踏切であそぼ
柴又又
第1話
「大丈夫ですか?」
スーツを着た男性が女性へとそう問いかけた。
「あの。いえ。え~っと。あの。その」
「何かあったんですか?」
「ちっ違うんです‼」
おろおろとする姿にまだ幼さが重なり男性からは笑みが零れだす。
「あの。え~っと。無くした物を探していて」
「無くし物?」
「あの。はい」
「大丈夫?」
「はい」
「手伝おうか?」
「あっ。平気です平気です」
「そう?」
「このあたりだとおも――」
「困ってるみたいだし、手伝うよ」
「えっいいですいいです。大丈夫ですから」
「いいからいいから。夜も遅いし。早く見つけて帰った方がいい。親御さんも心配するだろうからね」
屈めば疲れが体を軋ませる。開放感からか、男性にはその軋みすらも何処か心地良く感じられていた。帰ったらお風呂へと入り、そしてさっぱりとしたらママにビールを出して貰うのだ。脳裏を過る家庭の温もりは男の心を柔らかくする。
きっと娘の笑顔が待っているだろう。寝顔なのかもしれない。でもその安らぎだけで良い。その安らぎだけで。それさえあれば、この痛みや軋みも容易に乗り越えられる。
「あ・・・・うっ。すみません。ありがとうございます」
「ところで何を落としたんだい?」
「えっ? あ。はい。ちょっと恥ずかしいんですけど。あの。指輪。なんです」
「指輪?」
「はい。あの。彼氏に買って貰ったんですけど。落としちゃったみたいで」
「指輪かー」
「何処かに落としちゃって」
「この辺りに落としたのかい?」
「はい。この辺りだと思うんですけど、見つからなくて」
「彼氏思いなんだね」
「いえいえ。そんなっ。喧嘩ばっかりですよ。でもそのせいで余計に彼氏と拗らせちゃって。意地になっちゃうんですよ。あっ電車きますね」
「はははっ」
(そんな時期が俺にもあった――)
男性の胸の内からは積み重ねた年月が滲み出し、そして口から漏れ出していた。巡る青春。妻との出会いは平凡だったけれど、募らせた思いは本物だ。
言葉を募らせ手の温もりを感じ唇を寄せて体を重ねた。至るまでの過程は青く、至った後の過程は熟したトマトに淡い。甘くはないけれど苦くもなくて、少し酸っぱくて瑞々しい。
言葉等いらなくなるほどの季節を巡った。もはや男性にとって妻は半身だと言っても過言ではない。妻にとり自分もそのような存在であると信じているし、実際妻にとり男性は半身だと言っても過言ではない。
送られているショートメールの数が、妻の愛を明確に表していた。
「帰りは遅いの? ご飯どうする? お疲れ様」
(心配よ。お腹空いてない? 顔が見たい)
些細な事で構わない。
「さてさて。どうかなー。暗いな。ライトなかったっけ。おっライトあった。あら? 意外とすぐ見つかったなー。きっとこれだな。彼氏かー。俺の娘もいつか彼氏なんて連れてくるんだろうなーははっ」
男の言葉は走行音にかき消されて音を成さない。かき消されるとわかっていたから独り言を口から投げた。風圧と鉄の軋みに揺られている。
今はまだ可愛い盛りだけれど――何時かはパパ臭いとか、近くに来ないでとか、そんな台詞を言われてしまうのだろうか。その時を想像すると億劫であり、娘の成長であり、その時にママは慰めてくれるだろうかと。まだ俺に抱かれてくれるのだろうかと。あの甘い指先に思いまでもを馳せて漏れ出してしまう。貪るように愛し合いたい。それが妻の負担になるのを理解している。だけれどそれが受け入れられる想像はあまりにも甘美で。そして疲れて甘える妻を胸の内に抱え何度でも寄せる唇と共に眠りへと誘われたい。若かりし時とは違う。交わり慣れた先にある熟れた営み。その先にはきっと新しい命の芽吹きもあるだろう。そうして手を握り合い微笑みも重なる。
好意の先にはきっと――。
「おーい。これかな?」
思いを乗せて通り過ぎて行く列車。帰るのか向かうのか、その先はどちらか。音が鈍く弱くなってゆく――だが。明滅に終わりはなく、下りが来れば上りも過る。
「あっ。見つかったんですか‼」
声をかけるべきではなかった。手を上げるべきではなかった。
「おいおい。まて‼ まだ電車が――」
遮断機はまだ下りている。明滅も無くなってはいない。
待ちきれないように潜り抜けた女の子。その顔は安堵の揺らぎに溢れていた。これできっと彼氏と仲直りできる。大切な思い出を紡いでゆける。
電車が――。
男は呆然とするしかなかった。
赤い花が咲く。
なに――。
赤い花が男の顔に咲き乱れる。
触れると暖かいそれ。風圧が体を揺らし耳を劈くブレーキ音。
(えっ――。えっ――?)
理解できない。理解ができない。声が。喉が。ただ唾を飲み込み。
女性はどうなった。あの鉄の塊だ。生きている可能性は。引きちぎられた音。骨と鉄の軋み。助かる可能性は。あの鈍い音。
ひしゃげた肉塊が明かりに照らされて、絵具のような液体が流れてゆく。
(なに……が?)
これが現実なのか錯覚なのか夢なのか。もしかして疲れて会社の机で突っ伏し眠っているのかもしれない。声を掛けたのは誰か。女性は自分で踏切へと入った。
生きているのか死んでいるのか。ひかれたなんて嘘だ。これは夢に違いない。
(……俺の。俺のせいなのか。俺の……)
娘の顔が脳裏に浮かぶ。妻の顔が脳裏に浮かぶ。
(救急車。警察。なんと答えればいいのか)
言い訳。
「あぁっ。あぁっ」
はずした眼鏡にこびりついた赤い跡。
「あぁっ。あぁ……」
手に持ったスマホにメールの通知。
「あぁ……あぁ」
あぁ。
急ブレーキの音が……今やっと途絶えた。
男がまた歩いてくる。
(おっ。こんな時間に女子高生が一人かよ。泣いてる? いいねいいね。顔はどうだ?)
「大丈夫かい?」
「あの。いえ。え~っと。あの。その」
(かわいいじゃねーか。合格合格っと)
「家出でもしたのかい?」
「ちっちがうんです‼」
「そうなのかい?」
「なくしたものを探していて」
「見つからない?」
「あの。はい」
「大事なもの?」
「はい」
(この年頃の大事なものか。何か金目の物でもなくしたか)
「手伝うよ」
「あっ。平気です」
「いいからいいから」
「このあたりだとおも――」
「まぁまかせなって」
「っていいですいいです。大丈夫ですから」
「いい、いい。手伝うよ」
(知り合いになっていて損はない。ここで恩を売っておくのも悪くはない)
「あ・・・・うっ。すみません。ありがとうございます」
「ところで、何を落としたんだい?」
「えっ? あ。はい。ちょっと恥ずかしいんですけど」
(恥ずかしいもの? 写真かなんかか? スマホか?)
「あの。指輪。なんです」
「指輪?」
(へぇー。指輪か)
「はい。あの。彼氏に買ってもらったんですけど、落としちゃったみたいで」
(彼氏もちかよ。んだよ初物じゃねーのかよつまんねー)
「彼氏からね。仲いいの? 指輪を落としたぐらいで怒るとかろくな彼氏じゃないね」
「いえいえ。そんなっ。喧嘩ばっかりですよ。でもそのせいで余計に彼氏と拗らせちゃって。意地になっちゃうんですよ。あっ電車きますね」
(電車―? まだ来てねーよ。つうか踏み切りなってねーし)
なり始めた明滅と。まだ大丈夫だろうと。来たらギリギリで避ければいい。下り始めた遮断機と。
(しかし彼氏と喧嘩か。うまく言葉を考えないとな。みつからねーな。指輪なんて。あーあー。適当に探すふりだけすっか。適当に慰めて。どうやって部屋に連れ込むか。無理やりもいいな。仲間を呼んで連れ込むか。こないだやった女。最高だったなー。やめてやめてってあはは。ビッチのくせに叫びやがる。しまりは良くなかったけど、口の方はいけたな。あーこないだのオーエルも良かったなー。今度またカメラでも持ってお邪魔すっか。あの動画。ネットで流したら儲けがすげーのっ。また稼がせてもらうか。モザイク処理はまたあのオタクにやらればいーや)
「あっ。それですそれです」
(あぁ? 何言ってやがる。この女。あっ?)
カンカンッカンカンッと音がする。
女は線路の中へと走り。
通り過ぎる電車は急ブレーキを。
線路の赤い染み。
それはきっと錆びた鉄のせい。
今日は幻影に肉が混じっている。
脇にある花束が。まだ飾られたばかりなのか、そよそよと風に揺られていた。
「あの。いえ。え~っと。あの。その」
踏切に差し掛かりスマホを弄りながらふと顔をあげると女性がいた。
(マジやば。なに? だれ? うちに言ってんの?)
「ちっ違うんです‼」
(え? どっきり? なに? あの制服……可愛くね?)
周りを見回しても女性以外に人はいなかった。背後へと振り返りまた前を眺める。女の子がいた。女の子。自分とは違う制服の女の子。
「あの。え~っと。無くした物を探していて」
(え? うちに言ってんの? なに? ほんとわからん。なに? 無くした物ってなんよ。うけるっ)
季節が流れ漂い始めた熱の気。短めのスカート。車の音も無く。遮断機のランプが明滅と反響を繰り返す。
「あの。はい」
(やばっ。なにこの人。とりま撮っとこ)
「はい」
(マジ受ける。一人で喋っとる。演技の練習なんかもしれん。えぇやん。エモい。青春やん。うちがカメラマンやん)
「あっ。平気です平気です」
(手を振る動作めっちゃ可愛い。うちもそろそろ黒髪にもどそかな)
「このあたりだとおも――」
(ネイル剥げてる……。うわっめっちゃ最悪。テンション下がるわ。まぁでも……放課後サロンいけばおっけえっしょ。お金足りるかなぁ。今のバイトって給料あんまり良く無いけど人間関係がさいこーなんよね。めっちゃ楽しいからやめられん)
「えっいいですいいです。大丈夫ですから」
(恥ずかしくないんかな。まだ続けるん? 逆にすごない? 尊敬だわ)
「あ・・・・うっ。すみません。ありがとうございます」
(あっ。手伝うのに成功されとる。なんか男見えてきたわ)
「えっ? あ。はい。ちょっと恥ずかしいんですけど。あの。指輪。なんです」
(ちゃらそー。あの男。うちの一番嫌いなタイプやわ。ゆかちとかあぁいう男タイプなんよなー。野性的っていうか暴力的って言うか。絶対ひどい目に会うってわかってるのになんでなん?)
「はい。あの。彼氏に買って貰ったんですけど。落としちゃったみたいで」
(うちも指輪欲しい……。でもあったらあったで邪魔になってつけんくなるんよね。いつの間にか無くなってて草みたいな。棚の裏にあったわらっみたいな)
「何処かに落としちゃって」
(男必死すぎわろっ)
「はい。この辺りだと思うんですけど、見つからなくて」
(あっ。電車来た。これ何時も怖いんよねぇ。ちょっと下がっちゃうわ)
「いえいえ。そんなっ。喧嘩ばっかりですよ。でもそのせいで余計に彼氏と拗らせちゃって。意地になっちゃうんですよ。あっ電車きますね」
(うちも彼氏欲しい……。うーん? うーん? 男無いなった……? なんかやばない? なんで声聞こえるん? 足が……見えるんなんで?)
「あっ。見つかったんですか‼」
(あっ……)
刹那に腰が抜けていた。ぺたりと地面にお尻が当たり、劣化の年月が痛みへと変わる。やばいと考えるのに足が震えて動かない。声がでない。昼間だと言うのに誰もいない。広がった赤い染みの痕。服や顔を通り抜け体が反射的に硬直する。まるで階段を踏み外すように。
浴びた跡がうっすらと揺らぎ消えてゆく――。
震えた指先がスマホを取り落とし、大雑把に掴み刻まれたヒビ。這うように電柱へと縋り付き隠れるように建物の影へと逃げ。
(……やばい助けて。お願いみんなっ。うち……やばい)
何がヤバいのかすら原因が不明だ。
友人へと送ったショートメールと地面の色が徐々に黒く滲んでゆく様。
顔を伏せて蹲りその場から体を動かせなかった。心臓は干上がり喉が熱を帯び渇き唾を飲み下す。逃げるように失った気。数分後駆けて付けて来た友人達。起こされて目を覚まし堰を切るように嗚咽が漏れ出す。再生された動画――轟轟と電車が駆ける音。混じり歪む電子音。
死にたくなったらここへ来ればいい。
誰も待ってはくれないけれど、何時か枯れるまで、きっと花だけは添えられている。
踏切であそぼ 柴又又 @Neco8924Tyjhg
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