ためらい傷
西野 夏葉
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「自分の足跡なんてさ、残そうと思えば思うほど、風にさらわれてくもんなんだよ」
滑り止め。阻止限界線。起訴猶予。生活保護。
在学生からそんなふうに決してポジティブでない揶揄のされ方をする大学に進学してきて、もうすぐ一年が経つ。おれと同じく海先輩も、本当は旧帝大に行きたかったが行けなかった、国破れて山河在り……という立ち位置の人間だった。周囲にあまりにも同類が多いことに驚いたが、それでもこのあたりの私立大学の中ではそれなりのレベルには位置している。
たまにとんでもない変人や天才が混ざっていたが、その大半は冬に片足を突っ込む時期になると学内に姿を現さなくなった。仮面浪人生たちが今も本気で取り組んでいるのはもう一度全てをリセットするための「第二の受験勉強」であり、現在真っ只中にある大学のテストではないのだった。
今日は所属している文芸サークルの部室で、まともに出ていなかった講義のノートを血眼でカンペに写していたら、海先輩がやってきた。先輩もテスト勉強ですか、と訊くと「テスト今日だったの忘れてた」という地獄のような答えが返ってきた。
海先輩は高校時代、かなりの優等生だったと聞いたけれど、この感じを見ていると本当かどうか疑わしい。初めて制服のブレザーのボタンを外して登校したのは卒業式の日だった……と本人は言っていたが、もしかして海先輩の中では卒業式と入学式がごった煮になっていやしないか心配になってきた。そもそも卒業式まで上着のボタンを外せなかった存在が、そこからたかだか一年半そこらで、自らの髪をコスプレ用ウィッグみたいな真っ白に染める勇気など出せるだろうか。
いつだって新雪のようにきらめく海先輩の髪を眺め、おれは平静を装いながら、もう一度訊ねる。
「足跡が何ですって?」
「考えてもみなよ、青年。どいつもこいつもガクチカだかチチカカだか知らないけどさ、大学生活中に突然募金活動へ凝ってみたり、よくわかんないNPOに肩入れしてやりがい搾取されてみたりしてるじゃん。けど結局それって自分たちが本当にやりたいことでもなんでもなくてさ、たいていの場合は単に〝こんなすごいことをやったんだぜ〟って面接官にアピールするための材料やん?」
「もし間違っていたら申し訳ないんですけど、ボランティア好きか意識高い系男子にひどい振られ方でもしたんですか」
「本当にボランティア好きなら顔も声も知らんどっかの原住民じゃなくて目の前の私を救ってみせろよ、って凄んでみたことも確かにあるよ。でも結論としては、本当は好きじゃなかったんだってさ。ボランティアも、そして私のこともね。神様が私の頭のてっぺんからゲロ吐いてんじゃないかなってくらい不快だった」
海先輩が本当に優等生だったかは、将来おれがジジイになった時、まだ年金制度が存続しているか否かくらい不明確になった。
海先輩はおれのことを特段可愛がってくれている感じがするけれど、それにしたって吐く言葉はひたすらえぐみを増し続けている。矛先がおれに向いていないだけまだマシだが、同時におれは(海先輩にも彼氏がいた時期あったのか)(まああるよな。売り手市場だもんな)などと、確かに傷ついていた。やっぱり彼女は、卒業式と入学式を逆に覚えている説があるな。
ところで。
「それと足跡に、なんか関係があるんですか」
「この世に生きる大多数の人間の生きた痕跡なんて、ただ黙ってたら他の人に踏み荒らされて、死んだ後は指先ほども残んないんだよ。けれど、それでも本当にちょっとでいいから、誰かに自分が生きてたことを知っててほしい……と思うのが人間の本質なの。自分のことなんて誰にも覚えててほしくないって言う奴に限って百発百中でSNSやってるし、死ぬ死ぬ言いながらいつまでもアカウント消さないし、bio欄にアマゾンのウィッシュリスト貼ってるでしょ。みんな覚えていてほしいんだよ。たとえ世界全員にじゃなくてもいい、誰かひとりだけでもいいから、自分が確かにここまで歩いてきていたんだ――ってことをさ」
海先輩の放つ言葉はある意味、自らを護る鎧なのだと思う。歩くたびにガチャガチャと金属がぶつかるような音が耳に響くし、その全てが一音ごとにみぞおちへ一撃を食らった瞬間のような重さを持っている。豊富な語彙と、それを間髪入れず繰り出せる明晰な頭脳。先輩はそれらを駆使して、自分自身を護っている。
しかし、いくら強い鎧でも、可動部がなければ身動きが取れない。だから動けるようにするため、どうしてもその部分だけは強度を出せない。おれが見つけたのは、まさにそんな部分だったのかも知れない。首周りとか、膝の裏とかあたりの。
おれは狙いを定めると、そっと
「海先輩」
「なに」
「
斬りつけた瞬間に漏れた海先輩の息が、狭い部室の空気を揺らした。
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