第31話 少しだけ、逃げてもいいですか

 朝、キッチンからはトーストの香ばしい匂いが漂っていた。

 けれどその香りは、心の奥に沈んだ感情をすくい上げることはなかった。日常の温もりが、ただ表面をすべっていくだけ。まるで、何かを思い出させることすら遠慮しているみたいだった。


 ダイニングに向かうと、白洲さんはすでに席についていた。カップに注がれたコーヒーから、湯気がゆらゆらと立ちのぼっている。

 それはまるで、言葉にならない想いが、静かに天井に吸われていくみたいで。


「おはようございます」


 そう声をかけると、白洲さんは静かに頷いた。

 相変わらず、表情はない。……それが“いつもの白洲さん”なのに、どうしてこんなに遠く感じてしまうんだろう。彼の沈黙は、優しさでも怒りでもなく、ただそこにある“空白”のようだった。


 朝食を食べながら、私たちは必要最低限の会話しか交わさなかった。テレビから流れる音声が、ぽつぽつと沈黙を埋める。その隙間を縫うように、フォークが皿に触れる音が小さく響いた。

 まるで、言葉の代わりに食器が会話しているみたいだった。


「今日は……ゼミが遅くまであると思います」

「わかりました」


 それだけ。

 返事はくれる。ちゃんと聞いてくれている。だけど、それ以上はない。

 “会話”というより、“報告”。そのわずかな隙間から、大事な何かがこぼれ落ちていく気がして、胸がきゅっと締めつけられた。


 先日の旅行のあと、こんな日々が続いていた。少しでも元に戻したいと願っているのに、何を話せばいいのか分からない。この空気は、いつになったら晴れるんだろう?

 

 霧のように立ちこめる沈黙が、私たちの距離をじわじわと押し広げていく――そんな気がしていた。


 * * *


 大学では、グループ課題の中間発表が目前に迫っていた。

 プレゼン資料の作成に追われ、毎晩、図書館や教室で粘る日々が続く。

 時計の針が深夜を回っても、誰ひとり「帰ろう」とは言わなかった。


 旅行での告白が失敗だったことは、もうみんなに報告済み。

 普段なら「どんな展開だったの!?」って根掘り葉掘り聞いてくるメンバーなのに、この件だけはそっと触れないでいてくれていた。


「ねぇ心愛、ここって……やっぱ図、入れた方がよくない?」

「んー……そうだね。図があった方が伝わりやすいかも」


 いつもの友達四人組で、夜遅くまで頭を抱えて作業する。

 笑い声も、ため息も、真剣な議論もあって、充実した時間のはずなのに。

 私はどこか、上の空だった。


 「うーん、頭が回らない……」


 私が大きく伸びをしながら嘆くと、あかねがニヤリと笑った。


「お嬢さん、いい薬ありますよ?」


 そう言って、カバンの中から取り出したのは――瓶に入った黄金色に輝くテキーラだった。


「……いや、ダメでしょ?」

「適度なアルコールは脳みその回転を良くするっていう研究データがあります!」

「えぇ……誰が発表してたの?」

「海外の論文でそんなのがあるって、立ち飲み屋で会ったオジサンが言ってた」

「絶対ガセだよぉ……」


 私がうげぇ……って顔をしていると、のぞみとまどかが言う。


「ちょうどよかった。私、ショットグラスを4つ持ってきてるの」

「あー、私もたまたまなんだけどライムとクリームチーズ持ってる」


 そう言って、各々が大机の上にお酒とおつまみをどんどん並べていく。


「いやちょっと……課題……」

「ほら、これが“勇気のショット”。飲めば幻のアイデアが降りてくるんだよ」

「幻は見えそうだけど……」


 ライムを絞って、せーので全員一緒に飲む。

 学内へのアルコールは持ち込み禁止だったと思うけど……今日くらいは、まぁいいか。


「喉! 焼ける!?!」

「誰だよ、これ買ったの!!」

「わたしです!!!」

「効いてきたぁ~!!」


 あかねはドヤ顔でグラスを掲げて高らかに宣言する。

 

「さあ、夜はここからだよ諸君!」

 

 意味不明なテンションで乾杯のポーズをとっていた。


 本当は、毎晩「早く帰らなきゃ」って思っていた。

 家に帰って、顔を合わせて、何事もなかったみたいに過ごす――それが“いつもの日常”のはずだったのに。


 でも、今夜はどうしても、その“いつも”に戻る気にはなれなかった。


 課題で頭はパンパン。眠気と疲れが交互に押し寄せて、もう考える余裕もない。

 それでも、ふと笑い合えるこの時間のほうが、ずっと息ができた。


 テキーラの熱が喉を通り抜けて、心の奥までじんわり温かくなっていく。

 みんなの笑い声が少し遠くに聞こえて、現実と夢のあいだをふわふわ漂っているような気分だった。


(もう、少しくらい……距離を置いてもいいよね)


 逃げたいわけじゃない。でも、頑張るのに疲れた。ちゃんと笑える自分に戻るまで、少しだけ、時間がほしかった。


 ――今夜だけじゃなく、しばらくのあいだ。

 “白洲さんのいる家”に帰らないでいたい。


 課題が忙しいのは、本当のこと。

 ほんのり酔った頭で、その言い訳がやけに都合よく思えて、私はスマホを取り出した。


 白洲さんへのLIME。


《大学の課題が佳境で帰れそうにありません》

《今日からしばらく実家に帰って課題に集中します》

《また連絡します》


 数分後に、既読がつく。

 そして返ってきたのは、たった一言。


《承知しました。頑張ってください》


 文面がそっけないのは、いつものこと。

 ……だけど、今は普段以上に冷たく感じてしまって、胸がちくりと痛んだ。


 それを確認してから、私は実家のママに電話をかけた。


 * * *

 

 駅まで迎えに来てくれたママは、何も聞かなかった。

 私の顔を見た瞬間、すべてを察したように、小さく微笑んでくれる。

 その優しさに、涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえた。


「課題、大変なんでしょ。ごはんは軽めでいい?」

「うん……ありがと」


 そう言って、ママの車に乗り込んだとき。

 胸の中にあったのは、“逃げてしまった”という小さな罪悪感と、ほんの少しだけ……“楽になった”という感覚だった。


 それは、誰かに許されたような気がした瞬間。

 私は、ほんの少しだけ、自分を許してみようと思った。

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