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 春陵社の文学作品コンテストは、このサークルでも挑戦する部員の多い、新人作家への登竜門だ。おれは怠惰を極めたせいでそもそもそのハードルを越えようとすることもしなかった不良部員だが、海先輩は大学の単位を危険に晒しつつ、数本の作品を送り出していた。


 それに、あのコンテストの結果発表は昨日だった。さっき繰り出されたどこか厭世的な喩え話と、涙こそためてはいないが、心なしか腫れぼったくなっている海先輩の目元からも、彼女にもたらされた結果は想像がついた。



「うるせえやい」



 芸術的なそっぽの向き方で、海先輩は海の底の貝みたいに黙り込んだ。

 それでも僅かに開いた隙間に、おれは刃を差し込む。弱った彼女をぺろりと呑み込みたいわけではない。

 もう一度空を見上げてほしい――という、ただそれだけの気持ちだ。



「……たとえ海先輩がその筆をへし折っても、おれは覚えてますよ」



 敢えて先輩が筆を折る前提で物を言ったのは、黙っていたら遅かれ早かれその結末を迎えそうだったからだ。



 真面目過ぎるがゆえに、ひとつのことに一直線。それがダメだった瞬間に、自分にはなんの価値もない……と悔やみ続けるのが森下もりした海という人間だ。これはおれの直感だけに基づくものではなく、酔っ払った海先輩が自分で漏らしていたことでもある。



 続けた。



「先輩の足跡、おれはずっと追いかけてますよ。他の誰もついてこなくていい。むしろ好都合だなと思うし」



 酒も飲んでいないのに口を滑らせたことに気づき、おれは言葉を切った。


 同年目も含め、このサークルの中で誰よりもおれのことを気にかけてくれているのは海先輩だ。その理由が何故なのかは今に至るまで分かっていないので、これから不断の努力で聞き出さなくてはならない。だからこそ先輩がここで文芸サークルから静かにフェードアウトする事態は全力で阻止する必要がある。



 究極的に言えば、どんな拙い文章でも恥ずかしい言葉でもおれが呑み込んでやるから、仮に筆を折ってしまっても、海先輩にはこれからもおれのためだけに言葉を紡いでほしいと願っている。

 それもこれも、先輩が持つ類稀なる語彙力と、それを即座に選択できる才能がおれを引き寄せたせいなわけだから、責任を取っていただきたいのだ。



 どれほどの沈黙が続いただろうか。普段どんな鋭いシュートも絶対に防ぐ海先輩だが、今は次に発する言葉を探しているようだった。

 おれは急かしもしなければ、追い打ちもかけない。出ねえときは何も出ねえよ。小説を書いているときだってそうだ。そのことを先輩はおれよりも、きっと深く知っているはずだ。



 やがて、ふ、と海先輩が溜息をつく。



「――みんなごめん死ねなかった、って言いながら、ウィッシュリスト更新していいかな」



 やっぱり海先輩は、書き手側として送る人生を終わらせるつもりだったようだ。だが先輩も、目の前にいる後輩男子が、ガード下で寒さに震えるホームレスでも戦禍をこうむる人でもなく、最初から自分だけを救おうと決めていたのだ――というところまでは想像が及んでいなかったらしい。


 世の中にはハナから結末が分かっている物語だってあるけれど、そこに至るまでの過程を緻密に描ける力がなければ興醒めしてしまう。海先輩ならばそれも可能だろうが、生憎おれにはそこまでの力が備わっていない。


 だからこそ、正攻法で攻めた。

 最初からおれはあなたの足跡しか追っていませんよ……と伝えただけの話なのだ。



 海先輩は声の調子を取り戻して、訊ねてきた。



「きみのテスト、何講目なの」

「次の三講目で終わります」

「ふーん。じゃあ私、ここで待ってるわ」



 どうやら海先輩のテストは、さっき無勉状態で挑んだ科目にて終わったらしい。それはいいのだけど、おれを待っているということは、これすなわち――。


 海先輩は今日イチの笑顔を浮かべて、言う。



「飲み行こ」

「だと思いましたよ」



 肩の力が抜けていくのを感じた。

 エンタテインメントは最終的に、部屋の棚の中で整然と並び続けることで消費される。数ヶ月、長ければ数年にわたって開かれることのないまま、背表紙だけが日に焼けていく本やブルーレイ。あの姿に不思議な寂しさを感じていたが、ようやく理解した。あの焼けた背表紙こそ、今のおれの姿なのだ。



 実生活で誰の特別にもなれないやつが、誰かの心に残る特別な作品を書けるはずもない。海先輩のことは救えたのかもしれないが、代わりにおれが捨て石となって、両手で力いっぱい筆を折る必要がありそうだ。妄想をエディタに広げてる暇があるなら、現実世界で誰かに向けて両手を広げるべきなのでは……という気さえしてきた。


 まあ、いい。今日はとことん飲みたい気分だ。

 おれは冗談めかして言った。



「頭のてっぺんからゲロ吐いたりしないでくれるなら」

 


 ケタケタ笑って反応した海先輩は、小動物みたいにすばやくおれのほうへ寄ってきた。視界の半分が、先輩の白い髪で埋められる。



 海先輩はおれの耳元に唇を近づけ、囁いた。



「どうせなら、きみの腕の中で吐いてあげるよ」



 できれば、吐くのは甘い言葉だけにしてほしい。



 海先輩のオーダーには定期的にソフトドリンクを挟ませようと心に決め、おれは部室を出た。




/end/

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ためらい傷 西野 夏葉 @natsuha

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