第32話 白洲、二度目の一人暮らし

 いつもの時間に、目が覚めた。

 目覚ましが鳴るより前に自然とまぶたが開くのは、もう何十年も染みついた習慣だ。


 扉に手をかける前、ふと足を止める。

 あの子は、廊下で鉢合わせるだけで小動物みたいに跳ね上がるから。

 まるで幽霊でも見たかのように「ひゃうっ!?」と声を上げて、顔を真っ赤にして慌てふためく――その姿が、何とも可笑しくもあった。


 ……けれど、今はもう、耳を澄ます必要もない。

 月城つきしろ心愛ここあは、もうここにはいないのだった。


 階下へ降りて、キッチンに立つ。

 パンを二枚。卵を二つ。マグカップも、なんとなく二つ。手は止まらず、カトラリーまで二組並べて――ようやく違和感が追いついた。


 「そういえば、いないのか」

 

 そこにいたはずの彼女が、もうこの家にはいないことを、ようやく思い出す。

 初めての朝だ。まだ、身体のほうが慣れていない。ただ静かで、音のない部屋が、やけに広く感じられる。


 ため息をひとつつき、マグカップをくるくると回す。棚に戻そうとしたココアの缶に、ふと手が止まった。

 出来上がっていたのは、心愛さんの定番だった――ミルク多めの、やたらと甘いココア。私はそれを、しばらくじっと見つめた。


 捨てるには惜しい。かといって、飲む気にもなれない。

 考えること数秒。一口だけ、試してみることにした。


 ……むせた。


「……甘すぎる」


 喉に張りつくような、砂糖の暴力。あの子は毎朝、こんなものを笑って飲んでいたのか。


 口の中に、妙な甘さが残る。すぐにコーヒーで打ち消そうかとも思ったが――手は、動かなかった。

 この甘さを、消してしまうのは惜しい。そんな感覚が、自分の中から湧いてきたのが意外だった。

 彼女の笑い声。とんがった口で文句を言う顔。思い出すつもりもなかったのに、脳裏に勝手に浮かんでくる。


 一人で迎える朝。一人でとる朝食。もちろん、家を出るときも――一人だ。


「……行ってきます」


 誰にも届かないその言葉が、どうしても口をついて離れなかった。

 ひとりの生活は慣れていたはずなのに、この挨拶がこぼれたのは――いったい、何年ぶりだっただろう。


 いつもの通勤路を歩きながら、ふと考える。恋だったのか、と。


 ……いや、違う。

 心愛さんの告白を断ったとき、胸は何も動かなかった。ただ、何かが静かに終わったような感覚だけが、確かに残った。


 感情は、よく分からない。昔から、そうだった。

 嬉しいとか、寂しいとか――そういった類のものが、自分には希薄すぎる。


 けれど、今朝の空気は――妙に軽くて、妙に重かった。部屋の中の重力が、少しだけ変わっていた気がした。

 彼女の気配が消えただけで、こんなにも世界は静かになるものなのか。


 それだけのことに、ようやく気づいた。


 * * *


 夜。残業で少し遅くなり、夕食は駅前の定食屋で済ませた。

 帰宅して、真っ暗な玄関に立ち尽くす。――タイマー式の玄関灯を、つけ忘れていた。


 今日、何度目になるか分からないため息が、胸の奥からこぼれる。


 スマートフォンのライトを頼りに鍵を開けた。「ただいま」の挨拶は、口にしなかった。


 風呂はシャワーで済ませ、洗濯を終えたあとはリビングで一息つく。


 時計はまだ八時半前。――さて、何をしようか。


 仕事に生かせると思って始めた趣味は、もうほとんど手放した。

 読書も悪くないかと頭をよぎったが、積んである本はない。駅前の書店で何か買っておくべきだったかもしれない。

 最近はスマートフォンでも本が読めるが、どうにも馴染めなかった。


 そんなことをぼんやり考えながら、キッチンへ向かう。

 グラスをふたつと、もらい物のウイスキーの瓶を取り出した。

 ……自宅でひとり酒など、いつ以来だろうか。


「本当に、どうかしている」

 グラスをひとつ棚に戻し、そう呟く。


 間接照明をひとつだけ灯し、ソファに腰を下ろした。

 ハイボール用の炭酸も、ロック用の氷もない。

 ただ注いだだけのウイスキーを、ちびちびと口に運ぶ。


 ふと、視線が上がった。


 室内乾燥機の風に煽られて、心愛さんの下着が揺れている。

 隣では、自分のボクサーパンツが、同じ風に揺れていた。


 どこか、仲が良さそうに見えた。

 ――まるで、かつての“私たち”のように。


 その並びを視界の端に残したまま、ウイスキーを煽る。

 いつもより多く飲んだせいか、喉の奥が熱くなる。


 酒のせいなのか、それとも別の何か――

 わからない。ただ、やけにやりきれなかった。


 最後にもう一度、パンティを睨む。

 意味なんてなかった。ただ、そうしたくなっただけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る