ある放課後の一幕

@rinrinze

第1話

「月が、きれいだね」

放課後の文芸部室は、とても静かで。だからこそ彼女の鈴を鳴らしたような美しい声はぼくの耳まではっきりと届いた。ぼくは読んでいた本を閉じ、いつの間にかぼくの横に座っていたその声の持ち主である先輩を見て小さく息をつく。吐いた息が少し白くなっているのは冬が本格的に始まったからだろう。

「先輩、まだ月は出ていませんよ」


「なるほど、つまり君の『月がきれいですね』の返事は『月はまだ見えませんよ』になるわけだ」

校庭では、野球部がグラウンドの整備を始めたころだった。何人かの生徒が地面をならすのに使うトンボを引きずって運んで、顧問の先生に怒られている。夕焼けが校舎の影を伸ばしている。そして、ぼくは今、正座をさせられている。

「まあ、実際月は出ていなかったですし」

「君ってどうしてそう捻くれているのかなあ」

そう言って呆れた顔をする彼女の話を聞くに、彼女はあの夏目漱石の有名な邦訳、『月がきれいですね』に対する返事を集計してその結果を次の文芸誌に載せるつもりらしかった。なるほど面白そうなアイデアだと心の中で感心する。

「文芸部員ならもっと文学的な返しをするでしょ普通」

「そんなこと言われても」

彼女は国語の成績が3のぼくに何を期待しているのだろうか。

「ていうか、普通にアンケートやるから協力してくれとか先に言ってくれていたらぼくももうちょっとかっこいい返事しましたよ」

「それじゃあ意味ないじゃん。できるだけ自然な返事を聞きたかったの」

そう言って彼女は疲れ切ったサラリーマン張りのため息を一つ。ぼくはそれにはお構いなしに持論を述べる。

「そもそも、夏目漱石には悪いですけど、『月がきれいですね』なんて告白のセリフにしてはいまいちじゃないですか?」

「えーなんで?ロマンチックでいいじゃん!」

少しむっとした表情をする彼女から目をそらす。彼女は思っていたことがすぐ顔に出るからわかりやすい。

「でも、月の話をしているのか、恋愛の話をしているのかわからないじゃないですか」

「そこは文脈ってやつだよ。わかってないなあ」

そう言ってやれやれが顔をする先輩。

「じゃあ、先輩的にはどんなシチュエーションだと『月がきれいですね』は恋愛の話になるんですか?」

「えー、そうだなあ」

こんな質問が来るとは想定していなかったのだろう。彼女はうーんと腕を組んで天井を見上げた。ぼくはその間にこっそりと正座を崩して文芸部室の小さな椅子に腰かける。足に血が運ばれていくのがよくわかった。

「まず、二人っきりじゃないといけないでしょ」

いつの間にか自分の中で答えを出していたらしい彼女が言う。

「あと、静かじゃないといけないよね。風情がなきゃ」

「なるほど。確かにそうですね」

「そしてやっぱり、片方がもう片方を好きじゃないと。だって愛の告白なんだもん」

そう言って彼女はあっと驚きの声をあげた。ぼくも思わず目を細める。西日が二人しかいない文芸部室に入り込んできたのだ。太陽に照らされた空中の埃が、まるでぼくと彼女の間を降る雪のようにきらきらと輝いている。ぼくはそれに見とれている。彼女もあるいは、それに見とれている。ぼくは彼女に見とれていた。

「それって、今のぼくたちみたいですね」

「え」

ほとんど声をあげることもできずにこちらを見た彼女の顔は、驚きの感情を孕んでいるのと同時に、少し赤くなっているような気がした。夕焼けのせいかもしれないとぼくは思った。

「さて、先輩」

誰もいない、二人っきりの文芸部室でぼくは先輩と向かい合う。さっきまでにぎやかだった校庭からもいつの間にか音が消えていて、ずっと遠くからカラスの鳴き声がするだけだった。教室の壁に掛けてある古びた時計の秒針の音が妙に大きく聞こえる。

「月が、きれいですね」

 ぼくの言葉にたっぷりの間を使って、そして、口にかすかな笑みを浮かべながら彼女が返す。

「それって、月の話?それとも恋愛の話?」

「それは文脈でわかるんでしょう?それに、」

 ぼくは笑顔で言った

「まだ月は出ていませんよ、先輩」

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