第2話 家族の視線と婿選びの兆候
夕食の食卓は、いつもなら琴音にとって安らぎの場所だった。水瀬家の本家屋敷は、古くからの格式と、どこか重苦しい静寂に包まれている。父は村の有力者であり、母はそれを支える穏やかな女性だった。しかし、ここ最近、食卓には得体の知れない緊張感が漂っていた。
「琴音、最近少し痩せたのではないかい? 勉強のし過ぎは体に毒だよ」
母が心配そうに琴音の顔を覗き込んだ。その声は優しく、琴音を気遣うものだった。琴音は曖昧に頷き、「大丈夫だよ、お母さん」と答えた。だが、喉の奥に何かが詰まったような違和感があり、箸を持つ手が僅かに震える。
父は、口を開くことなく琴音の顔をじっと見つめていた。その視線は、琴音の小さな変化も見逃さないかのように鋭く、しかしその奥には、琴音の未来を案じるような色が混じっているのが感じられた。琴音は、父の視線から逃れるように、皿の上の煮物に目を落とした。
「それにしても、一条慧さんは本当に立派な方だ」
父が、突然、重々しい口調で切り出した。食卓の空気が、一層張り詰める。琴音の心臓が、ドクン、と大きく脈打った。
「ええ、本当に。先代の社長がご病気になられてから、急遽、会社の舵取りを任されたにも関わらず、見事に業績を立て直されたそうですよ」
母が、すかさず父の言葉に頷く。その声には、一条慧という人物への尊敬と、彼が水瀬家にもたらすであろう安定への期待が込められているのが、琴音には痛いほど分かった。
一条慧。琴音の元家庭教師だった人だ。村外の大学を卒業し、若くして水瀬家の事業に関わるようになり、その才覚をいかんなく発揮していると聞いている。家庭教師をしていた頃の彼は、難しい問題も根気強く教えてくれる誠実で優しい人だった。しかし、仕事には厳しく、どこか近寄りがたい「大人」の雰囲気も持ち合わせていた。年齢が8歳も離れていたこともあり、琴音は彼を恋愛対象として見たことは一度もなかった。
両親の会話は続く。
「村の発展にも、彼の人脈と手腕は不可欠だ。何より、水瀬家の事業を次世代へと繋ぐには、彼のような実力者が不可欠だろう」
父の言葉は、琴音の耳に、まるで自分には選択の余地がないと告げているかのように響いた。村のため、家のため、事業のため。琴音が聞かされてきたのは、いつもそうした大義名分ばかりだった。個人の感情など、そこには入り込む余地がないかのようだった。
「琴音も、もうすぐ大晦日だからな」
父が、箸を置き、改めて琴音の顔を真っ直ぐに見つめて言った。その一言が、琴音の胸に重く響いた。大晦日の夜に行われる、村の祭祀。未婚の男女を番わせ、五穀豊穣と子孫繁栄を祈願する、古くからの因習。番わせた男女は、通常そのまま結婚することになる。その祭祀を使って、琴音は一条慧と縁組させられることになっているのだ。
琴音は、スプーンを持つ手が微かに震えるのを感じた。父の言葉の裏にある、強固な意志と、琴音にそれを強いる無言の圧力が、琴音の心を深く締め付けた。琴音は何も言えず、ただ視線を皿に落とし、冷めてしまった煮物を小さく口に運んだ。味は、もう分からなかった。
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