1.水底の光(4)

(よかった、夢じゃなかった……)

 翌朝、目を覚ました紫苑は、自分が雨の宮に存在できていることに心底安堵していた。

(夢ならどうしようかと思った……あの家にはもう、帰りたくない)

 天宮の家に紫苑の居場所はない。今帰ったところで、言いつけを放置して行方を眩ませたことに激怒して、折檻されるだけだ。

 だから帰りたくないというのもある。

 しかし、それ以上に。

(清藍と会えなくなるのは……嫌だから……)

 優雅で懐深く、美しい神使たちの長。

 一目見たあのときから、紫苑は心を奪われていた。

 寝台を降りて、窓辺に向かう。

 静かな雨が朝陽を受けてきらめき、朝露に濡れた蓮の花が輝く光景がそこにはあった。

 この美しい光景も、清藍の力によるものだ。

『紫苑さま、起きていらっしゃいますか?』

 窓の向こうの景色に見惚れていると、部屋の扉の向こうから千草の声が聞こえた。

 紫苑が扉を開けに行こうとするより早く、扉が開き千草が現れた。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

 紫苑は頷くと、机の上の紙に鉛筆で走り書く。

[よく起きていることがわかったね?]

「紫苑さまが寝台から出る気配がしまして、その後戻る様子がなかったものですから」

[音が聞こえたの?]

「音と言うより、床から伝わってくる振動で判断しております」

(蛇の神使の能力なのかな……)

 だとするなら、千草は確かに側近向きだ。

「すぐに朝食が運ばれてきますので、その間に朝のお支度を致しましょうか」

 千草に促されるまま、運ばれてきた湯で顔を洗い、衣装を着替えた。

 寝乱れた髪を整えてもらっているうちに、朝食の粥と蓮香茶が運ばれて来た。

[千草はもう朝ごはんは食べた?]

「我々神使は、食物による栄養摂取を必要としていないのです」

[お茶とかお菓子があるのはどうして?]

「味や香りを楽しむことはできるので、あくまでも嗜好品です。清藍さまは特にお好きですよ」

 神使たちの見た目は人間と同じであるが、それぞれ能力を有している点や感覚の違いを見ると、やはり別次元の存在なのだと感じる。

 だからこそ、ただの人間である自分が、何故こうして彼らに歓迎され、傅かれていのかがわからない。

(神依と呼ばれたことが関係しているのかな)

 紫苑がここに来た理由も、まだ聞かせてもらっていない。

 時が来れば話すとは言われているが、それがいつ来るのかはわからない。

 もどかしいが、今の紫苑には、その時を待つことしかできない。

「さ、冷めないうちにお召し上がりください」

 窓辺の卓に用意された粥と蓮香茶を少しずつ口に運ぶ。一見簡素な仕上がりに見えたが、しっかりと魚の出汁が取られており、付け合わせの三つ葉との調和も見事だった。

 紫苑がゆっくりと粥を楽しんでいると、側に控えていた千草が不意に部屋の扉を見遣った。

「紫苑さま、少々失礼致します」

 誰か来たのだろうかと思っていると、すぐに叩き金の音が三度鳴らされた。

 千草が扉を開いた先にいたのは、清藍の側近である灰簾だった。

「灰簾どの、如何致しましたか?」

「千草殿、突然の来訪失礼する。こちら、長より紫苑様に預かりものだ」

 突然聞こえた清藍を示す呼称に、手に持っていた匙を危うく取り落としそうになる。

 居ても立ってもいられずに椅子から腰を浮かし、紫苑は二人がいるほうへと駆け寄った。

 灰簾が驚いたように目を見張る。それは千草も同様だったが、すぐに表情を綻ばせてそれを紫苑に手渡してくれる。

 流麗な字で[紫苑へ]と書かれているそれは、手紙だった。

 震えそうになる手で開くと、そこには同じ筆致で一文だけ書かれていた。

[朝咲に満ちる芙蓉の庭にて待つ]

 意味するところがわからず、千草に見せてみる。

 千草は感嘆の溜息を漏らすと、微笑みながら教えてくれた。

「芙蓉の庭は奥宮にある庭園のことです。満ちる芙蓉とは、蓮の花が満開になっている状態を指します」

 朝咲とは字の通り、朝に咲くということだろう。 

 要約すると、朝咲で満開の芙蓉の庭で待っている、ということだろうか。

 この文が意味する答えを、千草は教えてくれた。

「つまり、朝の散策のお誘いですよ」

 会いたくて焦がれていた清藍からのまさかの誘いに、紫苑の心は浮き立った。

「行かれますか?」

 断るはずがない。

 手紙を抱きしめて、紫苑は頷いた。

「ではお返事を……と、まだお食事の途中でしたね」

 千草は逡巡すると、灰簾に向き直った。

「灰簾どの、朝咲の半ば頃に伺うと長にお伝えいただけますか」

「承った。必ず伝えよう」

 灰簾は首肯すると、紫苑に向き直った。

「紫苑様、お食事中に失礼致しました」

 律儀な灰簾に大丈夫という意味を込めて首を振り、手紙を示しながら手を合わせた。

「……では、後ほど奥宮でお待ちしております」

 灰簾は一礼し、去っていく。昨夜は会話する機会がなかったが、こうして面と向かってみると、実直な人柄であることが伝わってきた。

 神使に人柄というのも、なんだかおかしな気がするが。

「さ、紫苑さま。お食事を済ませてしまいましょう。長もきっと楽しみにしておいでですよ」

 千草に促され、紫苑は部屋の奥へと戻る。

 椅子に座る前に、もう一度手紙を開き、その字を指でなぞった。



 日中の奥宮の回廊は、夜とはまた異なる風情だった。

 空は青く、雲一つない快晴だというのに、雨は変わらず降り続けている。陽の光に照らされた雨粒はきらきらと輝き、ところどころに小さな虹が掛かっているその光景は、なんとも言えずに幻想的だ。

「芙蓉の庭は、奥宮のさらに深いところにございます」

 昨晩と同じように、千草が紫苑の先を歩き、案内してくれる。

 奥宮に入り、昨晩清藍と時間を過ごした部屋の前を通り過ぎ、さらに回廊を進む。

 やがて見えて来たのは、色とりどりの蓮の花が咲く池と、雨に濡れた深緑が見事な庭園だった。

(あ……!)

 回廊と繋がった東屋に、二つの影が見える。

 一つは、先ほど会った灰簾。

 そして、もう一つは。

「紫苑!」

 目が合うなり、清藍は端整な相貌に笑みを滲ませた。

 姿が見えただけなのに、もう胸が熱い。

 昨夜会ったばかりなのに、会いたくて仕方がなかった。

 それこそ、夢の中でも会えることを願ってしまったほどに。

 紫苑が東屋に入るなり、清藍は昨夜のように腕を広げて紫苑の身体を抱き寄せた。

「来てくれてありがとう。どうしても其方に会いたくなってな」

(え……)

 思いがけない言葉に咄嗟に反応できずにいると、側にいた灰簾が嘆息するように言った。

「昨晩紫苑様が帰られてからも、好きな菓子はなんだろう、色はなんだろうと、とにかく落ち着きがなかったのですよ」

(本当に……?)

 訊ねるように清藍を見上げると、彼は少し困ったような表情をして紫苑を見つめた。

「では長、我々は外しますので、時間になりましたら参ります」

「わかった。よろしく頼む」

「紫苑さま、私も失礼致します。楽しんでいらしてくださいね」

 微笑む千草に頷くと、二人の側近は一礼し、回廊伝いに東屋を去って行く。

 芙蓉の庭にいるのは、紫苑と清藍の二人きりだ。

「さ、行こうか」

 清藍に促され、庭へと一歩踏み出そうとしたとき、傘を持っていないことに思い至った。

 一応周囲を見渡すが、それらしきものは見当たらない。

「ん? ああ、私の傍にいれば濡れる心配はない。安心しなさい」

 そう言う清藍に再び強く抱き寄せられる。無意識に高鳴る鼓動が伝わらないように願うばかりだ。

 清藍の言葉を信じて東屋から一歩出てみると、雨は二人を避けるようにして降り続けた。よくよく考えてみれば、この雨は清藍の神力によるものだから、このように操ることができるのかもしれない。

「少し歩こうか」

 清藍に抱き寄せられたまま、紫苑は歩き出す。こうしているのがまるで夢のようで、足元が雲を踏むようになんだか覚束なかった。

「ふふ……」

 不意に笑い声が降ってきた。

 紫苑が見上げると、微笑む清藍と目が合った。

「昨夜も思っていたのだが、其方は美しいな」

 どくんと心臓が跳ねる音がする。一気に血が巡り、頬が熱くなる。

「この朝露の中で見る其方はどれほど美しいだろう考えていて、手紙を出さずにはいられなかった」

 清藍の長い指が、紫苑の頬の稜線をなぞる。

 耳殻をくすぐられ、くいと顎を持ち上げられ、紫苑は清藍から目を逸らせなくなる。

「こうして、ずっと見つめていたくなるほどだ」

 本当に、昨夜から自分はおかしい。

 清藍の声を聞くだけで、見つめられるだけで、落ち着いていられなくなる。

 でも、それが厭ではない。

 このときがずっと続けばいいと、思ってしまう。

 その一心で清藍を見つめ返す自分は今、どんな表情をしているのだろう。

「其方に見せたいものがある。こちらだ」

 清藍に案内され、庭園を歩き続ける。

 途中、池に架かる橋を渡ろうしたとき、二人の頭上に煌めくものがあった。

(わあ、虹……!)

 そこには橋の入り口のように、虹の帯が空に架かっていた。

「これは見事だ。どうやらこの庭園が、挙って其方を歓迎しているようだ」

 虹の下をくぐり抜けるという稀有な経験をし、蓮の花の香りが一際濃くなった頃、二人の前に建物が現れた。

 きざはしと濡れ縁があるその建物は、両開きの扉で閉ざされている。造り自体はそこまで難しいものではなさそうだが、おいそれと立ち入ってはいけない荘厳さを湛えていた。

「ここが、私と千草が其方を見つけた社だ」

 そういえば千草が、社で倒れていた紫苑を見つけたと言っていた。ここのことだったのか。

 紫苑を片腕に抱いたまま、清藍は社の階を上がり、扉に手を掛ける。

 自分が入って良いところなのかと清藍を見つめると、彼は微笑んで頷いた。

「ここに立ち入って良いのは、長である私と、神依である其方だけだ」

 その神依の名が示す意味も、未だに聞けていない。

 それが聞けるのは、いつになるのだろう。

 重い軋みを上げながら、社の扉が開く。

 がらんと広いその空間には、簡素な祭壇だけがある。

 祭壇の一番上に祀られているのは、両手に収まらない大きさの水晶玉だった。

(あ……)

 その水晶玉を見た途端、紫苑の脳裏に閃くものがあった。

 滝壺の底で見たあの水晶玉が、紫苑の中で急速に結びついた。

「もうわかったか?」

 清藍に問われ、紫苑は頷いた。

 かつて紫苑がいたあの次元と、神使たちが暮らすこの次元。どういう仕組みかはわからないが、きっとあの水晶玉が二つの次元を繋ぐものなのだろう。

「誰でもこちらに来られるということではない。人間の世界に生まれ落ちる神依という存在だけが、あの水晶を通じて我々の元に来ることができる」

 それが其方だ、と清藍が紫苑を見遣る。

「神依の降臨は、我々神使にとってこの上ない祝福だ。誰もが其方が来ることを待ち侘びていた。……もちろん、私自身も」

 ずっと紫苑を抱いていた清藍の腕が、離れていく。

 清藍のぬくもりが身体から消えて、途端に心許なさに襲われた。

「紫苑。これから言うことは、神使の長としてではなく、あくまでも私の一存だ」

 淡々と告げる清藍に、紫苑は無意識に身体ごと向き直った。

「もし、其方が元いた場所に帰りたいと願うなら、ここに来たときと同様に、あの水晶を使って戻ることができる」

(そんな……!)

 思ってもいないことを言われ、紫苑は左右に首を振ることしかできない。

「ここにいれば、いずれ其方を危険に晒す日が来るだろう。其方が神依である以上、それは決して避けられない」

 今なら何も知らないままに去ることができる。

 これはきっと、無知な紫苑を逃すための清藍の温情だ。

(でも、もう……)

 紫苑は知ってしまった。

 千草や灰簾たち、神使の優しさを。

 そして、この清藍という存在を。

 言われずとも、心はもう決まっている。その一心で、紫苑は清藍の胸に飛び込んだ。

「っ、紫苑……」

 再びあの腕に包まれる。躊躇いがちに、両の腕で。

「良いのか、本当に」

 清藍に問われ、紫苑は何度も頷く。

 神依と呼ばれる自分が、いったいどんな存在なのかはわからない。どんな危険があるのかもわからない。

 でも、清藍から離れることだけは耐えられない。どんな危険があろうと、清藍の傍にいたかった。

「……其方を手離しがたいのは、私も同じだ」

 長い指に、髪を撫でられる。

 その言葉は、いったいどういう意味なのだろう。

(僕が神依だから……?)

 そう思うと、胸の奥がつきんと痛む。

(清藍は、僕が神依だから優しくしてくれている……?)

 胸が痛い。心が苦しい。

 考えれば考えるほど、目の奥が熱くなって、じわりと滲んでくる。

 涙をひた隠すように、紫苑は清藍の胸の中で目を閉じた。

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