「そう、銃を、持ってる人、見たの」

「モデルガンとかじゃ無い?」

「わかんないけど、でもモデルガンなんか持って、船に乗れないでしょ? 島に、そう言うの売ってるところも、無かったし……。私だって、その銃を持ち込むの、苦労したのよ。パーツを分解して、一つ一つ郵送で……」

「で、そいつは?」

「旅行者の男。梶栗っていう……」

「梶栗?」

 小井土の後輩。その顔を、鮮明に思い出す。



 ホテルのフロント、そこに繋がっているラウンジへ向かった。

 左近は一人で泳がせた。多分だけど、私を裏切るつもりは無いだろうし、裏切っても大したことはできないだろう。

 しかし妙なのは、何処から私の情報が漏れたのかという点だった。うちの組織は、顔のことはうるさいっていうのに、変な話だ。断片化された友人が私を知っているのなら、直接手を出して来ても良いはずだが……。

 なにか事情がある。そう思って私はなけなしの寛ぎを、ラウンジで発揮した。

 従業員の盛藤が私に気づいて声をかける。

「あ、入宮さん」楽しそうに弾んでいた。話している間は、仕事をサボれるからだろうか。「またさっき鷹森さんが来てましたよ。なんにも用事が無いみたいですけど」

「何しに来たのよ、あいつ……」私は笑う。「あなたと同じで、仕事をサボりたいのよ、あの女も」

「そうなんですかねえ……あんまり親しくなくて」

「観光客には嫌われてるっていうけど、あなたも?」

「支配人は、鷹森さんを良く言いますけど……」盛藤は顔を掻く。「苦手ですね、私も。別に、私が万引きとかして逃げてるってわけじゃ無いですけど……。観光客のみなさんも、彼女の妙に誰でも疑ってかかる姿勢とか、親しくしない冷たさとか、そういうのが嫌だってよく言いますね」

「私は仲良いのに、不思議なもんね」

「ほんとですよ」

 バーもどきみたいなカウンターを見ると、ちょうどよく、私の探している男に関係のある人間が、バーテンダーに文句を言っていた。

 私は彼に背後から近寄る。

「なあ兄さん」絡んでいるのは、小井土だ。文句を言いながら、その口には煙草を咥えていた。「いいか? こういう氷の入ったカクテルってのはな、なるべく作成してからすぐに飲まなければ、味のバランスが崩れるんだよ。氷って知ってるか? 溶けるだろ? 溶けると、酒自体の配分に影響を及ぼすんだ。な? 兄さんも嫌だろ、自分の理想とする味が出せないっていうの。な? それがわかってるのに、どうしてそこからの提供が遅いんだよ。なんのためにカウンターに座ってると思ってるんだ。ロスタイムを消すためだよ。別に、兄さんと喋りたいからじゃ……おっと! 入宮さん。これはどうも」

「そういう難癖は私もいないところでやりなさいよ」私は隣に座った。「小井土、あんたの可愛い後輩、梶栗くんは?」

「今、俺の薬をな、取りに行ってるんだ」そう言いながら、小井土は頭を掻きむしる。「薬が切れたんだよ、不安でしょうがないんだ。なあ入宮さん、話し相手になってくれよ。話していると、気が紛れるんだ」

「良いけど私に難癖をつけないでよ。口論より先に手が出るような教育を受けてるの。それに……」

 私は彼の匂いを嗅いだ。小井土は驚いた。

「臭いわね、あんた」

「飲み過ぎたか」

「違うわ。火薬の臭いよ」

 ――沈黙。

「なんてね、冗談よ」

 私はそう言ったのに、小井土は薄っぺらい笑いを浮かべているだけだった。

「はは、何が火薬だ。煙草だよ煙草……」



      ■


 その日は稲内と別れたっていうのに、俺はしばらくした後、その稲内に呼び出された。指定されたスーパーマーケットへ行くと、稲内が何故か外国人二人とベンチに座っていた。

 もう夜だった。周囲の建物からは、灯りが漏れ出ていた。

 一人はこの間、鷹森と親しげに挨拶をしていたロジーだった。ミュージシャンだというが、近くで見ると、ただの細い女だった。

 もう一人は付き人だろう。梶栗が言うには、ジョアンナという名前だったか。

 稲内は身体が震えていた。

「何があった」俺は、誰にともなく尋ねる。「俺はまあ、保護者みたいなもんだ」

「えっと」答えたのはジョアンナだった。日本語を話せるらしい。「この子、スーパーで、危ない目に遭って……棚が倒れて来て、私がこの子を避難させて、そしたら男が逃げて……」

「そいつが棚を倒したと言うのか」聞くまでも無いが、訊いた。「誰だそいつは」

「わからないけど……日本の人じゃない」

 ジェルマンだ。確信する。ジェルマンが、稲内に手を出した。そういう図式でしかない。

 ジョアンナはそれから店の人へ説明しに消える。残されたのは、俺と、稲内と、ロジーだった。

 ロジーはずっと、稲内の手を握っていた。その目は、慈しみの目をしていた。慈しみなんて表現を、今まで口にしたことは無かったが、きっとこういう目のことを言うんだと、そこで強く実感するほどに。

「稲内。その人とは、仲良いのかい?」

「ええ……」稲内は頷く。「ジョアンナさんとも……。この人、ミュージシャンなんですって」

 知っているが、俺は何も言わなかった。

 しばらくそうしていると、ロジーは急に稲内の手を引いた。連れ去るのかと無用な心配もしたが、ロジーは少し歩いてから公園へ行き、小高い丘に登り稲内に空を見上げさせた。

 星だった。それ以上に、俺にとっては何の感慨もないが、それでも稲内を慰めるような意味はあったのだろうか、稲内は笑って、ロジーに礼を言った。

 殺害依頼の出ているロジーの、そんな善性を見たく無かった俺は、目を逸らせた。

「ロジーさんも」稲内は俺に聞こえるように言った。「誰かに命を狙われているからわかるみたい、わたしの気持ち」

「ミュージシャンがどうして命を?」俺は不思議に思って尋ねた。

「さあ……でも、彼女の活動が気に入らないみたいです。なんか、いろいろそういう運動をやってるみたいで」

 ああ、と俺は思う。さしたる思想も無く、雰囲気だけでそう言った権力に対する反対運動に身を投じて、過激な対立関係から疎まれる人間が多々いることを、俺は日頃の何処かで感じていた。ロジーは、そんな人間なのか、と俺は印象を上書きする。別に、だからといって、仕事を喜んでやる気にはなれないが。

 しかし、こんな儚げな女がミュージシャンというのだけでも意外だったが、一体どんな音楽をやり、どんな過激な思想を振り翳しているんだろう。

 しばらくそうしていると、ジョアンナがやってくる。稲内もロジーも、彼女に居場所を教えた様子は無かったのに、不思議だった。

「ああ、良かった」ジョアンナは安堵する。スマートフォンを見ていた。「ロジー、すぐ居なくなるんだから」

「ジョアンナさん、どうしてここが?」俺は言う。

「ああ、えっと、ロジーのスマートフォンをGPSで追跡出来るようにしてるんです」ジョアンナは俺にスマートフォンを見せた。そこにはこの島の雑な地図と、緑の点が写っている。「場所が正確にわかるんですよ。ロジー、勝手に居なくなることが多いから、よく使うんです」

「ロジーさん、危ない立場なんです?」

「え? ああ、まあ……」俺がそう尋ねると、なにか隠していたことがバレたときみたいにギョッとして、ジョアンナは答えた。「命を狙われることも、よくありますけど」

 それでも、この警戒の薄さか。リゾートという土地が、油断を生んでいるのであれば、なるほど、組織がこのリゾートで死体処理や殺しを好んでやる理由もわかるというものだった。

 俺にやる気と暇があれば、あんな女、数え切れないくらい殺せている。



 稲内を家まで送って、その家の前でジョアンナ、ロジーと別れてから、俺は稲内の家のすぐ近くで、声を発した。

「なあ、いるんだろう」

 路地裏。そこから現れたのは、予想通りの男。ジェルマンだった。

 彼の目は疲れているのか、妙な正義感や憎しみでおかしくなっているのか、釣り上がっているように見えた。

「……肥塚さん」ジェルマンは言う。「まだあの女を庇うんです? さっきあの女は、スーパーで商品を盗みました。そのことに、あなたは気づいているでしょう」

「知らないね」俺は言う。知っていたがどうでも良かった。「庇っているわけじゃない」

「あなたは味方をしている……稲内が、あなたを呼び出したのもおかしい。あなた、組織と繋がっていますね」

「知らん。それよりこれ以上、彼女に危害を加えるな。鷹森の仕事が無くなるだろう。それともあんたの国は警察がいなくて、私刑がメインなのか?」

「俺は何もしてない!」

「棚を倒したのはあんただろう」

「あの女が悪い!」

 沈黙。

「助言をするが、すぐに忘れてくれ、稲内のことは」俺は言う。「あんた旅行に来てるんだろ。好きなことだけしていれば良い。島が好きなんだろう?」

「島……」ジェルマンは頭を抱える。「遺跡が好きだった……遺跡を見に、何度か島に来た……でももう、そんなことどうでも良い……三年前のあの時から……」

「三年前?」

「手がかりなんじゃないかと思っている……あの稲内、殺し屋の証を持っていた。あの、チグハグになっているCD」

 この男。

「肥塚さん?」

 玄関から出て来たのは、稲内。

「来るな!」

 稲内に反応してジェルマンは瞬時に動く。

 稲内を取り押さえようと、俺はもうなりふりを構わないで、

 懐からナイフを取り出して、ジェルマンの前に躍り出て、

 ――刺す。



   六話


      □


 本部からの指令のメールが届いたのは、昼前、私がホテルの部屋で雑なストレッチに興じている時のことだった。

 本部直接の指令は、捨てメールアドレスで届けられるため、一見すると迷惑メールにしか見えないが、件名には、私達にしかわからないような、目印となる文字列が記されている。

 内容は、「遺跡に、断片化された友人の痕跡がある、と情報屋が言っているから、直接裏どりをして来い」と言うものだった。雑な内容だ。私が行く必要なんか無いだろうと思っているが、その一方で、遺跡をまだ調べていないことに気づく。

 遺跡は、ホテルから南の方角にある。北の山程ではないが、ここも森のようになっており、伐採されて作られた道を辿ると、件の遺跡か、さらに南の人気のない海岸へ導かれる。

 遺跡は、わざとらしいくらい「遺跡」としか言いようがない建物だった。木が少なくなって広場になってる空間に、岩で出来た家屋のような物が、いくつか墓石みたいに建っていた。年代のことはわからないが、苔が生えていて、一見それなりに古そうに見えた。

 虫にも刺されるし、あまり森や遺跡なんかに来たくないな、と私は頭の中で愚痴を言う。こう言うのは数土がやれば良いのに、どうして私なんだろう。

 その疑問を、もう少し深刻に考えれば良かった。

 ――破裂するような音。

 聞き慣れているわけではないが、その音が銃声であると私は判断して、伏せる。

 痛みはない。外れた。

 疑問や後悔を全て一度保留にして、私は近くの家屋に身を潜めた。

 騙された。まず、そう思った。本部の指令のメールと言うことで、疑いもしなかったが、アドレスさえ入手出来て、指令の文字列がわかっている同じ組織の人間なら、私をそうやって呼び出すことくらい訳もない。

 二発目、そして三発目。

 弾が壁面にぶつかる。そこから、私は角度を割り出した。

 中央の、一番大きな遺跡。その二階部分からこちらを狙撃している。間違いはない。

 銃声や、弾の威力から想定される口径から言えば、狙撃銃の類ではない。拳銃だろう。殺し屋と言えども、日本の殺し屋が、狙撃銃なんか手に入れるのは難しい。

 拳銃の有効射程を鑑みるに、この辺りへの命中率は低い。けれど、ひとつの弾倉に含まれる弾数は多いはずだ。少なくとも、二十くらいか?

 とすると、私は考える。とにかく撃たせて、リロードの隙を突き、あの遺跡に乗り込む。

 しかしそれが有効なのは、相手が単独の場合だろう。何人いるのかも調べなければ。

 広場に、手頃な石を投げる。銃撃される。違う方向にも投げるが、反応は無い。

 一呼吸を置き、さらに遠くに石を投げ、銃声がしたのを見計らって、私は遺跡に走った。全力を出せば、五秒くらいで辿り着く。その間にも銃声がしたが、当たることはない。大した技量ではない。そう確信した。

 遺跡の壁に背中をつけた。上着越しに、微妙に尖った岩肌が、私を引っ掻く。

 中を覗く。人。

 石を持って乗り込む。二人の人。いや、三人いる。どう言うことだ、計算と違う。でもそんなこと、どうでも良い。

 殴り掛かろうとして、気づく。

 一人が……千住が、こちらを向いて首を振っていた。

 私は足を止め、もう一人を睨む。

 こちらはジェルマンだった。彼は屈んでいた。屈んで、最後に残された一人を見下ろしていた。

 倒れている。血を流して。

「アルナルドさん?」私は、倒れている人間の顔を確認して、名前を呼んで、それから千住に訊く。「何があったの」

「それが……わからないんですよ」

 千住は泣きべそをかいている。服は、支配人の制服を、こんな場所でも着込んでいたことが、現実感のなさを引き出していた。それに、ホテルから車で来たんじゃないかっていうくらいに、汚れも一つもなかった。

「えっと……アルナルドさんが倒れてるってホテルに連絡があって、鷹森にも教えたんですけど、先に見て来てくれって言われて……そしたら、アルナルドさんが倒れてて、側にはジェルマンさんがいて……」

「ジェルマンさん、説明」促す。

「俺も呼び出されたんです」ジェルマンも弱った顔をしていた。「アルナルドさんがもう倒れてて……しばらくしたら、千住さんが来て、鷹森さんが来るまで待っていようって話になったんですけど、何故か銃撃されて、身を潜めてたんです」

「奴は」

「上から銃声が」ジェルマンは二階を指す。「一人でした」

「あなたたち動かないでよ。邪魔になるから」

 きっと彼らは、私の足を引っ張るために呼ばれたんだろう。ならここでじっとさせるのがそれに対する対抗だった。彼らを、ここは危険だから、と外へ連れ出すなんて馬鹿な選択肢を、私が取るわけがないだろう。舐められたもんだ。

 しかし階段の上。

 銃声が鳴る。

 私は伏せろだとか言うまでもなく、彼らを突き飛ばして壁際に寄せた。

 遮蔽物がない。見捨てるか? その判断をしたかったが、どうにも微かに残る良心が許さなかった。

 暗いが、銃口だけが見える。

 千住を狙っている。

 私はアルナルドの死体の服を掴んで持ち上げ、千住の前で構える。

 銃撃。アルナルドの死体は、弾丸を受け止めた。

 瞬時に死体を捨て、近くにあった石をアンダースローで投げる。

 石は、階段の上へ飛び込んで、鈍い音がする。

 けれど、相手の銃口は引っ込まなかった。

 防ぐものがない。身構えて、弾を避ける準備をしようとした時に、

 声、

「武器を捨て、投降しなさい!」外から大声が聞こえる。鷹森だった。窓から見ると、拳銃を構えている。「繰り返します、武器を捨て……」

 銃口が引っ込む。

「鷹森、隠れなさい!」私は言う。同時に階段に向かう。

 数発。

 鷹森は叫び声をあげていた。

 どうなった。いや、気にするな。

 二階。躍り出る。

 記憶の上では、相手の銃の装弾数から、弾切れを起こしている。

 男がいた。

 窓の側。弾倉を入れ替えながら、こちらを見て。

「外道!」

 私は駆けて、彼の顔に飛び蹴りを入れた。

 倒れた男を、私は見下ろす。

「…………小井土」落ちた銃を蹴り飛ばした。蹴った感触は金属なのに、転がる音はプラスチックみたいだった。

「ぐっ…………痛……」小井土は呻いていた。

「あなたが、断片化された友人なの?」



 私は小井土を踏みつけながら、鷹森を呼んだ。鷹森はなんとか無事らしく、しばらくすると二階へ上がって、小井土に手錠をかけた。

 アルナルドは、当たり前だが既に事切れており、ジェルマンは落胆の表情を浮かべていた。千住は、生き残れた喜びに浸って、ずっと遺跡の隅で泣いていた。二人の面倒は鷹森に任せた。

 外の広場。そこに小井土を座らせて、私は二人で話を聞いた。小井土はいつの間にか気を失っていたが、殴ると目を覚ました。腕は、鷹森の手錠で拘束してあった。

「小井土、あなたの目的は?」

「…………」

「私ね、拷問って苦手なのよね。だから、やばい壊し方しちゃうかもしれないけど、それでも喋らない?」

「……まあ良いか」小井土は、諦めたように言った。「さっき飲んだ薬が効いていて、今は気分が良いんだ。もう、組織なんてどうでも良くなるくらいにな……」

「断片化された友人って、あなた?」

「いや、俺はただ、断片化された友人に雇われたんだよ。お前を消すようにってな。お前と断片化された友人とも……俺は同じ組織だ」

 左近と同じだろうか。しかし、同じ組織から雇うなんて、直接的にも程がある。

 しかし、左近の言っていたもう一人って言うのは、この男なのか?

「断片化された友人は何処?」

「さあな……島にいるのかさえも……いや、俺への依頼が、本当に断片化された友人からのものだったのかさえ、わからないな……相手はメールじゃそう名乗っていたが、その真偽はどうでも良かった。金払いが良かったからな」

「会った?」

「いや、誰にも会ってない。組織の徹底ぶりは、お前だってよく知っているだろう」

 まあそうか、と私は頷く。私の顔だって、本来はかなり秘匿されているはずだ。何故か、左近にはバレているが。

「で、小井土。それは偽名?」

「定石通りだ」小井土は笑う。「もともと小井土という個人観光客がいた。それを殺して、成り替わったんだ。梶栗も同じだ。組織の殺し屋は、みんなそうするだろう」

「残念だけど、私は初めから偽名を貰ったわ」

「よほど重要な仕事らしいな、断片化された友人狩りってのは……」

「あなた、コードネームは」

「男性用理髪店」

「相変わらずふざけた名前ねえ……」私は組織に呆れを覚えた。「その名前すら聞いたこと無いわ。で、梶栗も殺し屋?」

「そうだ。あいつはまだ新米で、仕事の経験も薄いから、俺の仕事ぶりを見せて、成長して貰おうと考えていた」

「それなのに、来て無いの?」私は首を回した。「全然慕われてないじゃないの」

「おかしいな。二人で銃撃しようって言ったんだが、途中で逃げやがったな。あいつも、同じ組織だよ。まあ、勝手に面識を持ったのは、俺の独断だが……」

「まさか勝手に組織の人間を連れて、夜通し合コンなんかをやってたのって、あんたたちなの!?」私は、急激な馬鹿を見るような目をした。「こんな所で、そんな馬鹿な奴らに会うなんて、考えもしなかったわ!」

「有名なのか。光栄だな」

「何が光栄よ。バカ。あんたたちみたいな、大うつけになるなって、組織から十分に通達されてんのよ」私はため息を吐いて、それから思い出したように訊くべきを訊いた。

「それで、アルナルドさんはあんたが殺したの? 理由は?」

「アルナルド?」小井土は首を傾げる。「お前が盾にして死んだんじゃ無いのか? ひでえことしやがるな、さすがテレビ体験だ、血も涙もない、なんて感心したもんだが」

「あなたみたいなのを殺さないでおいた私が、そんな非情な人間に見えるってわけ? 視力いくつよ。あなた、さっさと眼鏡買った方が良いわ」

「……だが、俺が殺したんじゃない。いや、信じてくれと言うのも無理な話だが、いつの間にか、あの場所で死んでいた」

「千住とジェルマンはあんたが?」

「いや、あいつらも俺じゃない。勝手に集まっていた」

「誰かに呼び出されたって言ってたわ」

「……なら、アルナルドを殺した真犯人じゃないのか?」

「なすりつけたかったってことか。あり得るわね」

「まあとにかく、あれは俺じゃない」小井土ははっきりと言う。「ここで殺人が行われたのは最悪の偶然か、それとも、俺の襲撃がわかっていて便乗したか……」

「あなた、襲撃の日は今日だって決めてたわけ?」

「まあな。金だって、薬だって有限だ。目処がついたらさっさと片付けようと思っていた。だから、初めからこの日に決めていたよ。薬に余裕があるうちにな……」

「誰かに襲撃の日が漏れているなら、あなたたちの秘密厳守の杜撰さを恨むわよ」

「だがな、日本語なんか通じないと思ったんだ」小井土は弁明する。「だから、外国人の前で、梶栗と襲撃の話をしたこともある」

「さすが、勝手に合コンを開く外道ね」私は鼻で笑う。「合コンで、女の子は興味を持ってくれた?」

「殺し屋が偽証する職業なんか、思いつかないから困ったな。俺たちは、殺し屋以外でどう生きていけば良いのか、知らないんだって思い知らされたよ」

 耳が痛いようなことを、この小井土は口にした。


      ■


 動かなくなったジェルマンの死体を、俺と稲内は見つめていた。

 玄関先だった。ナイフは、ジェルマンの胸に刺さったままだ。そのため、出血は少なく、彼女の家の敷地は、ほとんど綺麗なままだった。自分の、的確に心臓を貫ける殺しの腕に対して、信頼とも畏怖とも取れない感情を俺は抱えた。

 どうしてこんな、魚を解体するみたいに、簡単に人を殺せるんだ、俺は。

 稲内は、俺を軽蔑するでもなく、玄関の前でじっとしていた。ショックを受けているのか、それとも、眼の前のことが処理出来ないのか、ピクリとも動こうとしなかった。これでは、稲内まで死んでしまったみたいだった。

 俺は呼吸する。殺しには、いつも何も感じていない。そのはずだったが、今の俺は明らかに動揺していた。それもそうか。なぜかと言えば、人に殺人の瞬間を見られたことは、今までに一度だって無かった。知らない人間に、裸を見られる方が、よほどマシだとさえ思えた。

「…………稲内」俺は、恐る恐る彼女に話しかける。「……誰にも言わないでくれよ」

「…………」

「俺は、君のスリを黙認している。その取引くらい、成り立つだろう」自分で言っていて、なんだかその言い草はダサいと思った。「俺は、こういう人間だ。殺しが、仕事なんだ」

「……殺し屋、ってことですか」稲内は小さな声で尋ねる。「この人は……殺すつもりだったんですか」

「そうだ。仕事だよ」嘘半分、本当半分だった。「とにかく、この死体を始末する。君は、今日見たことは忘れてくれ。そして、俺には関わらないほうが良い。もう誰にも狙われることは、無いとは思うが、気をつけてくれよ」

「ホテルで……あの女の人を殺したのは」

「俺だ。軽蔑したか?」

 稲内の返事を待たないで、俺はジェルマンだったものを担ぎ上げて、人目につかないようなルートを通って、遺跡の方へ向かった。別に、そこに用事があったわけでも、そこが隠蔽に適しているわけでもなかったが、昼間に人が少なかったことや、山で死体を掘り返された嫌な思い出から、なんとなく遺跡を選んだに過ぎなかった。

 遺跡に着くと、一番大きな家屋の屋内へ入り、安全のために周囲をスマートフォンで照らした。遺跡の壁が見える。

 そこに、前は気が付かなかったものがあった。

 弾痕。つまり、銃から発射された弾の痕だった。

 弾痕? どうしてこんな場所で……。疑問に思ったけれど、しかし俺にとってはそんなことは、少しも関係がなかった。

 ここにジェルマンを安置する。どこかに埋められれば良いが……

 そう思っていると、足音。

 俺は慌てて、二階へ上がった。優先順位を考えて、ジェルマンは部屋の隅に置いてきた。この暗さでは、仮にこの室内に入られたとしてもわからないだろう。

 窓から観察する。広場に現れたのは、男。

 見覚えがある。この遺跡によく出没する、梶栗という男だ。あの男、遺跡のガーディアンだとか下らないことを言っていたが、本当にこんな時間までずっと、この辺りを彷徨いているのだろうか。

 梶栗は不審なほどまっすぐに遺跡に近づき、遺跡内部に入る。俺は階段へ向かって、姿勢を低くして階下を覗いた。

 梶栗は、死体の方を照らし、驚いたように持っていたなにかとスマートフォンを取り落とした。それから全てを拾い上げて、何処か諦めたように広場を去った。

 俺は階段を降りる。死体。ポケットを探ると見つかるのは、発信機。

 不審だと思っていた。梶栗は、迷うことなく、まっすぐにこの死体を見つけた。だとすれば、梶栗は、ジェルマンを追っていた? 彼がジェルマンを狙う理由は、俺が一番良く知っているものしかないと推測される。

 殺害依頼だ。俺の知らない間に、あの男への殺害依頼が出ていたのだろう。ジェルマンは、組織の存在に感づいていた。組織が、ジェルマンを消そうと考えることには、何も不思議な点は無かった。それを、梶栗が請け負ったのだろう。

 ならば梶栗が、俺を陥れてきた殺し屋なのだろうか。思えば、あの男には、妙に気になる点も多いような気がした。この遺跡に好んで入り浸っているのも、ここが潜伏に都合がいいからだろう。暗いこの時間ではよくわからないが、昼間に探れば、あの男がここを拠点にしている証拠が見つかるかもしれない。ひょっとすれば、武器の類だって、ここに隠されているんじゃないだろうか。

 だとすれば、左近を殺したのもあいつが?

 次に狙うのは、ロジーか? 俺の仕事を、優先的に先回りをして、嫌がらせをしているのなら、そうなる。

 肥塚の死体を掘り起こしたのも……。断片化された友人を妨害し、その名の知れた殺し屋より先んじてターゲットを処理したとなれば、少しは組織内での評判も上がるかも知れない。

 だが、今更仕事なんて、俺にとってはもうどうでもいいことだった。素直に、俺はそう思っていた。

 もはや俺の興味は、稲内にしか向いていない。彼女がまともな生活を送れる様になってほしい。それだけだった。そう考えている自分が、少しだけ意外だった。

 もう会うことも無いはずなのに、多分その通りにはならないだろうと、心の何処かでは思っていた。

 俺は今、間違いなく殺し屋ではなく、稲内のために生きていた。



 ホテルに戻ると、鷹森が来ていて、少し騒ぎになっていた。

 ロビーには、深刻なほどに客はいない。盛藤が椅子に座って頭を抱えており、その隣で鷹森が肩に手を置いていた。

「ああ、肥塚さん」鷹森は俺を呼び止める。「見られたからには隠し通せませんから、あなたには教えておきましょう。記者らしいですが、ちょっと記事にするのは待って欲しいんですけどね」

「どうしたんです」訊くまでもない。鷹森が何を言うのかなんて。

「ホテルでね」鷹森は小声になった。「死体が見つかったんです。左近さんっていう方が、お風呂で亡くなってて……。それを、盛藤さんが発見したんです」

「……本当ですか」俺はわざとらしく言ってしまう。「犯人は」

「わかりませんけど、現場近くに、これが」

 鷹森が取り出したのは、ヘアピンだった。

「それは……子供用のヘアピンだろう」俺は指摘する。「子どもが殺したっていうのか」

「いえ、そこまでは言っていませんよ。ただ、なにか見ていないかと思って」

 ヘアピンに覚えがある。これは……

「稲内さんっていう子供の物ですよね」鷹森は、答えを言った。「たまにこれをしていることを、見た時があって。島では売っているところは見かけないんですよ。きっと、観光客か誰かにもらった物でしょうけど」

「だったら、観光客のものじゃないのか」

「まあそうですけど、一応本人に尋ねてみますよ。指紋も調べれば、はっきりするでしょうし」

 確かに、左近の死体を見た、と稲内は言っていた。彼女には、俺が殺したと先ほど嘘をついたが……

 首を回す。誰もいない。

 誰かが今の会話を聞いていたとしたら、稲内が死体を目撃したんだと周知されてしまう。

 犯人が……おそらく梶栗が狙う対象に、あの稲内も含まれるんじゃないだろうか。



   七話


      □


 次の日だった。鷹森から連絡があって、私はそれを受けて数土を部屋に呼び出してから、病院へ向かうことになった。

 理由は単純な話で、病院に預けているアルナルドの死体を調べて欲しい、と鷹森が私に頼んだからだった。いつも言っているように、鷹森は仕事が忙しく、アルナルド殺人事件だけを調べている暇がないから、協力関係にある私にその検死をやらせようという腐った魂胆らしかった。数土を同行させたのは、単なる私の趣味で、鷹森にも許可は取っていた。

 アルナルドのことは、私も気になっている。どうしてあんな場所で殺されていたのか。あの後、交番の拘置所に収監された小井土は、檻の中からずっと、あれは俺ではないと言い続けている。だとすれば誰がやったのか疑問に思うのは当然だろう。

 もしかすれば、断片化された友人の仕業なんじゃないだろうか。その理由もわからなかったが、私はなんとなく、アルナルドを調べれば、断片化された友人に繋がるという淡い期待を持っていた。何も出なくても、誰か殺し屋に突き当たるだろう。それを楽観的と言われれば、否定はできなかった。

 病院は街にあった。観光客のよく集まる商業エリアよりは、住宅地に近い場所に建てられていた。まだ新しいのか、白い建物が夏の日差しに当てられて、見ているだけで目が痛くなるようだった。撮影に使う反射板みたいだと思った。高さは三階建てで、多分、島の何よりも大きい建物なのかもしれなかった。

 受付で鷹森の名前を出すと、病院の少し偉い男性が出て来て、私たちを若干面倒くさそうに、地下にある死体安置所に連れて行った。

 妙に狭い、普通だと気にも留めないような、廊下の角の階段を降りた。足音が反響しないことが、どんな材質で出来ているのかわからなくて、なんだか気持ち悪かった。

 降り切ると、観音開きの扉があって、男性は懐から鍵を取り出して、開錠し、私たちを中へ招いた。招いておいて、自分は外で待っていると言い始めた。怖いらしい。

 室内は、死体安置所と聞かれて想像するものと、あまり違いはなかった。壁は大きな棚になっており、棚の引き出しにはそれぞれ死体が入っているという、ごくオーソドックスなタイプだった。それ以外に部屋には何もない。死体を運び入れるためのエレベーターが棚の反対側にあるくらいだった。

 死体を腐らせないように空調が効いていて、かなり寒い。ため息を吐くと、白い息が出るんじゃないかと思ったが、それほどでもなかった。外との寒暖差で、私の骨にヒビでも入るんじゃ無いかと思った。

 アルナルドの死体は、棚に納められていた。近くには、脇田と書かれた棚もあった。あの男も、死後にこんな所に収められるなんて、考えもしなかっただろう。

 アルナルドの死体を、入り口の男の許可を得て、中央にある寝台に移動させて、備え付けのライトで照らした。腹部の真っ赤な傷口と、明らかに事切れた瞳が、なんだか冗談みたいに浮かび上がった。

 数土が死体を見下ろして、私に言った。

「アルナルドさんで間違いはないな」

「ええ、見覚えがあるわ。近寄って話しかけたんだけど日本語がわかんないって。奥さんが通訳してたみたいだけど、奥さんは旦那に不満があったの。この男の子供なんかいらないだとか言ってたわ」

「そんな生々しい裏の事情なんか教えてくれなくて良い」数土が嫌な顔をする。「俺は、調べはしたが面識は無い。確かジェルマンさんと話している所を見たが」

「彼も悲しんでいたわね。そう言えば、私もそういう所を見たと思う。ジェルマンはどんな様子?」

「確か……元気が無かったように見えた。そして、巻き込まれた千住は、ホテルに閉じ籠って怯えて出てこないって、盛藤さんが言ってたな。心配そうだった」

「まあ銃口で狙われた一般人の中では、健全な反応よ」

 盛藤はきっと、千住を心配しておらず、ただ自分の仕事が増えるのが嫌なんだろう。ため息を吐く彼女を、私は思い浮かべて気の毒に思った。

 そんな話をしていると、霊安室に人が現れた。

「左近」私はそっちも見ないで声を掛ける。「どうしたの」

「殺しがあって……銃撃に巻き込まれたって聞いて、入宮さんが心配になって鷹森に聞いたら、ここへ行ったって言われて」こちらに歩いて来た左近は、見知らぬ男、つまり数土を見た。「えっと、同業者?」

「お前は?」数土は身構える。「証は?」

「待ちなさい数土」私は止める。「この女は私を襲って失敗した惨めなの女よ。そして私に忠誠を誓ってるの。他の組織の殺し屋だって」

「他の組織ぃ?」数土は呆れる。「お前、そう言うことは全部報告しろって言ってるだろ。お前、左近。信用ならない。消えろ」

「まあ数土。それは早計よ。彼女にも手伝って貰ってるのよ」

「裏切るだろう、百パーセント」

「断片化された友人が雇ったらしい捨て駒よ。大丈夫、裏切ったら殺せば良いんでしょ」

「……俺は知らないからな」数土は言いながら、左近に挨拶をする。「俺は死体処理業者だ。いいか、余計なことをするなよ。この入宮メバエは恐ろしい女だ。逆らうと痛い目を見る」

「それは、知ってます」本気で懲りたような声を、左近は出す。

 それから左近は死体に近づいて、恐る恐る覗き込んだ。

「遺跡で殺されてたの」私は説明する。「左近、小井土って男は?」

「いえ、知りませんね」左近は首を振った。「そいつが殺したんですか?」

「本人は知らないって言ってるけど、あんな殺し屋を全面的に信用する馬鹿はいないでしょ」私はそう言って、小井土のことを左近に教えた。まあ私も知っているのは、彼が同じ組織の殺し屋で、とりあえず私を銃撃して来た不届な輩という表面的なことだけだった。「小井土も断片化された友人かどうかはわからないけど、人の依頼でここに来てるって言ってたわ。だからあなた、面識があるかとも思ったんだけど」

「私が聞かされているのは、もう一人雇っているって言うことだけですよ。どんな人かはまったく……」左近は思い出して言う。「小井土が断片化された友人っていう推測はどうです?」

 質問を聞き、数土が口を挟む。

「どうせ捕まってるのに、名乗らない理由は無いだろう。むしろ忠実な捨て駒なら、わざと自分が断片化された友人だ、って名乗る。それすらしないのは、小井土はきっとその程度の人間ってことだ」

「そう言えば数土」私は訊いた。「梶栗の行方は?」

「さあな……。調べた限りじゃ、昨日から梶栗を見たと言う人間すらいない。何処か、人の寄りつかない辺鄙な場所に潜伏しているらしいな。襲撃に協力しなかったのは、小井土が失敗すると読んで、見限ったんだろう。あいつも、殺し屋で確定だろう」

「ああ」左近は手を挙げた。「じゃあ私も探しますよ。暇なんで。写真はあります?」

 数土は左近に写真を見せる。左近はそれをスマートフォンで撮影したが、特に梶栗に対しても、見覚えというものがないらしかった。

「さて、雑談はこのくらいにして」私はアルナルドに向き直った。「このおじさんの相手をしてあげましょうか」

「この人も」左近は話す。「特に見覚えはないですね。小井土じゃないなら、誰がやったんでしょう」

「一応尋ねるけど左近、あなたじゃないわよね」

「違いますよ。なんの動機があるんですか」左近は首を振る。「殺し屋って言っても快楽殺人者なんていませんよ。依頼に無い殺しをすると、酷く怒られるんですから。死体処理屋にはその分の代金を自分で払えって言われるし」

「アルナルドさんには」数土が言う。「どこの組織からも殺害依頼は出ていない。殺し屋が噛んでいるなら、俺たちのような処理業者に連絡が入るもんだが、それも確認されていない。殺し屋の仕事では無いと言う可能性の方が強いな」

 私は眉を顰める。

「断片化された友人と無関係かもってこと? じゃあもうほっといて良いんじゃないの。私に関係ある?」

「無関係とまでは言っていない」数土が言う。「断片化された友人が彼を殺し、その罪をなすりつけるために、現場をあそこに選んだ。小井土は、襲撃をその日に決めていただろう。仕事でなくても、アルナルドさんを殺害する理由が、断片化された友人にはあったかもしれん。顔を見られ、殺し屋であることもバレてしまえば、お前だって殺すだろう」

 数土は死体を触った。傷、体格、死んだ表情。難しい本を読み解くように、彼はじっとアルナルドを見下ろす。

「他殺体には特徴が出る。どうやって殺したのか、どう言う状態なのか……それによって犯人の目星が付くかもしれん。例えば……」

 数土は、傷口を指で示した。穴が空いている、としか形容しようのない傷跡だった。指が三本ぐらい入りそうな大きさが、いくつも空いていて、そこからは血が噴出して固まっている。服にも当然穴と血。

「これは何か杭のような物で、正面から複数回刺されている。包丁やアイスピックほど細い物ではない。木片や土も付着している。恐らく、凶器は、そのあたりに立ててある看板なんかが候補に入ってくるだろう。傷の方向を見てくれ」

 私はアルナルドを、少ししゃがんで観察した。腹部の辺りに、傷が多い。心臓をひと突き、というわけではなかった。

「腹部ばっかりね」私は言う。「じゃあ犯人は、アルナルドより小さい人ってこと?」

「そうだな」頷く数土。「下から抉り込むように穴が空いている。これはアルナルドさんよりも、犯人の身長が低いことの証拠になるだろうな。入宮、アルナルドさんの身長を覚えているか」

「さあ……でも彼って、比較的大柄よね。小さい人といえば……」

 私は思い至る。

 アルナルドが邪魔で、尚且つアルナルドよりも身長が低い人間。

「千住……?」私は呟く。「支配人の千住。あの男、アルナルドの奥さんと不適切な関係みたいよ」

「千住さんか……」左近が腕を組んだ。「確かに、私、見たんですよ。アルナルドの奥さんが、千住さんの部屋の辺りを歩いているのを」

 あれだけ曖昧模糊としていた断片化された友人の正体が、千住なのかもしれないという暫定的な疑念によって、私の頭の中で、粘土で作ったみたいに、人間の形を得ていった。

 しかし、千住が私の家族を皆殺しにしたような人間に見えるかと言われれば……。それに、殺し屋の証も、まだ確認していない。

「他にはいるか?」数土が尋ねた。

「それこそ、小井土もアルナルドの妻のマウリも当てはまるわ。ジェルマンも……」いや、と私は思い出す。「ジェルマンは違う。アルナルドより身長がデカかったのを見たわ。あの二人、仲良いらしくて並んで立ってたことがあるのよね」

「小井土は、なんとも言えないな。正直、何を考えているかわからんが、身柄は確保している。保留と考えて良いだろう。問題は梶栗だ。あいつの身長を覚えているか?」

「小井土より低かったとは思うけど、ああいう後輩系って実際より小さく見えるわよね」

「梶栗はなんらかの理由があって、アルナルドを殺し、小井土を見捨てて逃走した……その流れであっても、不自然ではないな」

「だったら……」左近が手を挙げる。「やっぱりバレたんですかね。殺し屋ってことが、アルナルドさんに。だから殺した……殺し屋としては、まともな理由ですよね」

「そうだとしても、小井土は、拳銃を持っていたな。弾も、日本の殺し屋にしては、潤沢に支給されていた。梶栗も同じ装備だろう。わざわざ杭みたいなもので刺し殺すメリットなんか無いだろう。除外しても良い。それに、あれは変に服が汚れる」

 そんな殺し屋の殺しの装備の事情くらいは、私だって嫌になる程知っている。仕事で銃を撃ったことはほとんどないし、その所為で私の射撃の命中精度は、馬鹿みたいに低い。

「まあとにかく……今後の方針は決まっている」数土は私と、ついでに左近に対しても言った。「逃げた梶栗を探し出すこと。そして、小井土を尋問すること。後者は鷹森に任せていても、ある程度は進むと思うがな。梶栗を見つけることが先決だろう。そして、あいつが、断片化された友人とどう繋がっているのかを調べる。きっと、その過程で、アルナルド殺しのことは、自動的に判明することだろう」

「左近」私は呼びかける。「あなた、人間が潜伏するところに心当たりは?」

「安全といえば、洞窟か、遺跡か、あと収容所? ……でも、遺跡はもう殺人現場になりましたから、洞窟が有力ですかね。でも、そんなところは真っ先に探すと言えば、そうです。収容所は……ヤンキーの溜まり場らしくて、一人になるには難しいでしょうね」

 一体、梶栗は何処へ消えたのか。私は、また探し人が増えたことに対する心労で、気が重くなっていた。

「それと、千住はどうするの?」私は数土に尋ねる。「動機の点では、あの男を放置できないと思うけど」

「じゃあ、千住の方は、俺が探りを入れよう。梶栗は……左近に任せる。入宮は、鷹森に取り入って、アルナルドと小井土の情報を得る。この分け方で良いか」

「別に。なんでも良いわ。どうせやることは一緒よ」


      ■


 広場で騒ぎがあるのを、俺は素通りしようとしたが、剃り残した髭みたいに、妙に気になって仕方がなかった。

 素通りすれば良かったと、俺は自分を責めた。

 稲内が、また騒ぎに巻き込まれていた。彼女は人だかりの中心にいて、外国人観光客数人に肩を掴まれて、何かひたすらに理解出来ない言語で、矢継ぎ早に文句を言われていた。

 どうせまた、スリでもやって、それが愚かなことにバレてしまって、こんな状態に陥っているだけだろう。俺は、そう片付けられれば、それだけ楽かと思った。

 だというのに、もう関わるなと俺が言ったくせに、彼女のことが気になって仕方がない。スリは悪いことだ。詰め寄る権利を、あの観光客たちは持ち合わせている。けれど、何故、大義名分もなく俺は、稲内を擁護したくて仕方がなかった。彼女の事情、彼女の環境、彼女の人柄……俺は彼女のそう言った面を見せられて、見事に騙されているのかも知れないが、騙されていることを否定する根拠は、頭の中身をひっくり返したって、どこにも無かった。

 観光客の中には日本人もいた。俺は少しだけ近づいて、耳を澄ませた。

 日本人観光客は稲内に対して、お前が犯人だ、お前が人を殺したんだと喚いていた。

 鷹森の見つけたヘアピンの話が漏れている。俺はそのことに気づいて、周囲を見渡した。

 光る銃口があればわかる。そう訓練されている。

 真犯人は、稲内を狙うに決まっている。

 遠くに人影が見える。誰だ?

 梶栗か? それとも見知らぬ殺し屋……。

 この疑いは、良い疑いだ。従えば良い。違っていても良い。過剰でも良い。速やかに、俺は観光客を突っぱねて、稲内の手を掴んだ。

「肥塚さん!?」稲内は俺に引かれながら、俺の顔を見て、それから驚く。「ど、どうして……」

「君が見つけた死体。あれの真犯人がきっと、君を狙っている。ヘアピンが落ちていたことは?」

「た、鷹森さんが届けに……」

「とにかく離れよう」

 俺たちは広場を抜けて、そして雑多な商店街を抜けた。その先には何があるのかわからなかったが、何も考えず、広場から離れる行為のみが、砂糖を舐めるような快楽すらある、肯定される行動だった。

 森林公園にたどり着いた。元々面白みが薄く静謐な場所なのか、人気が少ない。そんな場所ばかりだ、この島は。海とホテルを行き来するだけの観光客ばかりだった。とにかく俺たちは人の少なさに安心して、その辺りのベンチに、体重を全て任せるみたいに腰を下ろした。

「関わるなと言ったが」俺はぼそりと言う。「無視できる状況じゃないんだ」

「ホテルの死体って、肥塚さんが殺したんじゃないんですか」稲内は、まだ俺を信じられないような目で見た。

「面倒だから、嘘をついたんだ。その方が、俺を殺し屋だと信じやすいだろう」俺は空を見上げた。夕方だ。つまらない夕方だった。「あれを殺したのは俺じゃない。でも、俺は殺し屋なだっていうのは本当だよ」

「…………」

「恐ろしいか?」

「いえ、肥塚さんは、優しいから、まだ信じられないって言うか……」稲内は俯く。「島や、観光客の奴らの方が、怖いです……人間の底を見ているみたいで……」

「君を犯人だと決めつけている」俺は稲内を刺激しないように優しく言う。「まあスリのこともある。君の自業自得だと言えば、否定するのは難しいが、とにかく君が殺しはしていないんだろう?」

「そんなの、当たり前じゃないですか……」

「左近殺しの犯人は見たか? 犯人は、君を狙っているんだ。君が直接見ていないとしても、真犯人は、君が事件の見られたくない部分を目撃して、それを言いふらして真犯人にとって不都合な状態にしてしまうかもしれない、と思い込んでいる」

 稲内は、頭を押さえてしばらく考え込んだが、やがて首を振った。

「いえ……ホテルに行って……まあ、なにか盗もうと思って、裏口から入ったんですけど……そしたら開いてる扉があって……そんな扉、普段なら近づきませんけど、中がちらっと見えたんです。誰もいないから不審だと思って……そうして入ってみたら、死体があったんです」

「そして、君は通報しないで逃げた、と」

「はい……。ヘアピンは、きっとその時に落としたんでしょう。知らない人から貰ったものですから、別に、大した思い入れもなにもないんですけど……。逃げた理由は、言わなくてもわかると思いますけど」

「君は、鷹森と関わりたくないんだったな」

 稲内は、そうして俺を見た。

「肥塚さんは……どうして私を助けてくれたんですか?」

「……知らん」正直に答えた。「君のことが、気になっているだとか、そんなんじゃないよ。なんだか、放置できないんだ。放置すると……人間として何処かを間違えたような、ちぐはぐな気分になるんだ」

「殺し屋にもそんな感情、あるんですね」

「……君は、俺を騙しているんじゃないんだろうな」俺は、稲内の全身をひとつひとつ点検するみたいに眺めた。「島での扱いが悪いっていう嘘をついて、俺を味方につけようとしているんじゃないよな」

「好き好んで、あんな観光客だとか、親だとか、学校の友達に殴られていると思っていますか?」稲内は無表情で、淡々と言う。「わたしは、もう……スリしか出来ないんです。スリしか……スリが必要な人間なんです。普通に生きていても、もう何も得られないんです。わたしはそれくらい、普通の家の、満足できるような家庭環境に、いないんです。スリは昔からやってますけど……やめられないんです。ねえ……」

 稲内は、俺に抱きついた。俺はなんだか、同情も持て余してしまって、肩を抱くことも何もできなくなったので、両腕をただ自分の体からぶら下げているだけに終止した。

「肥塚さん、わたし、この島を出たい……どうしたら良いの」

 島にいても、犯人に狙われる。

 犯人をどうにかしたって、この子には、島で落ち着く場所なんてない。

 何をしても、彼女が救われる道はない。

 そう示されて、俺は自分の気持ちにようやく気づいたような気がした。

「俺は、君を救いたい」俺はこれ以上無いくらいにはっきりと、彼女に告げる。「殺し屋も、辞めたいんだ。でも……殺し以外に、俺は、君を救う手立てがあるのか……」

「わたしたち、一緒ですね……」彼女は頷く。「何処か遠くへ行きたくて、たまらない者同士ですよ」



   八話


      ■


 稲内はロジーに信頼を置いている、と話している。

 ロジーはプログレッシブロックというものをやっているミュージシャンだった。それがどういう音楽なのか、そう言った趣味がほとんどない俺にとっては、適当な想像もできなかったが、どうやら組織から証として持たされている、このジェントルジャイアントのアルバムが、そのジャンルに分類されるらしい。稲内は、俺の持っているCDを見て教えてくれた。まあ尤も、このCDは中身が別の物だが。

「ロジーさんもね」稲内は楽しげに話していた。行き場がないので、俺たちは洞窟の入り口で座っていた。「そのCDを持ってるんですよ。だから、教えてくれて。好きなんですって、ジェントルジャイアント」

「ロジーさんも?」俺は今、何か重要なことを聞いたと確信した。「そのCD、聴いたのかい?」

「いいえ、聴いてないけど……でも、売ってたら買うようにって、ロジーさんは言ってました。どんな音楽なんだろう。あとで聴かせて貰って良いですか?」

「残念だけど、中身は違うんだよ、これ」俺は言う。「殺し屋の証なんだ。組織の本部とか、情報屋と話す時とか、そう言う時にこれを提示しないと信じてもらえないんだ」

「殺し屋には免許証みたいなものは無いんですか?」

「わざわざそんな証拠が残るものを作るほど、うちの組織も馬鹿じゃないよ。まあ、過剰な面はあるけどね」俺はCDをしまう。「ロジーさんが殺し屋だったら……俺の探している人間かも知れない」

「ロジーさんが……殺し屋?」稲内は、俺を馬鹿にするように見た。「だって……あんな優しい人が?」

「彼女には、何故か殺害依頼も出ている。本国じゃ、狙われているっていう話だ。反社会的な過激な活動に与しているらしいが」

「でも……組織の殺し屋がそんな活動、表立ってすると思いますか?」時々妙なほど、稲内は物分かりが良かった。

「そうだな。だから違うと思いたいが……優しいだけの人では無いってことだよ。せめて彼女が証を持っていないっていう証明が出来れば良いけど」

「そういえばロジーさん、今日はコンサートに行くって言ってましたよ」稲内は思い出したように言う。「街に音楽堂があるでしょう? そこでプログレッシブロックのライブがあるんですって」

「こんな島で、ご苦労なことだ」

 しかし、ロジーに直接確認を取らなければ安心できない。

 あの女が、俺の探しているテレビ体験かも知れないという可能性が、少しでも残っている以上、確かめなければ安心が出来ない。

 もう組織のことなんて、実際にはどうでも良かったが、この島にいるにしろ、逃げ出すにしろテレビ体験がいては邪魔になる。

 ロジーという線が消えれば、いよいよ梶栗だけが残る。


      □


「私、気になってるんですよ」

 鷹森は、カフェで不味そうに紅茶を飲みながら、私と数土に向かってそんなことを言った。

 昼下がりのカフェは人が多いはずだったが、今日は何故だか空席が目立っていて、私たちは一秒だって待つこともなく、店内に案内されて今に至る。まるで、予約でもしていたみたいにスムーズだった。

 私は、アルナルドの死体を調べた結果を、鷹森に教え、彼女はしばらく何かを考えた後に、さっきみたいなセリフを言った。

「どうして脇田さんは殺されたのかってね」

「脇田って」数土が言う。顔に似合わずオレンジジュースをストローで飲んでいた。「最初に発見したって言う旅行者ですっけ。墜落死したっていう」

「そうそう。確か、イラストレーター? でしたっけ。それが、どうも他殺かも知れないって思って、本土に増員を寄越すように頼んだんですけど、数日ぐらい向こうの天気が悪いらしくて……本当に来る気があるんですかね」

「こんな島じゃ」私は口を挟む。「誰が殺されても、もうおかしく無いでしょ。断片化された友人に、理性的な行動も必要な仕事の選別も、もう何もできないのよ。パニックになった子供みたいなもんでしょ。全部あいつの暇つぶしよ」

「うーん、それにしては、その断片化された友人に、小井土なんて雇うような平静さがあるっていうか。何が目的でここに潜んでるんですかね」

「さあ……」私は数土を見た。彼は軽く頷いた。「本土のね、特殊捜査機関が、島に彼を、依頼と称して呼び出すことに成功した、って言うのは聞いてるけど」

「どういうダミー依頼かは、知らされていないんですか」鷹森はため息をついた。「うーん、だったらもう少し、人が死なないようにしていて欲しかったもんですけどね」

「無関係では?」数土が、話の方向をコントロールしようとした。「あの旅行者は、島にいる殺し屋とは全く無関係の事件で、事故死したか殺されたかしたのでは。アルナルドさんだって、小井土は無関係で梶栗も違ったら、もう怪しいのは支配人の千住とかマウリさんくらいですよ」

「数土さん」

 鷹森は、急に静かになったように、彼をじっと見据えた。

「この島は、いくら人が死んでいると言ってもね、同時多発的に犯罪者が蔓延るほど、治安の悪い場所では無いですよ。きっと、関係があるんです」

「根拠は?」

「無いですね。勘です」

 鷹森はそう言い切ったが、勘だと口にするにしては、なにか確証めいたものを持っているんじゃ無いかと思ってしまうくらいに、まっすぐな瞳を彼女はしていた。


      ■


 稲内のスマートフォンに、実家から連絡が入っていた。あんな家には彼女を戻したくなかったが、無視をするわけにもいかない。

 いや、そもそも、こんな境遇を彼女に強いている、稲内の両親に対して、振り翳したくて仕方がないような怒りを抱えていた。

 何かを言って、何かを変えて、そして稲内を、あの家から開放しなければ、俺の気はもう収まらない所まで来ていた。

 そうだ。開放。彼女を解き放ち、島を出るための環境を整える。それと同時に、テレビ体験にも注意し、凌ぐ。もう仕事なんかどうでも良いと思った瞬間から、組織の支援に頼るつもりはなかった。

 定期船が来るまでの間の、残り一週間、平穏に過ごせれば良い。

 大丈夫だ。話せば、いや、説き伏せれば、彼女の家族とやらも、俺と稲内が開放されたがっているというのを、真に深く理解するだろう。説得とは、社会生活とはそう言うものだ。殺しで解決できる以外の方法も、俺にだって可能なんだ。そう言い聞かせた。

 殺したジェルマンの顔が、ずっと忘れられなかったが、俺は自分をこの時、生まれた頃からのまともな人間だと思い込めていた。

 稲内の家に行くと、まず母親らしき女は、顔を見た瞬間に、稲内を拳で殴った。その瞬間に、もうこの親を説き伏せるのなんて不可能だ、とそこで悟った。

 母親は、万引き、スリ、窃盗、そんな些細な罪の名前を、稲内に浴びせ続けていた。稲内は、殴られた衝撃で倒れ込んだが、慣れているのか泣きも驚きもしなかった。彼女の掌には、地面に手をついた時に、庭の決して細かくはない砂が、突き刺さるみたいに多数付着していた。

 母親の暴言は止まらなかった。娘を、娘だと少しも思っていないようで、口からは決壊したダムぐらいの勢いで、汚い言葉が流れ出て来ていた。

 俺は止めようと声をかけた。まあ彼女の様子を見るに、そんなことは無駄だとわかっていたが、何か言おうと思っていた最初の感情を思い出して、口を開いた。

 俺は、それでも彼女を説得しようとしていた。こんな家に置いていては、稲内は不幸になる。お前は真っ当な教育をしていない。学校で疎まれているのは、お前がこんな扱いをしているからだ。お前のせいで、彼女はきっと犯罪に手を染めているんだ。お前は何をやっている。子供の責任は親が持つものだし、最も適切に躾や教育が出来るのは、親だ。そのことを、お前は放棄しているカスだ。俺たちはここを出ていく。本土で稲内は暮らす。そこまで言った。俺も口を開けば、嘘みたいに言いたいことが決壊した。

 母親は、見るからに適当な育児をしているのに、反論した。こんなふざけた娘の面倒を見るのは嫌だし、外に迷惑を掛けるから、こちらとしても消えてもらいたいのはそうだ。家に拘束しておこうとも考えたが、そうすると鷹森とかいう警官が、虐待を訝ってくるため、それも出来ない。悪いことをするなと体罰を与えても、このバカ娘には効かない。究極に腹が立つから、こうやって殴ってストレスを発散することしか出来ない。私自身もおかしくなっている。父親も態度が悪くなった。姉も家を出て行った。祖母の面倒を見ながら、お前の相手をしなければならない。最高に腹が立つ。だが、ここw出て行くことは許さない。これ以上、家に恥をかかせるな。頼むから大人しくしていろ。

 そんなようなことを母親は、俺に向かって言った。正直なところ、何を言っているのかよくわからなかった。彼女の頭は、どうも正常では無いんじゃないかと思えるような、ズレた論理展開をしていた。

 邪魔だと言うのなら……俺に任せれば良いだろう。そう言っているのに、どうして話が通じない……。

 家族や住居は、居場所になるものなんじゃないのか。その居場所が無くなったら……稲内はどうすれば良いんだ。その居場所に、俺がなってやるって言っているのに、どうして。

 だったら、作るしかない。

 俺の中で、一つ、安全装置を外すような幻聴が聞こえた。

 殺す。

 そうやって処理をしなければ、俺たちは島から……

 そこまで思い至って、なんでそんな思考になるのかを考えた。

 ああ、

 俺は……殺し屋を辞めたいと考えているのに、

 どうしてこんなにも、悲しいくらい骨の髄まで殺し屋なんだろう。


      □


 交番にある拘置所の檻の中で、小井土は胡座をかいていた。

 私と鷹森は、話し合った結果、とにかくもう少し、小井土を尋問しようというと決めたため、交番に来ていた。数土は梶栗や千住を調べると言い、左近も同じように動いているとの連絡があった。

「ファーストクラスよ」私は檻の小井土に向かって、挨拶をする。「くつろげるでしょ。胡座なんかかいちゃって」

「最悪だね」小井土は言う。薬が切れているとしたら、もっと噛みついてくるのかと思ったが、妙なほどの落ち着きを見せびらかしていた。「何よりここは時計が無い。精神病の人間を、こんなところに閉じ込めるのは、身体に障るんじゃないのか、鷹森さんよ」

「興味ないですよ」鷹森は突き放すように言った。「あなたに何かあっても、全部警視庁が人をよこさないから、で済むので、私の責任ではないですね」

「可愛い顔して薄情な女だ。俺が冤罪だったらどうする」

「銃持ってて冤罪もクソも無いでしょ」

「そうだ鷹森実はな」小井土がふんぞり返る。「薬、昨日に飲んだのが最後なんだ。もう、いい加減気が狂いそうなんだよ、鷹森。なあ、頼む。部屋から、俺の薬を取って来てくれよ。ここまで大人しくしてやっただけでも、俺は模範的だとは思うが、それすら聞いてもらえないのか?」

「ああ。そういえば、あなたの部屋もまだ調べてなかったんですよね、入宮さん。その時に、薬の件、お願い出来ますかね」

「私が? 私が調べるの?」私は嫌そうな顔をした。「爆弾でも仕掛けてあったら、どうすんの」

「大丈夫です。全ては警視庁の責任になるんで」

「安心しろよ入宮」小井土が笑う。「お前を襲撃して、次の日には帰る予定だったんだ。失敗するなんて、少しも考えなかったから、そんな仕掛けなんかするわけない」

「一応、旦那を先に行かせるわ」私は数土のことを旦那と呼ぶことに、気持ちの悪さを覚えながら言う。

「あ、そうだ」小井土が口を挟んだ。「さらについでに頼み事だ。俺の部屋にな、人が来る用事があったんだ。その子に、断っておいてくれないか」

「誰よ」

「デリヘルだよ」

 急に思いもしないような単語が出て来て、私は面食らってしまう。

「あなたねえ……殺し屋でしょ? 仕事中に女を抱くわけ?」

「だから昨日で全部終わるつもりだったって言っただろ? 最後に気晴らしくらい普通だろ。それに女を抱くと、精神が安定するんだ。良いぞ、セックスってのは」

「バカじゃないの」私は突っぱねる。「嬢には、あなたが性病にかかって入院したって言っておくわ」

「もう少しマシな理由にしろ」


      ■


 皆殺しにしてしまえば、どれだけ楽だったのか。そんな失われた未来を想像する。

 結局、俺は何も出来ずに、稲内の家を去った。稲内も、多分、俺の背中を見送っていたのかも知れないが、あの母親に、家の中へ押し込められて姿を消した。

 皆殺しを自制したって、今更まともな人間になんてなれるわけないのに、誰かに監査されているみたいに、そういうところでポイントを稼ぐような自分が嫌いだった。

 俺は行き場を無くしたが、やることが消えてなくなるわけではなかった。どのみち、俺はテレビ体験に勘づかれている以上、テレビ体験を始末するか逃げ切らなければ、安全に島を出ることも隠居することもできない。

 その正体がわかれば……。

 俺は、音楽堂に向かった。ロジーが、テレビ体験なんじゃないかという疑念があったからだった。彼女は殺し屋なのかどうかを確かめる。

 しかし、音楽堂はそれどころの騒ぎではなくなっていた。

 人だかりが、古めかしい西洋建築めいた音楽堂を取り囲んでいた。ライブが始まる前は、どこも人が溢れかえるものだということを、俺は知識として知っていたが、それとはどうも様子が違う。

 入り口には、黄色いテープ。そして取り囲む観光客、その会話と、優れない顔色。

 そんな状態から始まる音楽ライブなど、無い。

 俺は人を掻き分けて、テープの方向へ向かった。

 案の定、そこには鷹森がいた。彼女は、いつも以上に面倒くさそうな表情と、疲れ切った姿勢で立っていた。

「ああ、肥塚さん」鷹森が、俺を見つけて招く。「音楽ライブは中止ですよ」

「何があったんです?」

「はあ……いえ、ちょっと事件がね」鷹森は大きなため息を吐く。「まったく……忙しすぎて、それどころじゃ無いんですけどね。そうだ肥塚さん。手伝ってくれませんか。もう手に負えなくて。ここにね、立って、人が入らないようにして貰えば良いんで」

「それは構いませんけど、事件?」

「ええ……殺人です」

「誰が」

「ロジーさんっていう、外国人旅行者です」



 しばらく音楽堂の前で立って、人が入らないように両手を広げてガードをした。なにかのスポーツでする動きに似ていたが、俺はスポーツに関してはズブの素人だった。

 俺が立っている間、俺は殺し屋として疑っていたロジーが死んだことよりも、稲内の友人としての彼女が亡くなったという事実の方を、深刻に噛み締めていた。

 人々がついに飽きて、音楽堂を後にし始めたころ、鷹森が二階から降りて来て、音楽堂の管理人にここは任せるから、俺も現場を見てくれと言った。俺みたいな記者(偽称だが)を招くほど忙しいらしい。立っている者は親でも使うという文言を、彼女は体現している。

 ロジーの死体は、ステージのある巨大な空間の、二階のやや後ろの方に寝転がっていた。

 細い四肢、歪んだ顔……。あの時、稲内の気を使ってくれた女に間違いはないが、それを認めたくないほど、顔面の筋肉が、嫌な具合に変形しているのが目立った。

 首には、跡。索条痕と、吉川線が見え、素人目にも絞殺体ということがわかったし、俺はそもそも殺し屋だった。そんなことは、きっとこの鷹森よりも熟知しているし、実際に飽きるくらい目にしている。

「後ろから、ね」鷹森が、俺の背後に立って、言う。「紐みたいな物で絞められているんですよ。肥塚さんは、死体には?」

「慣れているわけないでしょう」俺は大袈裟に言う。「検死しろって言うんですか?」

「ああ、無理そうなら良いですよ。他の人に頼みます」鷹森があっさりと言う。「聞き込みの結果、ロジーさんと昨日会っていたのが、あなただって言う話も出てますけど、それは?」

「ええ、間違い無いですけど。でもそれは、知り合いに呼び出されて、それに付き添ってくれていたのが彼女って言うだけで、別にロジーさんと話したことは無いですよ。だって、日本語も通じなかったんで」

「ああ、そうですか」

「あの、ロジーさんの事件のことを、詳しく教えてもらっても?」

「記者根性ですか?」鷹森は笑う。「まだ記事にはしないでくださいね」

 そう言うと鷹森は、特に抵抗も無く、事件のあらましを俺に伝えた。

 まあさほど複雑な事件でもなかった。ロジーは客としてライブを観に来ていた。そのことは、主催者にも伝えてあったが、ロジーはそれなりに名のあるミュージシャンだった。開演前に、客の一人がロジーを見つけて、大きめの騒ぎを起こした。それを収束させようと、主催者はロジーを連れ出し、それなりの変装をさせた後、二階の人の少ない席に案内した。たまたま、この辺りしか空いていなかったことから、席は決定されたんだと主催者は語っていた。

 二階の、ステージから見て右の後方だった。この階へ上がるには、左側からの階段を登る必要があり、この階段は音楽堂を入って、ステージ一階を通らずに、裏から直接向かうことができる。

 犯人はおそらく、客に紛れていると推測されたが、今日のライブは盛況だったらしく、その絞り込みには、かなりの労力が費やされることだろう、と鷹森は死にそうな顔をしながら言った。

 動機は不明だった。まあ元々、彼女に殺害依頼が出ていることを俺は知っているが、音楽堂は暗く、後ろ姿では彼女かどうかもわからない。それにロジーが何処にいるのかは、前述の通り、主催者の気遣いによって伏せられていたので、事前にはわかるはずもない。ロジー狙いの殺しだとするには、不確定な要素が多すぎることから、鷹森は無差別だと踏んでいる、と俺には自信満々に話した。

 俺はもちろん、そんな話を少しも信じはしなかったが、そうでなければ、犯人はどうやってロジーの場所を突き止めて殺したのか、その方法はわからなかった。そもそもの話だ、ロジーが音楽堂に来ることを知っていた人間など殆どいないだろう。稲内だけなのかも知れない。

 思えば、また俺は依頼を先回りされて、ターゲットを殺されている。それが梶栗なのか、テレビ体験なのか、どうなのか……。

 一人の女が、現場に現れる。

 ジョアンナ。ふらふらと彼女は、ロジーだったものに近づき、そしてへたり込んだ。

 それから、泣くかと思ったが、大声で喚き始めた。

「――!」外国語だった。何語かは知らない。「――! ……――!」

 解読できないが、さほど複雑な文法も単語もない。彼女が口にしているのは、ロジーの名前が大半だった。

 誰かに、怒りをぶつけるように。

 それから現場検証と、何故か俺への取り調べが終わると開放された。

 俺は外に出ると、また人が集まっていることに気がつく。

 彼らの様子が、先ほどとは全く変わっている。なにかに怯えるような、恐怖から逃れるために身を寄せ合うような、小動物みたいな印象を俺は受けた。

 ジョアンナは人々に手当たり次第に、日本語で話しかけていた。きっと、ジョアンナに感化されて、人がおかしくなっているんだろう。

 俺は耳を澄ませて、ジョアンナの口にしていることを聞いた。

「ロジーは犯罪組織に殺されたの! この島は、犯罪組織の存在を庇ってる! 鷹森もその一人よ! 犯罪組織の、仕事の温床になっているの! 気を付けて、みんな! ああ! ロジー! 可哀想に!」



   九話


      □


 男の悲鳴を聞いたのは、昼に私がロビーに降りて来て、少しした頃だった。

 盛藤と雑談のような話をしている時に、鶏を殺したみたいな絞り出した声がロビーの方まで聞こえて来た。私と盛藤、そして隣りにいた数土は、思わず顔を見合わせる。

 ロビーに、客はまばらだった。昨日から、いつもと比べて、客の様子がおかしいと、私のみならず、数土や鷹森もそう感じていた。考えられる原因の一つには、あのアルナルド殺人事件のことを、不必要に外に漏らしている事件関係者がいる、と想定された。

 それだけでは無く、殺人事件以外にも、我が犯罪組織の関与が一般にも明るみに出ていて、観光客はその巨大な闇を、自分に振り上げられた斧みたいに、必要以上に恐れてしまっているみたいだった。

 そんな時に、先ほどの悲鳴が聞こえてくると、恐怖心を刺激された決して多くはなかった観光客は、大慌てで部屋へ引っ込むように消えた。逃げる鼠だ、と私は鼻で笑う。

「……洗濯室、の方ですね」盛藤が自分の肩を抱きながら、私と数土に言う。「確か、千住さん、洗濯作業するって言ってたんで……」

 私と数土は頷いて、指し示された方に伸びている廊下を、慎重に進んだ。

 廊下は、観光客が寄りつかない様に、薄暗い。その先、突き当たりには非常口の鉄製の扉があって、半開きになりながら、その状態で静止していた。

 非常口の手前、左側の壁が途切れている。そこが洗濯室だろう。扉は無かったが、前に貼っているプレートにはそう書いてあるし、洗濯機が稼働する無機質な音が、そこから私の耳にまで届いていた。

 私は遠慮もしないで、中を覗く。

「千住?」

 千住は、頭を抱えてうずくまっていた。

 その床には洗剤や、更には包丁が転がっていた。

「何があった」数土が恐る恐る覗き込んで、訊いた。

「だ、誰かが、後ろから……」千住は震えながら言った。「後ろに立ってて……俺、振り返って……包丁を構えたら、逃げて行きましたけど……」

「あなた、包丁を持ち歩く趣味があるの?」私は尋ねた。「顔は見た?」

「包丁は、護身用ですよ……だって、怖いんですよ、遺跡で銃撃されてから……。顔は、見てません。廊下、暗いですから……」

 梶栗だろうか、と私は予想を立てた。

 千住は梶栗を目撃して、それを気にした梶栗が彼を消そうとしている。そういうことなら、梶栗の事情もわかるが、こんな所で殺そうとするのは、些か雑な仕事だろうと私は思った。人のことは言えないが。

「とにかく、部屋に戻って」私は、千住を助け起こした。「鍵をかけて、あとは全部、盛藤さんに任せて、布団でも被ってじっとしてなさい。犯人は鷹森が捕まえてくれるわ」

「鷹森なんか、期待できません。あいつ、やる気がないんですよ……俺が殺されようと、きっとどうでも良いんだ……」

「なら、尚更じっとしておくことね」

 しかし千住は首を振った。

「い、嫌です……俺は支配人なんだ。ここでその地位を、手放したくない。支配人になるために、どれだけ苦労したのか、入宮さん、わかりますか? ここが、俺の城なんです。辞めるわけにはいかない……」

「支配人の地位なんか誰が狙うのよ。ラウンジのダーツで褒められるほうが、まだ価値があるわよ」

 私は居座ろうとする千住を、無理矢理にホテルから連れ出した。ホテルにいては、この男は変な意地を張って、仕事をし続けて、それから梶栗に狙われて、また包丁まで振り回すのかも知れなかった。それは、私にとっては余計な心労だろう。鷹森も私も、そんな面倒は望んでいない。

 千住は結局、鷹森の交番の空いている部屋に押し込められた。鷹森は留守にすることが多いが、それでも普通の民家よりは、ずっと防犯機能に優れていた。交番には鷹森はいなかったが、スマートフォンで連絡をすると、彼女は千住を匿うことに了承した。

 ホテルに戻ると、さっき探していた当の鷹森が来ていた。数土と一緒に、事情聴取を行っている所らしく、何故か私の部屋を勝手に使っていた。数土は、なんで自分の部屋を使わないのか、少し腹が立って来た。

 呼び出されていたのは、ジョアンナと、ジェルマンだった。ジェルマンは現場でアルナルドの死体まで見ているかはわかるとして、ジョアンナはどうした理由なのか。アルナルドの妻であるマウリツィアがいないことも気になった。

 ジョアンナは深刻そうな顔で、椅子に座っていた。私がよく使っている椅子だった。ジェルマンは、私のベッドに腰掛けていた。数土は壁際に立ち、鷹森は中央でジェルマンを見下ろして立っていた。私は居場所が無く、仕方なく数土の隣に立った。

「なんとかならないんですか……?」口を開いたのはジョアンナだった。何があったのか、千住みたいにぶるぶると震えている。「みんな……怖いって言ってます」

「デマですよ」鷹森はキッパリと、面倒くさそうに言った。「犯罪組織が入り込んでるだとか、殺し屋が起こした殺人事件だとか、全部デマですよ。犯罪組織なんか、島には入り込んでません」

 鷹森は、観光客に変な噂が広まっていることを気にして、それを打ち消そうという方向に持って行きたいらしかった。

 しかし、ジェルマンもそれを否定した。

「おかしいですよ。だってあれは……殺し屋でしか無いでしょう。犯罪組織が、関与しているとしか考えられません。全く……おちおち遺跡も調べられませんよ」

「そう言えばジェルマンさん」鷹森は尋ねる。「遺跡へは、やっぱり観光ですか? アルナルドさんの死体を見つけた時も?」

「ええ……考古学が好きで。でも、その時は千住さんと一緒で、呼び出されたんです。確か役場から、今日の何時に、遺跡のどこそこを調べて欲しいって言う連絡でした。まさかそれがあの殺し屋だったとは、思いませんでした。俺、役場や図書館にはよく出入りしていたし、職員さんとも話していましたから、そういう依頼が向こうから来ることも、不思議には思いませんでした」

「役場や図書館へは、遺跡を調べに?」

「ええ……なんか、不審だと思ったんです」

「不審?」お前の方が不審だ、と言いたげな目を鷹森はした。

「あの遺跡、新すぎるんですよ」

 そこで数土は私に耳打ちをする。

(あの男、気づくぞ。遺跡は組織がでっち上げたものだ)

(組織って歴史を作るほど巨大だったの?)

(違う。お前は何も知らないんだな。組織がこの島にどれだけ出資しているのか。そこまで言えばわかるだろう)

(遺跡を作ってどうすんのよ)

(リゾート地にはそう言うのが必要なんだよ)

 確かに私は何も知らなかった。組織がどれだけこの島に関与しているのかを。

 そうか。だからここで死体処理がよく行われるのか、と私は今更合点が行ったような気分になった。

 なら、こんな奴らに勘付かれ始めているうちの組織なんて、もう未来はないんだって、私は改めてそう思った。



 鷹森は私の部屋を出て、一階に降りてマウリツィア(というかアルナルドとの相部屋)に向かったので、私はそれに着いて行った。鷹森が、そうして欲しいような顔をしていたのを、何処となく感じ取ったからだった。

 部屋にはマウリと、不躾にも記者、肥塚が入り込んでいた。なんだこの男はと私は軽蔑する。記事にでもして、私腹を肥そうとしているのだろう。

 鷹森はマウリに、アルナルドがいつ頃いなくなったのか、それと、彼を殺した人物に心当たりはあるのかを尋ねた。

 すると、マウリは意外なほどにはっきりと、口にする。

「きっと、犯罪組織です。島に入り込んでるって言う話を、聞きました」

「……悪質なデマですって」

「でも、夫が殺される理由なんて、そのくらいしかありません」

「なにか、そういう裏社会に通じていたんですか?」

「さあ……私には何も教えてくれませんでしたから」マウリは、自分の服の裾を強く握った。「でも、だからって、恨みを買うような人物ではありませんでした。確かに私とは、微妙な関係ですけど、でも殺されるだなんて……」

「一般人に恨まれることはあり得ない。だから犯罪組織の標的にされた、と言いたいんですね。そういうのは、思い込みの場合が強いですけど」

「だって、それ以外に信じられなくて」

 鷹森は、私に向いた。

「入宮さん、犯罪組織が標的にする人物っていうのはどういう?」

「悪人よ」私ははっきり告げた。「人に恨まれて、殺害依頼を流されるなんてのは、悪人だけだもの」

「じゃあ、ある良い人の存在が気に入らなくて、その人を悪人ってういことにして、殺し屋に殺害依頼を出した場合はどうなるんです?」

「それは……そんなややこしい状況のことなんか、知らないわよ」

 私は、もちろんその可能性も意識にはあったが、それを考えてしまうと、自分のやっていることが、本当に非道な行為だと確定してしまう気がして、疑いを先送りにしていた。

 私は殺していたのは悪人だ。間違いないんだ。

 だけど、本当に? 組織のことを、そこまで信頼していないのに?

「夫のことは……」マウリが、私が考え込んでいる間に、話し始めていた。「確かに恨んでいました。私に対する扱いが、気に入らなかったという点は、間違いありません」

「言い争いの声がね」そう言ったのは、記者の肥塚だった。彼はマウリの身の回りを調べているのか、彼女に関するメモを作成していた。多分、今まであった人間全員分のメモがあるのかも知れない。「聞こえてきたって話ですよ。それも一日じゃなくて、連日。微妙ではなくて、相当仲が悪いと思うんですけど」

「それで殺すですって? 殺しなんて言うのは、社会性を失った人が取る手段です。私は、自分が常識的であるつもりです。殺しなんてふざけた手段を取るほど、夫のことを憎んでいるわけではありませんし、冷静さを欠いたこともありません」

「えーっと、そういえば」鷹森は申し訳無さそうに喋った。「私と、入宮さんとで、あなたに会ったことがありましたね。砂浜で。あの時に話してくれたような扱いは、日常だったんですか?」

「……日常ですけど、でも、殺すほどではありません」マウリのその目は、毅然としていた。「肥塚さんこそ、犯罪組織のことは、なにも調べられてないから、私なんかの調査をやってるんじゃないんですか」

「何も進んでいないのは本当ですけど」肥塚はむっとする。「当てつけみたいにあなたの事件を調べてるわけじゃありませんよ。俺の第一は、犯罪組織が明るみに出ることです。その繋がりとして、アルナルドさん殺人事件が臭いと思い、その重要参考人であるあなたを調べている。あなただって、夫は犯罪組織が殺したんだと思っていますよね? なら、俺のやっている方法は、何も間違いじゃないことはわかるでしょう。アルナルドさんを掘ると、犯罪組織に行き当たるんですよ」

「……えっと、マウリさん」鷹森は話を戻した。「あなたの、アルナルドさんが殺された日の行動は、どういった感じですかね」

「別に……一人でいましたけど。一人で街を歩いて……それから公園などに行って、それだけです。知り合いも居ませんし、あの日は誰とも会っていませんから、証明は出来ませんけど、それは本当です。遺跡になんて、近づいてないんです」

 マウリは両手を合わせて、嘆願するように鷹森を見据えていた。

 目に、涙まで浮かべるような勢いだった。

 そこで急に、私に電話が掛かってきた。舌打ちをして、私は画面を確認すると、表示されていたのは数土の名前だった。私は電話を持ち上げて、おもむろに耳に当てた。

「はい。留守よ」

『おい、大変だ』数土は私の軽口を無視して言った。『今、報告でもしようとして、交番へ戻ってきたんだ。そしたら……』

 ――その先に続く言葉を、

 私は何処か、予想とも願望ともつかないレベルで、頭に思い描いていた気がした。

『小井土が死んでいるんだ……』



 拘置所の牢屋の、檻の向こう。

 最近まで生きて、私とくだらない話もして、その前は後輩を心配したり愚痴を言ったり、デリヘル嬢を呼び出して抱こうとしたり、薬が切れて他人に噛みついたり、私を銃撃したり、私に制圧されたり……。

 それだけの情報量を持って、私と同じ時代に生きた殺し屋が、あっけなく死んでいた。

 近づかないでも、その表情でわかった。苦悶だ。そうとしか表現できない顔を、檻の中からこちらに向けていた。身体は、壁にもたれかかっていた。外傷は、何処にもなかった。

 マネキンなんじゃないかって思うほど静かだったが、死体を作ることに慣れている私にとって、死んだ人間が、こんな風に朽ちた木片みたいになるってことは、箸の持ち方よりもずっと身近で常識だった。

「誰が……」鷹森はそう言いながら、床にへたり込んだ。「……もう疲れた」

「鷹森、大丈夫?」

「……こんなの私だけでどうしろって言うのよ!」鷹森は帽子を投げ捨てて、頭を掻き始めた。「ふざけやがって、本土の連中……絶対辞めてやる、こんな島も、人も、警察も、みんな嫌いよ、辞めてやる!」

「落ち着いて下さい」数土が呆れたように言った。「私たちも協力しますから……」

 鷹森は、渋々立ち上がったが床に落ちていた帽子を蹴り飛ばして、長い髪を乱したまま、ため息をついた。

「……しょうがないですね……警視庁の奴らが到着したら、もう絶対辞めてやるんだから……」鷹森は言いながら、檻に手をかけた。が、開かなかった。「鍵がかかってますね。当然か。私が持ってますものね」

「じゃあ……」私は少しも思ってもないことを言う。「まだ息があるんじゃないの。あなた、我が夫、ちゃんと確認した?」

「施錠されているから、近づいて確かめたわけではないが、俺の判断が間違っていると思うか?」数土は、死体処理業者としてそう言っている。確かに、疑う要素はない。

 鷹森は鍵を開けて中に入った。そうしてから小井土の肩を蹴ると、彼はそのまま、まっすぐ床に崩れ落ちた。

「……死んでますね」鷹森がぶっきらぼうに言った。「確認した通り、施錠はされていました。これは密室殺人ってことで良いですね」

「いや」数土が口を挟んだ。「そんな複雑なもんじゃないでしょう。外傷は無い。死因は限られます」

「なら」私は手を挙げた。「病気で死んだってこと?」

「それも否定は出来ないな。けれど考えられるのは……」

「毒、ですか」鷹森が、不満そうに言った。「だったら昨日今日と食事を運んでいた私を疑ってるってことですか、旦那さん」

「可能性の話です。今の段階では、なんとも言えませんよ」数土は小井土の死体を掴んで、元の姿勢に戻した。「本土の警察が来れば、たちどころに判明するでしょうがね。どうします? 病院に運びますか」

「それはそうしますけど」鷹森は腕を組んだ。「もっと早くに。こいつのことをきちんと調べるべきだったんですよ。この男が口にしていた物の中で、最も怪しい物があるじゃないですか」

 あ、と私は声に出した。

「薬ね……」

「そうです入宮さん。この男の部屋を調べてみましょう。警視庁の奴らなんか、待ってられないですよ」



 私と数土、そして鷹森は道を歩いている。街から、いくつかのカーブを重ねた果てにホテルへ向かう、田舎臭い道路だった。車道は無く、人間が通るためだけに舗装された贅沢な道だった。

「あ、そうだ」私は、前を歩く二人に声をかける。「部屋の酒が切れたのよ。ちょっと買って帰るから先に行っててくれない?」

「は?」数土は舌打ちを私に聞こえるように漏らした。「何を言ってるんだ」

「ああ、大事ですよね」鷹森が私に同意した。「私もお酒好きなんで、酒が切れて手が震えるっていう人の気持はわかるんですよ」

「あなた小井土の死体を持っていくついでに診察すべきよ」

 数土と鷹森は、道の先に消えた。

 私はそこで、ため息を付きながら振り返った。

 さっきから、私達を尾行している不審者がいることには気づいていた。数土や鷹森は、そんなことを考えもしなかったのか、何も言わなかった。おそらく、不審者の狙いは私だろう。数土なんかがいたら、足手まといにしかならないと思った。

 南国ぶった木が数本、道に沿って生えていて、太陽の光を遮って影を落としていた。あとは岩でできた丘みたいなものばかりがあった。なんて面白みのない道路だ、と私は思っていると、

 木の影から、相手が姿を表した。

 その手には、包丁。

「あなたも殺し屋だったのなら、教えてくれれば良かったのに」私は笑った。「殺し屋同士で合コンでも開きましょうよ。組織に目をつけられるけど」

「入宮さん……」

 盛藤だった。ホテル従業員だと思っていた、盛藤。

「あなたがテレビ体験っていう殺し屋だってことは、知っています……依頼されて、あなたを殺さないといけないんです」

「あなたは、うちの組織じゃないわね。裏切ってうちに来る? 私、もう辞めるけど」

「そうです、別の組織です」盛藤は構えた包丁を下ろさなかった。「殺し屋として……長いわけじゃありません。正直、あなたほどの人間に勝てるとは思ってません……捨て駒なんじゃないかって、思っていますけど、それが私の仕事です」

「ホテルの従業員としてやっていけるわよ、あなた。隠れて煙草さえ吸わなかったらね」

「従業員やって、つくづく向いてないなって、思いました」盛藤は、へらへらと誤魔化すように笑った。包丁の先が、震えていた。「結局、私は殺し屋以外なんにもなかったんです。殺し屋なんて嫌だって思いながら……一緒ですよ、入宮さんと」

「一緒にするな。私は殺し屋に未練なんか無いわ。時期が来れば、スパッと辞められるわよ」

「そうして、あなたみたいな変人が、社会に溶け込めるって? うちの組織はですね、結構辞めるも入るも自由に近いんですけど、殺し屋なんてやる人間は、他にできることが無い人間なんですよね」

「あなた、喧嘩売りに来てるの?」

「断片化された友人に雇われたんです」盛藤は説明する。「左近は私のことに何も気づいて無いみたいですけど、左近とセットで雇われました。依頼内容は、テレビ体験の始末。それだけです。でも……無理だってわかってたんですよ。あのテレビ体験ですよ? 左近の奴、無理だってわかってたのに一人で突っ込んで、今じゃあなたの手下になってるじゃないですか。羨ましいです。そんな、愚かな生き方……」

「そうやって正面から包丁を向けるのも、十分愚かよ。不意打ちでもすれば良かったのに、そんな度胸も無かったわけ? 今から考え直したら? そうだわ。何も見なかったことにしてあげるから、そのままホテルに戻って、従業員に戻りなさいよ」

「………………もう戻れないんですよ、私達殺し屋は。あんなホテルの従業員になんか、なれないんです」

「なら、あなたは人を殺したくてたまらない狂人なの?」

「いいえ、そうでもないんです」盛藤は、困ったような顔を見せた。「殺したいわけでもない……なにがしたいんだろ、私…………千住が休養に入って、私に責任がのしかかってきて……それでやっぱり従業員なんか無理だって思ったんです。私を私たらしめるのは……やっぱり殺し屋なんですよ。他に……私はなにからも肯定されないんです。だから思い出したように、依頼をさっさとこなそうと思って……入宮さん、あなたなら、そんな気持ち、わかってくれますよね?」

「……まあ、わかるわ」

「なら……死んでくれますよね、入宮さん。報酬で、私は……人から離れて暮らしたいんです。死んでください、入宮さん……」

 そう口にする割に、盛藤の包丁は、一向に私の心臓に向かって、磁石みたいに飛び込んでくる気配はなく、ただただずっと、小刻みに太陽光を反射しているだけの、飾り物に成り下がっていた。

 私は、一歩踏み出す。

 動揺。

 盛藤は、気圧されて、私から距離を取ろうとする。

 圧倒的に有利なのは、お前の方なのに。

 腕を伸ばして、

 指先で刃を掴んだ。

 呆気ないほどに、私の指の力によって、包丁は震えを止めた。

「あなた、殺意ぐらい捻出しないと失礼でしょ。なにかしてもらったら、ありがとうって思うでしょ? それと同じよ」

「なにをわけのわからないことを……」盛藤は、包丁を引っ張ろうとするが、不用意な動きで私に隙を作ることを嫌った。「離してください。私は……あなたを殺して、それで、報酬を貰って……それで、授業員なんか辞めて、それで、殺し屋も辞めて、それで……えっと、なにがしたいんだっけ」

「職業診断なら良いサイトを知ってるけど」

「診断……?」

「そうよ。自分に適した職業を」

 言いながら空いてる手で盛藤の顔を殴った。

 盛藤は倒れ込んで、殴られた顔を押さえていた。

 包丁は私。

「診断してくれる人類の叡智よ」

「……………………痛い」盛藤は蹲っていた。動けないでいる。「すみません…………すみません……もう、ふざけたことはしません…………出来心で、そんな依頼を受けて…………すみません、見逃してください……私、この業界でしか生きていけないと思ったから、自分にも殺しが出来ると思って……」

「あなた、素人?」

「まだ殺したことはありません…………手伝いをしたくらいで……」

「人なんて、できれば殺すもんじゃないわ」

「綺麗事、ですか? 手を汚してない状態が、良いって言うんですか? あなたほどの人が……」

「いえ、処理がめんどくさいからよ」



   十話


      □


「ごめんなさいね」

 私はわざとらしく、本当に買い込んできた酒を片手に、ホテルの私の部屋にいる数土と鷹森に言った。

 あの後、盛藤は私の前から去った。とぼとぼと俯きながら、ホテルとは反対の、街の方へ戻ったから、こっちへは来ていないことはわかっていたが、それでもロビーで彼女の姿を探してしまった。今、このホテルは千住もいなくなり、名前も知らない従業員たちが切り盛りしているが、大丈夫なんだろうか。

 小井土の部屋を調べる許可は、鷹森が交番を出る際に、千住に話を通していた。彼は、部屋は重要そうだから施錠をしているが、その鍵はマスターキーで開くと説明した。マスターキーは彼が持っていたが、そんな大事そうな物を持ったまま交番に引き篭もるつもりだったのだろうか。

 私たち三人は、小井土の部屋へ向かい、鷹森がまず、中を大まかに確認した。梶栗がいないのを確かめたらしかったが、こんな部屋に隠れられる場所なんて、そうあるものでもない。ユニットバスと、ベッドの下を調べただけで鷹森は私たちを招いた。

「さて」私は、ざっと部屋を見回してぽつりと言った。「知り合いの部屋がこんな感じよ。そいつ、片付けが出来ないで有名なの」

 部屋は、多くゴミが散乱していた。小井土も梶栗も、そう言った整理整頓に対してなんの頓着も持ち合わせていなかったのだろう。そのくせに、帰る準備だけはきっちりとしており、服や私物などは、必要なものを除いて、スーツケースに押し込められていた。

 ゴミが多いというのに、灰皿が片付いているのが、変な印象だった。煙草の臭いもしない。この部屋にはあんまり滞在していなかったのだろうか。

「鷹森さん」数土は腕を組んで尋ねた。「部屋は、その、片付けない方が良いですか」

「まあそうですね。本土の奴らに何言われるかわかんないんで、所持品の確認だけで」

 それから私と数土は、部屋の状態を保ったまま、部屋にある物たちの判別作業に時間を費やした。鷹森は、私たちがおかしなことをしないように見張っていた。作業中の囚人と看守みたいだと私は思った。

「おっと、見てくれ」数土が私を呼ぶ。スーツケースの中、その奥の方に、何かがあるらしい。「銃弾だ。こんなに潤沢に」

 数土は、箱に入った弾を私に見せた。銃を見慣れていないが、恐らくは小井土の持っていた拳銃に装填出来る種類だろう。

「なんでこんなにあるのよ。断片化された友人ってのは、そんなに金を持ってるわけ?」私は、自分が仕事の時は銃なんか、それもこんなにも多くの予備弾を支給されることなんか絶対にないことを思い出して言う。

「今回のために、入念な準備をしているらしいな……きっと、お前のような、特殊捜査官でも恐れているんだろう」

「でもこんなに弾があるってことは、アルナルドさんをわざわざ杭で殺す理由なんかないんじゃないの。やっぱり小井土は潔白なのよ」

「さあどうだかな……判断するのは早計だろう。なにか理由があったか……」

「小井土って、組織内ではどうなの?」

「そうだな……」数土は、暇そうにユニットバスを調べている鷹森を、横目で気にしながら、小声で答えた。「男性用理髪店というコードネームの、中堅殺し屋だ。歴としては、お前より浅いが、年齢はあまり変わらないだろうな。依頼の成功率は比較的高く、細々しい計画殺人や自殺への偽装より、単純にナイフ一本で人を刺し殺す技術に長けているため、俺達処理屋の良い得意先と言っても過言ではないな。俺も、あいつの死体処理をしたことがあるが、まあ見事なもんだ。急所を一突き。それ以外に外傷もないんだ。お前とは大違いだと思ったよ。お前は絞殺だとしても腕は折るは顔は殴るは胃液は吐かせるわで……」

「でも成功率は百パーセントよ」

「半分は失敗してるようなもんだ」数土は私の悪口を楽しそうに言った。「小井土は、あの日に遺跡に行くことを決めていたようだな。えっと、お前はメールで呼び出されたんだよな」

「組織の捨てアドレスだと思ったのよ。よくやる手口でしょ。まさか小井土だとは思わなかったけど」

「すべてを終わらせる日と時間を、あの男は決めていた……だからデリヘルもあらかじめ呼んでいたのか。神経質な面も見受けられるが、まあ見た目よりも、ずっときっちりした男だったようだな。妙なほど時間を気にしていた理由は、それだったんだろう」

 思えば、小井土は最初私に会ったときも時間を気にしていた。あの時点から私を殺す計画を練って、実行する日取りを決めていたとするなら、どの段階で私が、断片化された友人を殺しに来た殺し屋だと、あいつらに露呈したのだろうか。

 小井土が死んだ今、梶栗を見つけないことには、その謎も砂漠で落としたコンタクトレンズみたいに、永久に失われてしまうんだろう。

 数土はしばらくしてから、小井土の薬を見つけた、と私に報告した。何処にあるのよ、と思って彼の手を覗き込むと、フランスパンの中に、仕切りがいくつか作られていて、そこに薬が数粒、仕切りごとに入れられていた。

「なんでフランスパンの中に?」私は驚いて尋ねた。じっと、驚きもしないで持っている数土の頭のほうが、ついにおかしくなったんじゃないかと思ったくらいだった。

「よく見ろ。これはピルケースだ。プラスチック製で、本当のパンじゃない。触ってみればわかるだろ。で、中を開けると、あいつの飲んでいたであろう薬が現れた。きっちりと仕切りに分けて入れてあることから、ひとつひとつの仕切りが、一回分なんだろう。食後か、食前か、就寝前かは知らんがな」

「聞いた感じだと、梶栗が用意してたみたいだけど、なんでそんな悪趣味なケースなの?」

「知るか。小井土か梶栗の趣味だろ」数土は薬を確かめる。「もしかすれば、ここに遅効性の毒を入れておいたんだろうか……」

「なら、梶栗が殺したってこと?」

「…………それか、自殺」

 自殺……。

 あの小井土が自殺を選択するのか、と疑念を持ったが、彼が精神的に不安定なところを、私は何度かほとんど無理矢理に見せられていた。

「組織には、そういう遅効性の毒薬もある」数土は顎に手を当てる。「いろいろとタイプはあるが、大抵はこういった錠剤か、水に溶けやすいような顆粒かといったところだ。組織に申請すれば、簡単に支給される。効果から逆算すると……襲撃の日の朝に飲んでおけば、あの時間に効いてきて死ぬってわけだ。組織の提供する毒物くらいは、お前だって知っているだろうがな」

「あいにく毒を飲ませるより殴ったほうが早かったもんで、毒なんかよく知らないわね」

 その時、入り口の方で物音がした。

 不意に、ごく当たり前のように、一人の男が入ってきて、それから私達と目があった。

「あ」

 そう漏らした男――梶栗は目を丸くしていた。

「な、なんでこんな所にいるんだ!」

「あなたねえ……」私は舌打ちをしつつ、梶栗に詰め寄った。「こっちが必死に探してるんだから、もっと風情のある捕まり方をしなさいよ、ボケナス」



 鷹森はあっさりと捕まった梶栗を、交番に不満そうな顔をしながら連行した。それはもう、手錠をかけられた梶栗本人よりも、ずっと煮えきらない表情を浮かべて、腰の拳銃で梶栗を撃ち殺すんじゃないかという勢いすら、彼女にはあった。

 交番にある檻、小井土が留置されていた隣の檻に梶栗は入れられた。梶栗は諦めたのか、抵抗する素振りも見せなかった。鷹森は彼を見ながら、こっちの檻は古くて汚いことを告げた。

 鉄格子を間に挟んで、鷹森は梶栗を尋問した。小井土との関係や、アルナルド殺人、さらには殺し屋組織のことも。

 けれど、梶栗という男は、私達が思っている以上に、事件やその他のことについて、何も知らされていなかったらしく、何を聞いても首を横に振るだけで黙り込んだ。事件や組織については、なんなら鷹森のほうが詳しいくらいだった。可愛そうになるくらい、彼は何も知らなかったようだった。

 梶栗は、小井土が死んだことすら把握しておらず、鷹森から小井土を殺した疑いを掛けられた時には、目を丸くして驚いていたが、やがて嬉しそうに笑って、風が発生するほどの勢いで首を振った。それは俺じゃない、しかし感謝したい。なにせ小井土は気に入らないクソみたいな先輩だった、と彼は口にした。

 やがて煮詰まってきた鷹森が、私達に尋問を交代しろと言って、千住の様子を見に消えた。私と数土は渋々、断片化された友人について知っていることを話せ、と梶栗を脅した。小井土と同じようにお前も依頼されて来ているんだろう、とも付け加えた。

「知りませんよ、そんな人。いや、嘘じゃなくて……本当に、何も知らないんです。確かに、俺も殺し屋の一員ですよ? 新人ですけど。でも今回は、小井土さん……まあ男性用理髪店さんって呼んでましたけど、その人が着いて来いっていうから、従っていただけなんですよ。組織の決まりで、勝手に顔を合わせちゃいけないって、よく言われてるのに、あの先輩、そもそも俺を合コンに連れ出すし、正直、真面目に殺し屋やろうとしていた自分が、バカバカしくなってきましたよ。あの人に着いて行くと、いつも下らない世話をさせられて、自分が仕事をする所をちゃんと見ておけって、ずっとうるさくて……それで俺、まだ一人も殺したこと無いんですよ、お笑いでしょ? 依頼をこなす時間がなくて。ああ、でももういなくなったから、自由なのか。って、檻の中でいう台詞でもないですけど」

「ふん……滑稽ね。芸人のほうが向いてるんじゃないの?」

「殺し屋になろうっていうくらいだから、他の道なんかなかったことくらい、あなたにはわかるでしょう? テレビ体験さん」梶栗はそう言って、目を輝かせた。「それはそうと、俺、あなたのファンなんですよ。業界でその噂は聞いています。腕力で全てを解決する剛力の殺し屋がいるらしいってね。まさかそれが、こんな綺麗な女性だったなんて」

「へえ。あなたいい子ね。じゃあ素手での人の殺し方を教えてあげるわ。あなた自身の身体を使ってね」

「怖いなあ」梶栗は照れるように頭を掻いた。「だから組織に疎まれているんですよね、あなた」

「……誰が疎まれてるって?」

「テレビ体験。あなたですよ。断片化された友人っていうのが、小井土先輩を使ってあなたを消そうとしている理由もわかりましたよ。あなたは、組織に嫌われているから、処理されようとしているんです」

「逆よ。私は組織に重宝されているの。だから、断片化された友人を、消す依頼が私直接の指名で来たわけ。あの殺し屋を潰せるのは私しかいないってね」

「それこそ逆でしょう。その証拠は?」

「証拠?」

「あんた、組織に騙されてここに飛ばされて、処分されようとしている、っていう可能性を、否定できるんですか?」

「そんなの……」

 無かった。

 言われて、急に恐ろしい気持ちが、私の胸中から沈まない野菜みたいに浮き上がってくるのを感じて、呼吸が苦しくなってくる。

 まさか、組織が……。

「そんなわけないだろう」と数土。「断片化された友人を消すことは、組織全体の総意だ。あの殺し屋を消すためなら、このテレビ体験をあてがうことくらいは、不思議な人選でないことくらいは、新人のお前にだってわかるだろう」

「そうは言っても……その断片って人が何をやったんです? どうしてそこまで嫌われてるんですか? 合コンでも開いたんですか?」

「それは機密だ。テレビ体験にも教えられていないし、俺も知らない。知る必要はない。理由などどうでもいいだろう。断片を消す理由の正当性を、お前の善悪で判断したいんだろうが、殺し屋組織では、そんなのは些細なことだ。組織が消したいと言えば消す、それだけだ」

「理由がわからないと、組織があなたを騙してるかもわからないでしょう。ねえ、テレビ体験」

「……そうだけど」

 私の電話が鳴った。救われたような気持ちになりながら、応答する。

『あ、入宮さん』鷹森だった。『今ちょっと外に出てて』

「いつの間に? 千住と遊んでたんじゃないの?」

『えっと、通報があってすぐ飛び出してきたんですけど』

「どうしたの、また殺しじゃないでしょうね。病院の死体安置所がパンクするんじゃないの?」

『いえ、殺しじゃなくて、万引きなんですよ。でもちょっと手が足りなくて』



 広場に行くと、鷹森が一人の女の子の腕を掴んで取り押さえていた。

 万引き犯相手にそこまでやるのかと思ったけれど、私の感覚というのは、よく考えれば殺人という重罪で根本的に麻痺しているが、万引きだってこのくらいされるほどに、立派な犯罪には違いはなかった。

 奇妙なのは、その少女を囲っている観光客数名の存在だった。

 彼らは仕切りに、彼女は万引きなどしない、何かの間違いだと主張していた。当然、鷹森にはなにか根拠があるらしく、そんな妄言なんて小指の爪の先ほども聞いてはいなかった。

 鷹森は私に気づくと、喜んだ顔を浮かべてから、私に一方的なまでに少女を押し付けて、店の方に事情聴取に行った。私は断る時間もなく、とりあえず少女の手首を掴んでベンチに二人で座った。その間も、観光客は私達の周辺に立っていた。

 少女の顔を見る。見覚えがあった。

「あなた、港で荒稼ぎしてたわよね、カラオケで」

「荒稼ぎって……」少女は私みたいな馬鹿な大人の相手なんて慣れているらしく、適当に聞き流した。「ストリートミュージシャンって、いるんでしょ? 本土には。そういうようなものです。上手いから、褒めてくれているだけです」

「名前は?」

「稲内です」彼女はそう名乗る。そう言えば、名前を千住から聞いた気がするし、その際にこの少女は絶対に裏があって、信用なんか出来るわけはないと言った記憶が、今蘇ってきた。「まだ小学生です」

「ガキが。万引きなんかバレないようにやれっての。何を盗んだの?」

「盗んでません。言いがかりです」きっぱりと稲内は言って、観光客を指さして、私に説明をする。「彼らもそう言っています。わたしの歌を、褒めてくれた人たちです。わたしは何も盗んでいないことを、あの人達が証明してくれます」

 そうしているうちに鷹森が帰ってきて、何も言わずにすぐ、稲内の鞄をひっくり返した。止める間もなく、中に入っていた物が、地面に散乱していく。

 転がり出たのは、ペンギンの像。可愛らしいと言えばそうだ。陶器で出来ていて、身体が青く、若干殴りたくなるような表情をした、片手よりも大きめの像だった。

「土産屋の店主から聞きましたよ」鷹森は、稲内に向かって言う。「これを買ったのは若い日本人の男性。私はもしやと思って写真を見せると、店主はああ、この人だって言いました。梶栗という男です」

「梶栗が?」私は稲内よりも先に返事をした。「なら今度、可愛い像のコレクションでも見せてもらいましょうか」

「えっと、襲撃のあった日の朝、まあ昼の前とかそんな時間ですね。梶栗が一人で土産屋に行き、結構悩んだ挙げ句にそれを買って行ったって、店主が覚えていました。重要なプレゼントでも買うときみたいに真剣に……二時間ぐらい粘って、それから一度出ていって、食事でも取ったのか、三十分して戻って来たって話です」

 まさか梶栗、この像を買うか迷っていたから、遺跡に現れなかったのだろうか。

 だとするなら、なんてふざけた殺し屋なんだろう。

「まあ梶栗のことは良いんです」鷹森は話題を戻した。「あなた、梶栗からこれを盗んだでしょう」

「いいえ……」稲内は首をふる「買ったんです、お土産屋さんで」

「嘘を言うな。これを買ったのは、梶栗だけだったと店主が証言しています。なにせ、一万円もするわりに、こんな妙な愛嬌だけがある像なんです。いまだかつて売れたことは無かったし、生産数自体も少ないと店主は言っていました。あなたが買ったなんて話は、店主から出てきてないんですよ」

 そこまで言われて、

 稲内は悟ったのか、頭を下げて謝った。

「ごめんなさい……」

 稲内は顛末を説明する。梶栗という男は知らないが、なにか鞄を膨らませている観光客を狙ったに過ぎなかった。スリはこれが初めてだ、彼女は言った。初めてで梶栗のような成人男性を狙うのはどうなのかと私は思ったので、その話は信じなかった。

 しかし、梶栗はまあ、新人とは言え伊達に殺し屋になった男でもなく、稲内のスリ行為に勘付き、彼女を追いかけた。地元としての土地勘がある彼女は逃げ切れると踏んでいたが、それと釣り合う程度に、梶栗には真っ当な筋肉とスタミナが備わっていた。結局、この日はずっと梶栗から逃げていた、と彼女は話した(それが襲撃に来なかった本当の理由なのかと私は納得する)。その時の追いかけっこの様子は、鷹森が何人かに聞き込みをした結果、いくつか目撃証言が出てきた。

 だから許してください、と甘えたこと稲内は言う。

 鷹森はまあ、小学生のしたことだし、ペンギン像は梶栗に返せば良い。店主も大事にする気もない。だから気にするなと言って、稲内を開放した。大人の対応だと言ってやってもいいが、私には、鷹森はただこのガキの処理が面倒だっただけのように見えた。

 双方納得の上だというのに、それでも何故か周りの観光客は納得しなかった。

 その怒りの矛先を、稲内に向けた。

 稲内を罵倒し、騙されたと言い、金を返せと叫んだ。学校や、親にもこのことをバラすとも告げた。稲内は、この世の全てを失ったような顔をして、地面にへたり込んでいた。絶望というタイトルで美術館に飾る絵画を描くのであれば、私はきっとこの瞬間のことを絵にするんじゃないかと感じた。

 鷹森はその騒ぎを止めに、走って突っ込んでいった。

 稲内を助けに入るほどの器量も、義理もなかった私は、その姿を去りながら観察するだけだった。

 あの少女は、あの失墜した少女は、これからどうするんだろう。そんな心配を、とりあえず捻出しながら。



「さて、入宮メバエさん」

 さっきの騒ぎは、鷹森が拳銃を取り出した瞬間に、白けたように収まった。稲内はボロボロになっていたが、礼も言わないで去った。

 私達は、交番への帰りだった。歩きながらだったが、鷹森は急に改まって、私に話しかける。その様子が、どこか妙なほどの真面目さというか、冗談を口にする気すらおきないほど、堅苦しいものだったので、私のほうも電話で目上の人間に話す時のような調子で応答してしまった。

「――はい?」

「唐突ですけど、アルナルドさんを殺したのは、小井土でも梶栗でも無いですね。もっとはっきりと言えば……犯人はわかりましたが、犯罪組織とは関係がないと思います」

「なによ、藪から棒に……」私はつい立ち止まってしまう。海が遠くに見え、泳いでいる観光客が虫みたいに小さく見える道だった。「犯人がわかったって……」

「ええ」鷹森は、鼻にかける様子もなく頷く。「関係がない事件ですが……あの襲撃に乗じて、小井土に罪をなすりつけようとしていたことは気になります。犯人は、犯罪組織のあのふたりと、何らかの接点を持っていたと考えるのが妥当でしょう」

「そ、その犯人ってのは?」

 名探偵なんか眼の前にしたことは無かったのだけれど、きっとそういう時の心境と、全く同じタイプの感情を、鷹森を眼の前にして私は抱えていた。

 理由のわからない事件を、全部解いてしまうような圧倒的な力と、

 その力を私の臓腑にでも向けられたような、こそばゆい感じ。

「簡単ですよ」鷹森が指を立てて説明した。「除外できる人間を除外すれば、残るのは一人。まず小井土は除外されます。その理由は、銃を使わない理由がありません。あれだけ弾もあるのに、わざわざあんな汚い痕がつくような看板を使う理由がありません。次に梶栗。さっきのことでハッキリしましたが、彼は襲撃時間には、スリを行った稲内を追っていました。その時の目撃証言も、店主を始め、いくつか出ています。つまり、アリバイがあるってことです。次に千住。あいつも除外してやってもいいです。覚えていますか、あいつの服装」

「服装?」私は、視線を上げて、その時のことを思い出す。「支配人の制服だったわよ。いっつも卸したてみたいに綺麗なのよね。あの誰も着たがらないような、仰々しいやつ。あの服装でマジックショーとかやらないっていうんだから、はっきり言って詐欺よね」

「そうです。あの服装、綺麗でしたよね。対して、看板はめちゃくちゃに汚かった。そんなものをあの服で掴んで、アルナルドさんを刺し殺すと、どうなるか」

「……汚れる」私は呟く。「確かに、何の汚れもなかった」

「ええ。故に、千住では無いでしょう。もし着替えがあるなら、遺跡の辺りから出てくるはずですしね。アルナルドさんの妻と不倫をしていて、動機の面では十分で、アルナルドさんを消すメリットもあったんですが、まあそもそもあの男にそんな度胸、無いですよ」鷹森は一人で千住のことを思い出して笑った。「ジェルマンさんも除外できます。刺し傷を覚えていますか」

「腹部を、下方からだっけ。それも何回も」

「そうです。そしてジェルマンさんの身長は、アルナルドさんよりも高い。看板を脇のあたりに抱えて……」鷹森がジェスチャーをする。「こうやって刺した時、彼の身長で、そんな下の方に突き上げたみたいな刺し傷が、生まれると思います?」

「なるわけがない……ジェルマンじゃない。じゃあ――」

「残ったのは一人だけ。マウリツィア。アルナルドさんの妻です」鷹森は手を下ろしてポケットに突っ込んだ。「ほら、動機も十分。状況証拠も十分。アリバイの裏取りも出来ていない。マウリツィアが犯人で、犯罪組織の小井土に罪をなすりつけようとした悪女ですね」



 私は、一度交番へ向かった鷹森を置いて、マウリの所へ乗り込んだ。

 ホテルの一室だった。アルナルドと、泊まっていた部屋。

 部屋を訪問するなり、私はマウリを殴り倒した。

 ベッドに横たわるマウリ。その服装は薄着で、誰に向けてそんな色香を放っているのか、私は考えたくないような気持ちになった。

「良いこと?」私は告げる。「私は犯罪組織を追ってる秘密捜査官ってことになってるから、そう思って。あなた、犯罪組織についてなにか知ってるわよね。答えて」

「な、なにも……」

 私はマウリの腹を殴る。マウリは吐きそうな声を出す。

「あなた、組織の殺し屋? 断片化された友人は何処? どうして小井土の計画を知っていたの? さあ、好きな質問から答えて良いわよ」

「こ、殺し屋じゃない、です…………」マウリは泣き始める。「ぐ、偶然に、小井土さんたち三人が飲食店で食事をしている所に、たまたま私が近くに座って……そこで、計画の話を聞いたんです。外国人に、複雑な日本語は通じないと思われたらしくて……こそこそとしないで、堂々とそんな話を……」

「三人?」小井土、梶栗、そして、「誰?」

「さあ…………わかりません」

「特徴。小井土は長髪で捕まった奴。短い毛の若いのは梶栗。もうひとりは?」

 断片の手がかりが、そこまで来ている、と私は思った。

「えっと……まず、眼鏡でした。それから、結構筋肉質で、短い髪なのはその人も同じでした。それから……変な柄の、アロハシャツを着ていて……ダサいっていうか……」

「もういい」

 わかった。

 わかったっていうのに、何もわからなくなった。

「数土って言うのよ、そいつは。ダサいわよね、あのシャツ」



   十一話


      △


 鷹森は、交番で水を飲み、一息をついた。

 忙しい忙しいと口にしているが、彼女はそうやってサボることの出来る自分を、ある程度の度合いで愛していたし、その所為で余計に仕事が溜まっていくという事実を以て、自分自身を叱咤したくなった。

 山のように押し寄せる、殺人事件。そこから、いや、それ以前からやんわりと露呈していた、犯罪組織の影について、彼女は考える。殺しの犯人なんて、それの通過点に過ぎない。この島は、もっと大きなものに、とうに飲み込まれているのだろう。

 島が犯罪組織とズブズブになっているという、漠然とした予兆は、彼女が本土に渡り、警察学校へ通うよりも前からあった。もともと警察になろうと思ったのは、大した理由ではない。危険なことが好きで、つまらない日常を押し付けてくるこの島が嫌いだったから、というごく幼稚な理由にほかならない。ほとんど自暴自棄と言ってもいいくらいの勢いで、彼女は本土の警察学校へ入学し、卒業までの間を本土で暮らした。

 当時から、島には警察官が一人しかいなかった。その警察官は、鷹森が島に帰って来るのと入れ替わりで本土に帰った。彼はずっと、忙しい、警視庁が人を寄越さない、忙しいから余計な事件を起こすな、下らないことで通報するな、と言っていたが、リゾート化される前の島だったので、いま鷹森が抱えている仕事の量に比べて、やるべきことはきっと三分の一もなかっただろう。だというのにそこまで文句を言い続けるなんて、辛抱のない中年だ、と鷹森は最近思っていた。

 リゾート化の話が出たのは五、六年ほど前だった。急に、よくわからない企業が島の土地を買収し、そこにホテルを建て、砂浜を整備し、リゾート地にして観光客を呼び込みたいと言い始めた。

 穏やかな気質だったおおよその島民は、島が不必要なまでに騒がしくなるそんな計画に対して、はっきりとした難色を示していたが、最終的には大金を提示されると、もともとがそうであったかのように、何食わぬ顔で賛成に回った。

 最後まで抵抗していたのは、鷹森の両親だった。父と母。彼らはリゾート化に反対し続け、しばらくして事故に遭って、無惨な死体と、少額の遺産と、事故を起こしてスクラップになった車両だけが残された。

 事故のことは受け止めていた。疑いもしなかったし、疑う材料もなく、疑う年齢でもなかった。そのときは本土で暮らしていたが、葬式のために島へ戻ると、既にホテル建設の工事が始まっていたのが、印象深かった。砂浜の少し先に、あんな巨大な人工物が建っているなんて、宇宙人が侵略にでも来ない限り、鷹森の中では整合性の取れない事象だった。

 けれど、犯罪組織の話と、時々見つかる死体を線で繋ぐと、そこから明確に見えてくる仮説があった。自分の両親は、リゾート建設に邪魔だったから殺されたということと、リゾート化自体が名目でしか無く、本当の目的は、犯罪組織がこの島で死体を処理するのに都合が良かったから、リゾートという隠れ蓑を用意したかったことだった。

 それもそうだと、考えてしまえば納得だった。警察官が一人しか配備されないなんて、どう考えたって、何処かから外的な力が働いているからとしか考えられなかった。鷹森は、自分が知らない間に犯罪組織の手のひらの上に立っている事実に、ある種の恐怖心と嫌悪感を抱えた。

 だから、犯罪組織と島の繋がり……それと犯罪組織の壊滅は、鷹森の悲願だった。

 今、あの入宮という女のお陰で、それがもっとも達成できそうなほどに、近しい所まで来ていた。

 別に両親が死んで悲しいだとか、そんなことは葬式のときにだってそこまで深くは感じなかったのに、いざここまで近づいてしまうと、両親を殺したあの組織を、鷹森は許しておくつもりは全く無かった。

 アルナルドを殺した犯人――つまりマウリツィアは入宮が捕まえに行った。彼女に逮捕権があるのか無いのかは知らないが、とにかく鷹森はマウリについては入宮に任せることにした。

 そんなことより、今更になって気になることが、彼女にはあった。

 交番で、布団を被って震えている千住の許可を取り、鷹森はホテルへ向かい、ある男の泊まっていた部屋を調べる。

 それは、脇田と名乗っていたイラストレーターの部屋だった。入宮が最初に発見をして、軽い検死までしてくれた、あの太った男が生前に泊まっていた部屋だった。

 部屋は、誰も泊まっていないし、片付けもされていないからそのままになっている。ベッドのシーツは少し乱されていて、空き缶が一つテーブルの上に置いてあった。

 暑い。窓からは、空気が読めないくらいの大量の太陽光が、室内に注ぎ込まれていた。外の景色なんて、見ようとも思わないくらいだった。鷹森は諦めて、カーテンを閉じて、空調をつける。

 しかし空調が、あの喉から手が出るほど鷹森が浴びたかった、十分に冷やされた人工的な風を送ることはなかった。鷹森は、頭の上の方にある空調に手をかざして、風が出てくるのをじっと待ったが、やがて馬鹿らしくなり、辞めた。

 はっきりと言えるほどに、空調は壊れていた。モーターが回るような音も何もしなかった。脇田は、こんな所に滞在していたのだろうか。

 いや、それは疑うべくも無いとは思う。現に、空調は鷹森が電源をいれる前から、羽だけが開いていた。脇田がおかしいと思い、その辺りを触った証拠なんだろう。それでもホテルに何も言わなかったのは、よほど人が良いのか。

 千住には既に確認を取っていた。脇田という男がチェックインしたデータはある。だが、そのあとは一度も顔を見せていないから、どんな客だったのははわからないのだと。

 死んだのはチェックインの当日だ。ホテルに荷物を置き、そこから脇田は山に行き、谷から墜落。海の近くに落ち、骨折し、海水で溺死。おかしい話ではない。これだけ人が死んでいなければ、鷹森も疑うのを面倒だと感じていたはずだった。

 やはりおかしいな、と鷹森は感じた。

 どう考えてもこんな暑い部屋に、滞在できる人間なんかいないだろう。第一、羽が開いているのがその証拠じゃないのか。満足に空調が動いているのなら、そんなところを触る理由なんかないだろう。

 いや、待て。鷹森は思い出す。

 脇田の身長。そして足が悪かったこと。

 そこから導き出される答え。

 誰かが、脇田を装って、この部屋を取った。故に、脇田はこの島へ来る以前に死んでいた。

 一体誰が……


      ■


 俺はダイナーで、ジョアンナと飯を食っていた。

 大した境遇でもない。俺が、ジョアンナとロジーの関係が気になって呼び出したに過ぎない。そういう口実になっていた。それと、稲内のことを気にかけてくれたお礼を直接したいと、少しくらいは思っていた。

 ジョアンナはここへ来る前にも、犯罪組織が島に入り込んでいると喧伝して回っていた。もうすっかり、そういう考えに囚われて、抜け出せないでいるらしかった。一般客から見れば哀れに見えるが、まあ犯罪組織が入り込んでいるというのは事実でもあった。

 しかし、彼女が流した噂を信じる観光客も多くいるらしく、港では現在、定期船を待ちきれずに、島から出せと言いよる旅行者で溢れかえっているらしい。街でも、活気というものは根底から死にきっていた。寂れた漁村並みの、生臭いような静けさが漂う時があった。

 そこまで疑われては、組織なんかもう限界なんだろう。俺がそう思うのは、何回目なんだろう。

 ジョアンナは俺の眼の前に腰掛け、なんだか上品な食事を頼み、そしてコーヒーをブラックで飲んだ。俺はなんとなくこの女に、物を食べているところを見られたくなかったので、彼女が来る前に食事を速やかに済ませていた。

 俺は単刀直入に言う。

「あなたがロジーを殺したんですね」

 ――。

「な、何を言ってるの」ジョアンナはコーヒーを取り落としそうになったが、ぎゅっとカップを掴み直した。「私は彼女のマネージャーよ。殺す理由なんかないわ。これから、仕事どうしようだとか、そんなことばっかり考えてるのに」

「でもね、ジョアンナさん。いや、ジョアンナ……」俺は態度を崩した。「状況証拠っていうか、もうごく単純な話だ。あの音楽堂の二階で、ロジーを殺せるのはあなた……もしくは、あなたと協力関係にあった誰かしかいないんだよ」

「…………なんでそう言えるの」

 周囲の音が、大きくなるような感覚。

「音楽堂は暗く、そしてロジーは有名人だったから」

「わかるように言って」

「最初に案内された席だと、ロジーは目立ってしまった。おそらく一階の中央のあたりだとか、そういう場所だろう。それもライブが始まる前の、照明がついている状態なら、なおさらロジーが来ていることで、客席は騒ぎになる。だから主催者が気を利かせて、二階の目立たない席にロジーを移動させた。席を何処にするかは、その時に決めたと言っていた。ライブが始まったあとの音楽堂は暗く、あの中では正面からライトでも当てて顔でも確かめないと、本人かどうかは確認できない。さて、そんな状態で、事前に決まっていた席から移動したロジーを、どうやって犯人は殺したのか」

「偶然殺してしまったんだわ。たまたまよ」

「その可能性も否定できないが、ロジーには殺害依頼が出てるんだよ」

 殺害依頼という言葉を聞いて、ジョアンナは息を呑んだ。

「あなた……まさか……」

「俺のことはどうでも良いだろう」俺は頬杖をついて彼女を見据える。「あの暗闇で何処にいるのかわからないロジーを殺すほどの情報を、ワンタッチで集められる人間は、あなたしかいない」

「…………私じゃない」

「GPSを自慢気に見せたのは誰だった?」

「あんなもので」

「かなり精度が良いとあなたは言っていた。ただの市販のそういう装置じゃないんだろうけど、まあそんなことは良い。暗闇でロジーの位置を何の苦労もなく確認できるのはあなただけ。本当は一階で人気のないところまで連れ出してから絞殺でもしようと考えていたのかもしれないけど、二階は人は少ないから、その場でやった。ただそれだけの事件だ」

 ジョアンナはしばらく、俺の指摘に対して、なかなか効いてこない睡眠薬みたいに、気を反らせていたが、

 やがて諦めたように漏らした。

「…………あなたは、それで私を脅してどうするの」

「認めるんだな」

「…………ええ、そう。手口まで、そう。でも、実行犯は私じゃない。殺害依頼を出したのは私だけど……私は、情報を流して、殺してくれと頼んだだけ」

「それだってデカい罪さ」俺は笑う。「けど、そんなことに興味はないんだよ。自首したいなら、一人で行けばいいけど、俺が気になってるのは、あなたが誰と協力していた、ってことだ」

「…………」

「もう黙る理由はないだろう。今更純情ぶるのか?」

「殺し屋だって言ってた。フリーの……」ジョアンナはうつむきながら話す。「男だった。若い感じの……」

「梶栗か?」

「さあ……名前は言わなかったけど」

 やはり梶栗……梶栗は俺の依頼を先回りしてこなし、俺の埋めたはずの死体を掘り起こし、そして自分を目撃した稲内を消そうとしている。

 あの男がテレビ体験なのかどうなのか、それを確かめてから殺す必要があった。


      □


「で、何の用だ、テレビ体験」

 夜だった。砂浜には人はいない。こんな時間に泳ぐような馬鹿は、いくら金持ちの観光客だからといって、存在はしない。潮騒と墨汁みたい海と、生臭い感じのする砂浜と、それから包丁を向けた私と、向けられた数土が立っていた。

「あなた、小井土たちと知り合いだったのね。聞いたわ。マウリから」私はきっぱりと、決別するように言う。「私を騙してたってことでしょ、それ。おかしいと思っていたのよ。小井土がどうして私の顔を知っていたのか。それは私の顔を知っている人間が、彼に情報を流していたからに他ならないのよ。あなたという裏切り者の手によって」

「証拠はあるのか? マウリがそう言ったのだろうが、それを証明は出来ないだろう。嘘を言っているんじゃないのか」

「そんなメリットある?」

「罪から逃れるためさ」

「適当なことを言って、けむに巻けばインテリに見えると思ってるわけ? アルナルド殺しは彼女で確定で、彼女もそれを認めた。問題は、彼女が私の襲撃の場所と時間を聞いたタイミングで、あなたと小井土と、それから梶栗が一緒にいたって話してる」

「知らん。会っていないだとか、知り合いじゃないだとか、そんなことは証明できない」数土は呆れる。「とにかく納めろよ、その包丁」

「素手の私にも勝てないくせに。これは視覚的に有用な脅しよ」

「――待って」

 どこからか声がした。

 砂浜の向こう。ホテルの明かりが見える方向から、人が歩いてくる。

「……鷹森」私は彼女を認識して、包丁をそのままにしながら声を掛ける。「今忙しいの。夫婦喧嘩よ。見ればわかるでしょ」

「銃刀法違反ですよ、入宮さん」鷹森が私と数土を交互に見る。数土はわざとらしく両手を挙げていた。「まあ暗いからよく見えないんで見逃しますけど。それよりね、聞いて下さいよ、入宮さん。あなたたち、殺し屋なんですよね」

 さらりと、

 鷹森はそんなことを口から漏らし、一瞬何を言っているのかわからなかった。

 数土が恐る恐る尋ねる。

「何を根拠に? そう見えますか?」

「まあ長い話なんで、整理しながら話さないといけないんですけど」鷹森は、へらへら笑いながら言う。「えっと、入宮さんが殺し屋で、旦那さんが死体処理業者なんですよね」

「……鷹森」私は口を挟む。「あんまり他人のこと、殺し屋だっていうと傷つくわよ」

「最初に話したいのは、小井土殺しですね」鷹森は私の軽口を無視した。「あれは外傷もなく、医者の軽い検死では、毒殺だろうと判明しました。どれくらいで効くのかはわかりませんが、最後に薬を飲んだのが、襲撃の朝で、そこから一日くらい経って死んでいるんですから、そのタイミングで飲ませたのでしょう。最も簡単に薬を飲ませることが出来たのは、仲間の梶栗でしょうが、彼はあのタイミングで土産屋で目撃されており、そのあとも稲内を追い回すことに時間を費やしていましたから、そんなタイミングはない。ピルケースに入れておけば可能かもしれませんが、どの仕切から飲むかもわかりませんし、そもそも変な薬が混入していれば、さすがの小井土も見た目でわかるでしょう。犯人は、直接彼にオブラートか何かで包んだ錠剤を手渡して飲ませたと考えられますが、まあ、そんなことは些細なことです」

 問題は、誰がそれを可能だったのか、と鷹森が続ける。

「ところで旦那さん、いや、数土さん。あなたは自分でチェックインをした部屋に、出入りしていませんね」

「そんなわけないだろう。寝に帰っている。こいつ……妻は俺のいびきがうるさいから、同じ部屋に泊まりたくないっていうんだ」

「もう夫婦ごっこはいいですよ」鷹森は鼻で笑った。「あなたがチェックインしたのは、脇田さんの部屋です。ですがあの部屋に寝に帰ることは出来ません。なぜなら、エアコンが壊れていたから。この気温、この熱帯夜で、あの部屋で眠るなんて言うのは現実的じゃありません」

「脇田の部屋なんだから、脇田が泊まったんだろう。俺には別の部屋がある」

「では、その泊まっていたという部屋を提示できますか?」

 数土は、そう言われて沈黙した。

 この鷹森は、なにか決定的な証拠を握っているような気がした。

「あの部屋には、脇田さん以外の人間が入った痕跡があります。エアコンの羽ですね。風向きをコントロールするやつです。あれが、動かされていた」

「脇田が触ったんだろう」

「脇田さんは足を悪くしていました。身長も足りません。そんな人間が、エアコンの羽を自分で触るよりは、まずホテルの支配人にでも一言告げるでしょう。そもそもエアコンは壊れていたんですから、あんな部屋で泊まることは出来ません。死にます。だというのに、脇田さんは何も言わなかった。それは、脇田さんが島に来る前から死んでいたという証拠に他ならない」

 数土は、何も言わなかった。

「当初の予定では、あなたは脇田さんの部屋にそのまま泊まるつもりでした。ですが、エアコンが故障していたので断念した。ここは死体で発見される予定になっている脇田の名前で取ってあることから、支配人に言って部屋を変えてもらうのは、顔を覚えられるリスクがありました。顔を覚えられると、死んだのが脇田で、チェックインしたのは別人ってことに、さすがの千住も気づくでしょう。あなたは困った挙げ句に、入宮さんの部屋と、もう一つの部屋に出入りしていました」

「数土」私は訊いた。「私の部屋でシャワーを使ってたのって、そういうこと?」

 彼は、ずっと黙り込んだままだった。

「もう一つの部屋とは小井土と梶栗の部屋です。そう言える根拠が一つ」

 鷹森は煙草を取り出して、おもむろに火を付ける。

 その煙を数土に吹きかけると、彼は嫌そうな顔をして飛び退いた。

「何をするんだ、馬鹿警官!」

「煙草を嫌う理由は知りませんけど、とにかくあなたは煙草が嫌いだった。アレルギーでもあるのかもしれませんね」鷹森は煙草の火を消して、吸い殻を携帯灰皿に入れた。

「何の関係があるんだ」

「小井土たちが煙草を吸っている所を、見たことはありますね。入宮さん」

 私は思い出す。確かに、ラウンジでそういう場面に出くわしたことがある気がする。

「ホテルの部屋は、別に喫煙しても良いとされています。小井土と梶栗は、調べた限りでは愛煙家ですが、なのに部屋を探した時にあるはずのものがさっぱり無かった。それが、煙草の吸殻です」

「……だからどうした」

「あなたに気を使って、ふたりとも部屋で吸わなかったんでしょうね。それこそがあなたが小井土の部屋に出入りしていた根拠。そしてそこから見えてくるのは、もう一つの可能性ってやつです」

 鷹森は、数土を指す。

「小井土に毒を盛る事ができたのは、あなたってこと」

「飛躍している」

「あのピルケース。形がおかしかったですよね。フランスパンの形です。普通はあれを見て、ピルケースだってわからないもんですけど、何故かあなたは瞬時にそれをピルケースだと判断して、中身を確かめた」

「あのピルケースは、他で売っているところを見たに過ぎない。それに俺自身が毒を盛ったというのなら、どうして自分で薬のありかを口にするんだ。朝に薬を飲んだということ自体、気づかせないほうが良いだろう」

「自殺に見せかけたかったからですよ。その場合、薬を見つけてもらわないと困るんです。ああこのピルケースに毒と精神安定剤とを一緒に入れておいて、自分で飲んだんだなって思わせたかったんですよ。下らない工作です。しかし自殺ではない。自殺をするような人間は、デリヘルなんか呼びませんよ。このデリヘルのことは自分で言ったんですから、偽装でもないでしょうね」

「…………」

「あなたはあの部屋に出入りしていた。だから、梶栗と同じくらい、小井土に毒を飲ませることが可能だったと考えられます。そこまでわかれば、あなたが脇田さんとなにか関係がある人物というのも、ある程度の推察が出来ます。小井土と梶栗は殺し屋でした。そんな人間が、無関係の人間を組織には呼ばないし、あなたは襲撃には直接関わっていない。あなたは、脇田さんの死体処理をしに来た、処理業者だったんじゃないかって」

「……小井土を殺しているのなら、殺し屋だろう」

「じゃあ殺し屋でも良いですよ。そんなの、どっちでも良いんで」鷹森は笑った。「小井土さんを殺した理由は、組織に言われたんでしょう。遅効性の毒で自殺に見せかける。その理由はよくわかりませんが、彼が入宮さんを処理したあとに、一緒に死んでもらうようにした」

「あいつは」私が口を挟んだ。「組織に疎まれていた。だから処分されても当然じゃないの。数土、いい加減もう白状しなさい。あなた、何を考えていたわけ」

「…………組織の任務だ」数土は、そうして重い口を開いた。「お前を小井土が処理する。そのあと小井土も死ぬように仕向け、二人の死体を処理しろと……」

 私は包丁を突きつけて、数土に詰め寄った。

「……断片化された友人って、あなた?」

「…………違う」数土は首をふる。「話を聞いていればわかるだろうバカ女。お前が死ぬことは、俺の任務のうちだった。断片化された友人など、この島に来ていない。お前を処分するための餌だ」

 ――ふざけんな。

 私は、数土を殴る。

 巨漢が砂浜に倒れて、無様に砂を撒き散らして、眼鏡をどこかへ失った。

「お前は……組織、いや……断片化された友人にとって邪魔だったのかもしれんな。俺は……そこまでは聞かされていないから、何も詳しいことは知らん。しかしまあ……なんというか、哀れな女だ。組織から捨てられている事も知らないで……」

「あんな組織なんか、どうでもいいわよ」私は告げる。「私を陥れようとしたお前が許せない」

「待って、メバエ」急に私の名前を呼ぶ鷹森。「私の眼の前で殺しは、流石に見過ごせませんよ」

「知らないわ」包丁を逆手に持つ。「どうせ、もう数え切れないほど殺してるんだから、今更あんたにいいところ見せたって、だからなんなのよ」

「でも……」

「あなたには遠い世界の話よ、これは」

 銃声。

 一瞬だった。何が起きたのか。

 鷹森が馬鹿なことをしたのか、だとか、

 数土が自害でもしたのか、だとか、いろいろなことを考えたが、どれも違った。

 銃声が響いたのは、海の方向から。

 現れたのは、梶栗。

 手に銃。

 そして数土は、血を吐く。

「貴様……」数土が漏らす。「何を…………」

「組織なんかバカバカしいよな」梶栗は言う。「俺を軽視する組織なんか。特に、組織の回し者のお前なんか気に入らないんだよ」

「ガキが……!」数土。

 私は間髪入れないで、包丁を梶栗に投げた。

 彼の腕に刺さる。銃が落ちる。

 梶栗は逃走する。

「クソ!」鷹森が舌打ちをする。「隣の牢屋、古かったから鍵が馬鹿になってたんだ、きっと……!」

 鷹森は、梶栗の後を追った。

「数土!」私は数土に駆け寄るが、しゃがみ込んで顔を覗き込むほどの信頼は、もう私の中には無いことに気付いた。砂みたいに、吹き飛んでいってしまった。「……あいつ」

「…………あんな奴は、何も考えてない」数土が、腹を押さえながら言う。「あるのは、自分を軽視する組織という社会悪への……憂さ晴らしだろう……バイトをキレて投げ出すのと、そう心境は変わらない…………」

 ああ、きっともう助からないんだって、私は経験則でそう感じる。

「俺はな、入宮…………お前のことが嫌いだった。だからこの仕事を請け負った。お前を…………俺の仕事を変に増やすお前を、消せると思ったから。騙されているお前は…………哀れで仕方がなかったよ……ほんと、笑えたよ」

「あなたの家族も、近々あなたの所まで送ってあげるわ。地獄にね」

「冗談でも、俺の家族を殺すなどと口にするな…………面白くもない……」

「なら、あなたはサーフィン中にクラゲに刺されて死んだって、伝えておいてあげるわ。あなたらしい、間抜けな死に方でしょ」私は、包丁を、砂浜に捨てた。「最後に教えて。断片化された友人、本当に知らないわけ?」

「ふん…………見たこともないな……そういう組織だ。お前もわかっているだろう」

「騙されてたってことか……ほんと、哀れね、私って……」

「組織がお前を疎んでいるのはきっと、仕事が雑だからだ…………反省して、これからは綺麗に仕事をやり遂げたらどうだ……?」

「生憎、もう辞めるって決めてんのよ。見てよ、さっきやった職業診断の結果。辞めたら私は次、これになるわ」

 私はスマートフォンの画面を見せる。

 そこに表示されていたのは、警察官だった。

「ねえ、数土。どう思う? 私が警察って。馬鹿みたいでしょ……」


      ■


「お前、ホテルには泊まっていないんだよな」

 俺は遺跡に行き、そこでカップ麺を食べている梶栗を見つけ、声をかける。

「その理由を教えてくれよ」

「……なんの用事ですかね」梶栗は、カップ麺を置く。

「雑談だよ。良いから答えてくれ」

「いやあ、追われてるんですよね、三年ぐらい。だからホテルには入れなくて。人の来ないこの遺跡に滞在しているんですよ」

「組織がリゾート化の際に、それらしい箔をつけるために建設させた遺跡か。費用はホテルより掛かったらしいが、あまり流行っていないそうだな」

 俺がその話題を出すと、梶栗が身構える。

「……俺に復讐に?」

「そうだね。散々掻き乱してくれたから恨んではいるよ。どうしてこんなことを」

「組織から見放されて……ここでビジネスを始めたんですよ。フリーの殺し屋をね。まだ組織のネットワークにはアクセス出来るし、ターゲットはこの観光地に来るような人間も多い。さらにあの断片化された友人でしか達成できないような面倒な殺しを、俺が代わりにやってやったら、俺の評価も上がるんで」

「だから俺の先回りをしていたのか。俺の妨害をしていたのもくだらない理由なのか」

「そうですよ。ジェルマンも殺すつもりで、他の組織から手に入れた高性能の発信機で、一人になるところを見計らっていましたけど、それは先を越されましたね。左近は、特に言うべきことはありません。上手く行ったので。ロジーは、ジョアンナからの依頼ですね。殺害依頼を見て、彼女に掛け合うと、ジョアンナは俺を信頼した。だから、高性能の発信機を与えてやったんですよ。その反応をたどると、ロジーの居場所がわかるんで、ジョアンナも気に入ってました。トラブルは有りましたが、とにかく俺は、音楽堂でロジーを殺すことに成功した。これで、俺も、あんたを超えるような殺し屋でしょう」

「あのな、お前はそもそも、組織にとってどうでも良い存在だと思われている。だから刺客も来なくて、島で三年も生き延びられているんだけど」

「その言葉、俺には腹立つんですよ。無性に。あのクソみたいな先輩みたいに、俺を馬鹿にして……」

「先輩が居たのか」

「死んだ時は、気が晴れたのにな……」梶栗は立ち上がる。「あんたが断片化された友人だって言うのは、わかってましたよ。顔は入手出来ませんでしたけど、先回りして殺していくうちに、現場近くであんたを見かけることが多かったから」

「そうか」俺は興味もなく言う。「ところで、テレビ体験を知っているか? 何処にいる。まさかお前じゃないだろうな」

「テレビ体験は俺の憧れなんです」梶栗が笑った。「居場所は知ってますけど、なんであんたに教えないといけないんですかね」

「…………金か? 払ってやるよ。いくら?」

「そうだなあ。金なんかあってもな……」梶栗は思いついたような顔を浮かべた。「そうだ、稲内! 俺、あのガキに見られたかもしれなくて、気が気じゃないんですよ。消そうとしてるんですけど、あんたが守ってるでしょ? あの子を処分してくれたら教えま」

 俺はその瞬間に、持っていたアイスピックで梶栗の目を突き刺していた。

 脳まで到達するほどの長さがある。梶栗は、すぐに身体を崩させて地面に倒れた。

 殺した。また。

 殺し屋を辞めようとしても、結局俺は殺すと言う手段を取ってしまう。

 結局……俺は……。

 とにかく俺は梶栗の死体を、山まで運んだ。夜が深く、誰にも見られることはなかった。俺は梶栗を、肥塚の死体が埋めてあった場所に突っ込んで、土を被せた。

 交番へ行く。ジョアンナが吐いたと言うことを、とりあえず鷹森に伝えよう。

 鷹森は居住スペースで、古臭いゲームをしていた。

「あら、肥塚さん。なにか用? ゲームの対戦でもします?」

「ふん……しかしレトロゲームですか」

「ええ、そう。維持がめんどくさいんですよ」

 俺は、ため息をつき、言った。

「二〇三三年にもなって、ご苦労なことですね」



   十二話


      □


 二〇三〇年の、夏。三年前の話。

 数土が死んで、私は路頭に迷うような気持ちになった。いや、正確に言えば、あいつは私を騙していた人間だという話だったが、その話の真相をあまり聞くことが出来なかったことと、私のターゲットが結局島には来ていないという事実が、私を空中ブランコにぶら下がったような不安定さにした。

 砂浜。数土の死体。これから、どうすれば……。組織に戻るわけにはいかない。私を消そうとしているのだから、そんな所にのこのこと戻るほど、私の頭は腐っているわけではなかった。島に滞在する? 貯金もあるが、組織の手の入った口座ではあるから、組織に押さえられたら終わりだろう。それに、島自体がもう組織とずぶずぶの関係だというのだから、この島に安全な場所なんて何処にもない。鼠の巣だって、安全ではないんだろう。

 海風が私を凪いだ。何もしないでここで、組織の暗殺者が来るのを待っているのが、正しいんじゃないかと思えるほどだった。

 どうして裏切られたのか……。私は、従順では無かったかも知れない。問題のある殺し屋だったと自覚しているが、何人もの人間を殺してやった私を、そう簡単に切るだなんて、やっぱりふざけた組織だなと思った。

 人を殺した罪だけを、私になすりつけて。

 人の骨を折る感触を、私になすりつけて。

 人の体液の温かさを、私になすりつけて。

 今まで、良いように扱われてきた。家族も殺されて……殺し屋しかほとんど選択肢がなかった私に、面倒を押し付けて……。

 もう、辞めようなんて考えることとか、殺すと死体処理が面倒だとか、余計なことを考えなくて済むのか。ああ、断片化された友人を殺して、スッキリとした気持ちで島を出て、それから組織に辞表を叩きつけて、それでも私を引き留めようと抵抗するのなら、全員を殴り殺してでも辞めて、全てを綺麗にしてから潔白な社会に戻ろうとしていたのに、結局はこうなるのか。

 もう海にでも身を投げたほうが早いんじゃないかと思った時に、鷹森が戻って来た。

 彼女は梶栗を逃がしたが、ひとつの提案を私にした。

「私もね、メバエさん」何故か、私の偽名の名前の部分で呼び始める鷹森は、静かに語り始めた。「両親をきっと組織に殺されているんです。そして……島を、昔はちょっとくらいは好きだった島を、こうやって荒らされている。リゾート化なんて、両親は反対してましたけど、別に、それは間違っていると思うんです。人が来ないと、この島は衰退して、根腐れを起こして、消滅するだけですから。ですけど……犯罪組織の良いようにされるってのは、我慢がならないんですよ」

「警官らしい正義感ね……」

「警官だからとかじゃないんです。気に入らないんです。犯罪組織に貢献していた、あなたですら殴り倒したいくらいですよ、実際」

「じゃあ撃っていいわよ。もう、なんかどうでも良くなっちゃったから」

「……立ちなさい、メバエさん」急に舐めた口を利く鷹森は言う。「私に考えがあります。制裁とか、罪の精算だとか、あとは、贖罪だとか……そんなややこしい話は、私が保留にしておきます。あなたに出来ることは一つだけです」

「……なによ」

「組織の場所を教えてください」



 私は、鷹森に頼まれて、犯罪組織についての全てを教えた。場所は、残念ながら私にもわからないが、組織の使うネットワークのアクセス方法と、それから業務内容と組織の規模を教えた。メールのやりとりも、全て鷹森に流した。

「で、そんなの知って、どうするわけ?」

「なるほどな……」鷹森は私の話を聞かないで納得する。「じゃあ、別の方面から攻めるか……こんな程度の情報と、私の発言力じゃ、警視庁は動いてくれないだろうしな……」

 それから、鷹森は交番に消えた。私も全てを諦めて、ホテルの自室に戻ろうとしたが、数土の関係から、私を狙う人間に話が漏れていることを考えると、なんとなく戻る気にはなれなかった。結局私は、左近を呼び出して、彼女の部屋に泊まった。慣れない部屋で眠るときに、数土もこんな心境だったのかと思ってしまった。

 翌日に交番へ行くと、鷹森はいなくなっていた。

 その代わりに手紙が置いてあった。私に宛てたものだろうことは、宛名を書いていなくても予想ができた。

「多分、数年かかります。それまで待っていてください……」

 声に出して呼んでみた。目で読んだだけでは、よくわからなかったその内容が、聴覚からじっくりと、私の頭に浸透していくような感覚があった。

 何処かへ鷹森は消えた。それも、数年もの長い間。

 行き先は書かれていないが、そんなものは馬鹿でも予想がつくというものだった。私の教えた情報を元に、組織に接触をして、潰そうという魂胆だろう。

 馬鹿なことはやめろと言ってやりたかったが、どうすれば良いのかという代替案は私の中には無かった。行動を起こすというだけ、鷹森のほうが私の何よりもずっと優れているようにしか見えなかった。

 私は……なら私はどうすれば良いのだろう。

 目についたのは、鷹森が置いていったもの。


      ■


 収容所に来い、と記された手紙がホテルの部屋に入っていたのに気づいたのは、もう夕方になってからだった。

 差出人の名前らしき部分には、はっきりと、俺の探しているターゲットの名前が書かれていた。

「テレビ体験……」

 何を考えている。今まで、綺麗に潜伏していたくせに、どうして今になって、俺に直接接触しようというのだろう。梶栗の話を聞くに、彼とつながっているようだった。手下を失い、動揺していると考えても良いのだろうか。

 まあ、罠以外の何者でもないことは明白だった。俺は梶栗から奪った銃と、なけなしの弾、使い慣れた包丁、アイスピックなど、考えうる限りの凶器を鞄に詰めた。鷹森あたりに取り調べを受ければ、一発で捕まるような所持品だったが、あのテレビ体験が眼前に迫っているという事実が、俺から冷静さを消し去っていた。

 何としても、殺さなければ……。

 殺すのは、これで最後にしよう。そう思って、二度ほど殺しを繰り返してきたのは、きっと、テレビ体験という心残りがいたからだ。

 俺はテレビ体験を殺すことで、ようやく組織と、殺し屋という生き方に対して、決別できるような、漠然とした予感があった。

 収容所は、島の奥地にあった。遺跡に近い場所にあるが、島としても案内するつもりが無いらしく、看板で導くような甲斐甲斐しい努力が少しもなかった。一体何のために作られた収容所なのか、俺はたどり着くまでの間にそのことだけを考えていた。

 収容所。四角く、細長い建物が、森の中にあった。外壁も無機質で、草臥れていた。正面入り口には一応案内板が設置されており、そこには「蒸気島収容所」とだけ書かれていた。何を収容するのか、そんなところで疑問を持ってしまいそうになるほど、この収容所の存在自体が、どうにもうまく飲み込めないものだった。

 中は、想像通りの刑務所のような場所だった。エントランスで取り調べをして、その奥の、ずらりと檻が立ち並んでいるところに、無理矢理連れて行かれるんだろう。だが、それだと収容所という名前である理由が説明できない。だったら刑務所と書けば良いのに。深く考えても仕方がない、と俺は首を振った。結局ここは、組織が歴史的な箔をつけるために捏造された、ただそれっぽい施設というだけでしか無かった。

 薄暗い内部。足音が響く。夜はまだだが、もう一時間もすれば、日も暮れる。

 檻と檻の間に、立っている人物。

 俺は銃をすかさず向ける。

 同時に、相手もそうした。そんなことは予想の内だった。相手は、テレビ体験だ。何をされても、何が置きても不思議ではない。

「あれ、肥塚さん」聞き覚えのある、声。「どうしてここに……」

「…………鷹森さんこそ」

 シルエットがはっきりとしてくる。鷹森。警官の制服。島の巡回でこんな所まで来るのだろうか。以前に、遺跡でサボっているところを見かけたことから、ここに来たって不思議じゃない。

「危ないですよ、ここ」鷹森が銃を下ろして近づく。「不良がね、溜まるんですよ。落書きとかもあるでしょ? もっと観光地にすればいいのに、島は面倒くさがってやらないんですよね」

「そうですか」俺は銃をそのままにした。「俺からも忠告です。動くな」

 鷹森が、ぴたりと足を止める。

「やだな、肥塚さん……」鷹森は両手を挙げて、悲しそうな顔をする。「そんな物騒なもの向けて……どこで入手したんですか」

「あんたは、真っ先に、市民に銃を向けるような人間じゃない。少なくとも、普段は」

「だって、ここって暗くて怖いから、そりゃあ、誰だろうと向けますよ。それよりね、肥塚さん。銃刀法違反ですよ。それがモデルガンだっていうなら、話は別ですけど」

 帽子の間から、俺を睨むような目が見える。

 鷹森…………

「お前がテレビ体験だな」

「テレビ? テレビは見ませんよ」

「殺し屋だな、と訊いているんだ」

「殺し屋? 私をそんなものと勘違いしているんですか?」

 ――言いながら、

 鷹森は足を蹴り上げて、何かをこちらに飛ばす。

 靴だった。俺の顔にめがけて。

 それが顔に直撃する。

 目を瞑ってしまう。

 臆するな。関係ない。俺は引き金を引いて、同時に飛び退いた。

 銃声は二つ。俺の分と、鷹森の弾。

 彼女の銃弾は、入り口の窓ガラスを割って、馬鹿みたいに大きな音を立てた。

 俺は物陰に隠れる。あの女を相手にするには、どうしようもなく薄く感じられる、壁。

「鷹森……お前で間違いないじゃないか」

「あはははははは」

 彼女の笑い声が、建物内に反響する。

 伺う。

「鷹森、ね。あなた、まだなにもわかってないようで、安心したわ」

 鷹森はそう言って、帽子を脱いで、そのあたりに捨てた。

 それから、結ばれていた長い髪がほどける。

 予想に反して、染めた金髪だった。

「窮屈だったのよ、この格好。暑いし」

 彼女は警官の上着も捨てた。中は白いシャツ。

「鷹森、何を考えている」

「鷹森鷹森って……残念だけど、私は鷹森じゃない」

「テレビ体験」

「その名前は捨てた。組織に裏切られたときからね」

 テレビ体験は、持っていたジェントルジャイアントのCDを捨て、警察手帳も捨てた。

 そこに残ったのは、謎の女。

「私は三年前、入宮メバエって呼ばれてたのよ、断片化された友人」

「……ふん。聞いたこともないな。それに、俺は肥塚だ」


      □


 私は、ずっと苦労をしていた。

 いなくなったあの女に代わって、三年間、鷹森に成り代わっていた。警察のふりなんて難しいとは思ったが、職業診断という自信と、制服を着て警察手帳を提示すれば誰でも自分を信用するという状況が、私を完璧に鷹森に仕立て上げた。

 本土から警察が数名やってきた時ですら、私が別人だと疑うことはなかった。私は彼らを病院に案内し、死体を見せ、鷹森と一緒に捜査した結果と、事故死の可能性を教えると、彼らは帰った。ろくに捜査もしないまま、島から消え失せた。きっと、島が組織と癒着しているという事実を知っていて、手を出したくないのかも知れなかった。そうでなければ、この程度で済むはずもないだろう。私は組織の大きさを知り、同時に鷹森の苦労を思った。

 三年後。鷹森から急に連絡があった。

「組織は間もなく瓦解する。断片化された友人は、島へ送った。見つけ出して処理をしてくれ」とメールには書いてあった。今まで何も知らせなかったくせに、急にそんなことを言われたって信用しがたいものだったが、私はそれでも断片化された友人を殴り倒したいという気持ちを思い出して、鷹森の全てを肯定した。

 やってくる旅行客の中から、断片化された友人を特定するのは簡単だった。三年前に見かけた肥塚という客が死に、それから肥塚を名乗る男が現れたから。三年前に肥塚に取材をされ、怪しいと思って疑っていなければ、彼がターゲットだとわからなかったかもしれないから、本物の肥塚の取材精神に対して私は感謝を覚えた。

 それから、私は偽物肥塚の身辺調査に時間を費やした。なにか弱点だとか、殺しの癖だとか、そんなものがわかれば良いなと思った。

 そうして、この男の人間臭さに触れてしまった。

 稲内を大事に思う気持ち。

 組織を辞めたいという気持ち。

 どれも理解できる。殺すのは間違いなんじゃないかとも思ったが、一方でこの男は何のためらいもなく梶栗、そしてジェルマンを殺した。

 悲しいほどに、私に似ていた。

 殺し屋という生き方を否定したくて、違う生き方に憧れるけど、殺し屋以外に、居場所がない人。

 私だって、警察のフリをしていたが、苦痛で仕方がなかった。

 辛くて辛くて、こんな仕事は、私に向いていないと確信するほどだった。

 けれど、私は殺し屋という運命を否定したかった。だから、自分を押し殺した。

 否定した先に、未来がある。盲目的に、それだけを信仰していた。

 否定しているのに、どうして私は、断片化された友人に、拳銃なんか向けてるんだろう。

 今までの怒りと、憎しみと、悲しみが、理性と希望を叩き潰して、身体を動かしていた。

 殺せ。殺すのが悲願。他に道はない。

 でも、それで良いのか。

 私は、それで組織から決別して、真っ当な人間になれるのか……。

 とにかくだ。

 とにかく今は、肥塚を取り押さえる。

 そのあとのことは、そこで考えよう。

 私の家族と恋人を殺した理由は、本人から聞けば良い。

 話し合えるなら、話し合えばいい。

 そうするのが、現代社会人だと、私は思った。

 肥塚。聞いてあげるわよ、あなたの話を。あなたも、組織の被害者なんでしょう。

 あなたの望みを。

 あなたの、未来を。

 あなたの、過ちを。

 私は飛んでくる銃弾を交わして、檻が立ち並ぶ廊下に逃げ込む。接近さえすれば、私のほうが圧倒的に部があるとは思うが、肥塚は何を所持しているかわからない。

 かくなる上は……。

 私は、屋上の方面に逃げ込む。


      ■


 あの女は屋上に逃げ込んだ。この階段の先に屋上があることは、案内板からの情報でわかっていた。屋上が実際にどういう意図で作られたのかは、俺の知るところではなかったが。

 弾の残りは少ない。

 俺は射撃は得意ではない。確実にあの女を仕留めるためには、三メートルくらい近づいたって、近づきすぎているということはないだろう。

 殺すという選択肢しか見えない。

 しかし、それで良いのか。俺は結局、殺し屋という生き方を否定できないまま、また殺人を重ねるのか。組織の犬のように……。

 躊躇。

 組織に命令され、罪がなさそうな善人の一家を皆殺しにしたときにも感じなかった躊躇が、スマートフォンの通知みたいな不躾さで浮かび上がってくる。

 かと言って、説得が通じる相手なのか。

 どう説得すれば良い。

 あの女が何を考えているのか、わからない。

 テレビ体験は恐ろしい殺し屋だとしか伝えられていない。

 だが、俺と同じような人間なら、話す価値があるのか?

 屋上を駆け上がる。

 そこには、誰もいない。

 何処へ消えた。

 物陰から――音。

 さっき考えたことを全部忘れてしまったように、

 殺し屋として自分の培ってきたものが、正しかったんだと思い知らされるように、

 身体が反射的に、引き金を引いていた。

 もう、すっかり夜だ。

 月明かりが照らし出したのは、

「こ、肥塚さん…………」

 倒れたのは、

「稲内――」

 どういうことだ。

 どうして稲内がここにいる。

 倒れ込む、稲内。

 なんで

 どうして

 おかしいだろ。

 俺は……………………稲内と未来を見るんじゃないのか。

 しゃがむ。抱き寄せる。血。広がっていく。撃ったのは、当然心臓に近い場所。頭ほど狙いにくいわけでもない。素人でも当てやすい。

 だから撃ったのに、そう撃つように習ってきたのに、撃った相手が、俺が救いたい人間だったなんて。

 稲内は、血を吐いていた。

 何も見ていなかった。

 何人も、殺したからわかる。

 もう死ぬ。

 ああ、バカバカしい。なんて、バカバカしいんだ。

 憎しみ。

 俺のせいじゃない。きっと、あいつが連れてきた。

 稲内が、俺の弱点だと思ったから、あいつが……

 テレビ体験は、恐ろしい殺し屋――。

 音。

「稲内さん……?」

 テレビ体験の声。

 その方向に、すかさず発砲。

 相手もそうした。きっと、さっきの俺みたいな、自分の本能に従った動きだ。

 身体が急激に重たくなって、俺は、倒れた。

 テレビ体験……入宮メバエは倒れなかった。

 それもそうか。俺は、稲内を抱えていた。まともな狙いをつけるなんて、無理だ。

 痛みはない。アドレナリンの作用だと聞いたことがあるが、本当だろうか。

 何処を撃たれた。まだ、反撃の手立てはあるのか……

 いや、もう身体が動かなかった。

 稲内をこの手で撃ち殺したときから、もう指先の動きが緩慢になっていた。

 自分の手で、未来を壊した報いだと思った。


      □


「遅かったわね……」

 私は屋上にまだいて、揺れ動く焚き火を眺めていた。

「……三年、ですよ。大した時間じゃないです、メバエ」

 声の主は鷹森。久しぶりに会うはずだけど、その顔を眺める気にはなれなかった。

「殺したんですか、断片化された友人……」

「この手でね。稲内も、ここよ。彼女、私が彼を呼び出した事に気づいて、私を殺すためにここに潜んでたみたい。でも結局……死んだわ」

「…………すみません」

「なんで謝るの。それが仕事よ」

「だって……あなたは、殺し屋を辞めたがっていて……それなのに、断片化された友人を処理できるのが、あなたしかいないと思って…………利用したんです、あなたを、私は……断片化された友人が、この島に行くように仕向けて……」

「あなたも頑張ってたんでしょ。組織を潰すのに…………」私は俯く。「なにか、他に道があるんじゃないかとか、考えたわ。こいつだって、稲内っていう女の子と交流して、様子が変わっていったのを、私は見てた。あなたに説明すると長くなるけど、こいつも、私と同じだったのよ。殺し屋から逃れようとして……でも、だめだった」

「あなたは、私の代わりを務めたって聞きました。ホテルの現在の支配人……盛藤さんに聞きました。彼女も自分の犯罪組織とは手を切って、あなたに協力しながら、立派にやってるじゃないですか。あなたも、断片化された友人とは、同じではありません」

「同じよ」

「…………」

「結局、殺したもの。あなたは、人なんか殺さないでしょ」

「…………普通は」

「普通じゃないの。普通じゃ、無かったのよ、私達は。殺すっていう選択肢を、嫌だと思っても……結局取ってしまうような人間なの」

「…………」

「殺し屋が、自分の居場所じゃないって思ってたから、探した。でも私の居場所は……殺し屋でしか無かったの」

「……見つかりますよ」

「気休めなら幼稚園児でも言えるわよ」

「……すみません」

「謝らないでよ。殺すのが、私の仕事だって言ったでしょ。これは……愚痴」

 燃える焚き火……断片化された友人と、稲内の死体にガソリンをかけて燃やしたものを、眺めていると、私が火刑にされているような気分になる。

「……組織は壊滅しましたよ。あなたは、自由です、入宮さん」

「そう……。その名前だって、組織がくれた偽名よ。本名は、もう忘れちゃったの。ねえ、鷹森。私は誰で、これからどうすれば良い? 人を簡単に殺すような女は、この現代社会でさ、何処に行けば良い?」

「…………警察として言うなら、刑務所」

「それも考えておくわ。死刑でしょうね。じゃああなたが逮捕しなさい。それなら受け入れてあげる」

「…………でも、あなたは結局、組織の被害者じゃないですか。そんな人を……」

「じゃあ、見なかったことにして。私のことなんて、忘れて。あなたは、私とは違う人間よ。交番にでも、帰りなさい。昔のままよ、あそこも」

「…………でも」

「消えて」

 そう言うと、鷹森は屋上から、ゆっくりと去っていった。

 私は立ち上がって、あのときに投げ捨てたCDと制服と警察手帳を、拾って持ってくる。

 どうすればよかったのだろう。

 どうすれば、殺し屋から逃れられたのだろう。

 組織に関わったところが、既に間違いだったか。両親と恋人を組織に殺されたことが、既に間違いだったか……組織に殺されるようなことをしていた両親が悪いのか、恋人が悪いのか……それとも誰も悪くなかったのか…………組織が私を引き抜くために、もしかすれば両親等の関係者を殺したのか…………

 いや、もうそんなことを考えたって、無意味か……。

 明日のことも考えられない。何処に行けば良いのか、何処にいれば良いのか、もうわからなくなった。

 CDを、炎にくべた。

 制服を、警察手帳を、そしてスマートフォンを、くべた。

 この楽園にとって、不釣り合いなほどの鼻に悪い煙の匂いが舞い上がって行った。

 あと十分もすれば、これらは完璧な燃えカスになるんだろう。

 私はその炎の熱で、馬鹿みたいに汗をかきながら、どこにも行けないで隣にそっと寝そべって、それから星を数えて、両手を組んで、目を閉じた。

 私自身も、燃えカスの一部になったみたいな気分で。

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