ラストノートが香るまで 〜スピンオフ〜
神田川 散歩
第1話 雪辱を胸に
眞子と秀之が一緒に暮らす様になって、1ヶ月が過ぎようとしていた。あの時、眞子の言葉で決断したのだが、秀之は何となくスッキリしていない。それまでは、すれ違っても知らない他人同士だったのが『いきなり一緒に暮らすなんて。』と思っていた。確かに、男と女。恋愛関係なら、なくはないと思えるが、そこは昭和生まれ。やっぱり慣れない。
朝、味噌汁を作っている出汁の香りが鼻腔をつく。まだ、眠っていたいのだが、腹の虫に起こされる。そして、眞子が寝室に入ってくる気配がする。ベットの脇まで来て、耳元で囁く。「秀之さん起きて。朝食が出来ました。」
先週、誕生日を迎えた僕は、今月末日をもって、再雇用も解除される。収入が途絶える不安と、時間に縛られない幸福感が、ない混ぜになっていたが、眞子と暮らす事で収入の心配は薄れた。『俺は計算高い?』と内心思ったが、口には出来なかったし、そんなことを思っている自分が情けない。これからもなんとかして、収入の道を探さなければと思った。
あと何回、彼女に耳元で囁かれて起きるのだろうと考えながら、ベットを降り寝室を出た。食卓のテーブルには、焼き魚や目玉焼き、そして湯気の立つ味噌汁。
眞子の料理は母親の介護をしていた時に、かなり力を込めて覚えたらしいが、亡くなってからの5年間は、自分の為だけに作っていたので、虚しかったらしい。
「料理は、食べて欲しい人の為にするから、楽しいの。」そう言いながら笑顔で見つめられると、なぜかドッキッとする。いつもなら、食事の後、出勤の準備をするが、この日は休日の為、後片付けを一緒にした後、リビングでゆっくりすることになった。「食後、コーヒーはいかがですか?」と聞かれたので「お願い」と一言だけいったが、彼女はすでにコーヒーをミルにかけ、ドリッパーをセットしていた。
彼は読み掛けていた文庫本を取り出し、眞子は書道の個展の書類に目を通していた。休日のゆっくりした時間が流れ、開け放たれた窓から心地良い風が入ってくる。
集中して、文庫本を読んでいると。ふと眞子が話しかけてきた。
「ねえ、秀之さん。私が秀之さんと住みたいと言った話、聞いてくれる?」
それは唐突な申し出だった。『何故?このタイミングで?』と思ったが、彼はゆっくりと文庫本から視線を移し、頷いた。「うん、聞いてみたい。」というと、眞子は少し微笑みながら「うん、話すね。」と言って、見ていた個展の書類をテーブルの端に置いた。「私が、秀之さんと暮らしたいと言ったのは、母の手紙がきっかけで、それだけが理由だと思っていますよね?」「うん、だってあの時そう言ったから。」と返事をすると眞子は笑みを浮かべながら「やっぱり、らしいわね」と小さく呟き話を続けた。
「私が、秀之さんに興味を持ったのは、母が離婚した時でした。父が浮気をして出て行ったのがことの始まりでした。父が浮気したのに、何故か母が父をあまり責めている様子が無かったんです。その頃まだ子供だった私には分かりませんでしたが、印象としてはドロドロした感じがなく、お互い納得済みの様な空気があったのを覚えています。そして私も社会に出て働く様になり、恋愛をし、将来を共に生きたいと願う人に出会ったのです。しかし、運命は私に背を向けた。そう、母に最初の癌が見つかった時です。私は悩みました。シングルマザーで私をここまで育ててくれた母のリハビリや介護に当たるべきか、自分の将来と幸せを優先するべきか。当然、悩む前から決まっていましたが、やはり深く考えました。そして、出した答えは母の介護です。手術の後のリハビリは想像を絶する過酷さでした。だから、やっぱり彼と別れて正解だったと、強く思いました。仕事に、リハビリの介護で時間も、体力も精一杯で、とても彼のために割く時間なんで取れないと、解ったんです。」
そして、食後に入れたコーヒーを一口のみさらに続けた。
「母の介護をしていた時、母の本当の気持ちを知ってしまったんです。彼女はずっと後悔していた。秀之さんのことを忘れることが出来なかった。いや、忘れようとして書道に打ち込み、必死に忘れようとしたんだと思います。しかし、忘れることが出来ない苦しみから逃れるようと、もがいていた時、知人に父を紹介されたをそうです。そして、彼女は思った。『結婚すれば、全てが忘れられる』と
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