1.水底の光(3)
夜。
あてがわれた新しい衣装を纏った紫苑は、千草に案内されながら、雨の宮の奥宮と呼ばれる場所へと向かっていた。
奥宮に続く長い回廊に出ると、しとしとと降り頻る雨と、透き通るような静謐が辺りを満たしていた。
等間隔に立てられた円柱の向こうには池があり、その水面には蓮の花が楚々と咲いている。雨を受けて輝きを増しているその姿がとても綺麗だった。
雨が降っているのに、空がどこまでも高く、澄み切っているのが不思議だった。
「雨が不思議ですか?」
胸の内を見透かしたかのように、先導する千草が振り返って訊ねてきた。
紫苑は素直に頷くと、千草は教えてくれた。
「この雨こそが、ここが雨の宮と呼ばれる所以です。清藍さまのお力によって降り続ける雨が、宮を守る結界の役割を果たしています。それによって、宮の中の清浄な空気が保たれているのですよ」
これが神力による雨と知り、どうりで空気が澄んでいるはずだと納得がいく。実際ここに来てからというもの、なんだか呼吸が楽になった感覚が紫苑にもあった。
雨の音だけが響く静かな回廊を歩き続け、やがて奥宮と思しき建物の中へと入っていく。
中に進むにつれて、背中越しに聞こえていた雨の音が遠くなる。
「こちらです」
千草が大きな両開きの扉を示して足を止めた。
「こちらのお部屋で、長がお待ちです。……準備はよろしいですか?」
そのように問われ、紫苑は頷く。不思議と緊張はしていない。
「来る前にもお伝えしましたが、何一つ気兼ねなく、ありのままの紫苑さまを長にお見せください」
紫苑はもう一度頷く。それも再三伝えられていたことだった。
とはいえ念のため、襟を正し、衣装に汚れがないかを確認する。
「大丈夫ですよ。とても素敵です」
千草がそう笑ってくれて、紫苑も笑い返す。ゆくゆくは、千草とももっと仲良くなれれば良いと、心の底から思った。
「では」
一瞥ののち、千草は扉の叩き金を三度打つ。
ほどなくして内側から扉が開き、くすんだ灰色の髪と藍色の双眸の男が中から現れた。
「
「お待ちしていた」
灰簾と呼ばれた男に大きく扉を開かれ、千草に中に入るように促された。
「長、神依様が参られました」
灰簾が向き直った先を見遣ると、そこには長身の男が立っていた。
その男を見た瞬間、時が止まったような錯覚に陥った。
(このひとが……)
豊かに流れる青みの強い銀髪、鋭い輝きを湛えた金色の瞳。
掘りの深い完璧な男性美に溢れた容貌は、優雅さと雄々しさの両方を併せ持っている。
衣装越しにもわかる均整の取れた身体は、紫苑よりも遥かに大きいのに、それでいて威圧感はない。
紫苑の視線を捉えて離さない。離せない。
世にも美しい男が、そこに存在していた。
「──紫苑」
目の前の美丈夫が、艶やかな深い声で名を呼んだ。
見惚れていた紫苑が我に返ると、彼は側に来るように手招きをした。
(どきどきしてきた……)
先ほどまで平然としていたのに、いざ相対するや否や鼓動が速くなってきた。
しかし、危機感や切迫感とは異なる緊張で、不思議と嫌な感じではない。
胸の高鳴りを抱えながら、紫苑は懸命に足を動かす。
紫苑が手の届く距離に来ると、清藍はそっと肩を抱き寄せてきた。
「緊張せずとも良い。楽にしなさい」
心の底まで響くような声に言われ、全身の力が抜けた。初めて耳にする声のはずなのに、酷く落ち着く。
「灰簾、千草、茶と菓子の用意を頼む」
「は」
「かしこまりました」
二人の神使に指示を出すと、清藍は紫苑を丸い卓のある椅子に案内し、自らも斜め向かいに腰掛けた。
卓の上には、帳面と鉛筆が用意されていた。
「千草から話は聞いている。これらを使いなさい」
[ありがとうございます]
早速感謝の言葉を綴ると、清藍は微笑んでから頷いた。
「既に気づいているとは思うが、改めて。私がこの雨の宮の長、龍の神使・清藍だ」
清藍の自己紹介を受け、紫苑も帳面に鉛筆を滑らせる。
[天宮紫苑です]
「美しく、響きの良い名だな」
褒められて、胸の内がほんのりと温かくなった。
「ここに来てからというもの、慣れない環境で落ち着かなかっただろう。疲れているのではないか?」
[千草がいてくれたので大丈夫です]
「ああ、
清藍の答えに紫苑は頷く。言外にこれからも千草が側にいてくれるとわかり、ひとまず安心だ。
[清藍様]
「清藍」
書いている途中でそのように言われた。
驚いて帳面から顔を上げると、穏やかに微笑む清藍のまなざしと視線が合った。
「私に様づけは不要だ。ぜひ清藍と呼んでほしい」
[良いのですか?]
「構わない」
どうやら清藍は、隔たりのない関係を紫苑に望んでいるようだ。
[わかりました]
紫苑が了承の答えを返した間合いで、お茶と菓子を持って灰簾と千草が戻ってきた。
卓の上に色とりどりの菓子が置かれ、白磁の茶器に琥珀色の茶が注がれる。
茶器を持ち上げた清藍は香りを確認すると、笑みを深くした。
「
「はい。この良き日に、清藍様の好きなお茶を紫苑様にもと思いまして」
「さすが灰簾だ。心遣いに感謝する」
清藍と灰簾のやり取りを見ていた紫苑は、おもむろに千草のほうへと顔を向けてみた。
「紫苑さまも、どうぞお召し上がりください」
促されるままに茶器を手に取り、一口含んでみた。
すっきりとした味と、華やかな香りが鼻に抜けてくる。初めて知る味と香りだが、飲みやすい。
「気に入ったようだな」
清藍に言われ、紫苑は頷いた。
「蓮の花で香り付けした茶だ」
[ここに来る途中にも蓮の花を見ました]
「気づいたか。蓮は私の一番好きな花なのだ」
清らかな雨を降らせる清藍と、清廉と咲く蓮。とても素敵な取り合わせだと紫苑は思う。
「この菓子も食べてみてほしい。蓮花茶に合うぞ」
勧められるがまま菓子にも口を付けてみると、上品な甘さが舌に溶けてくる。こんなに美味しい菓子、今まで食べたことがない。
「口に合ったようでよかった」
紫苑が何も言わずとも、清藍は表情や所作から感情を読み取ってくれた。
「……正直、其方が言葉を発せないと知らされたときは、うまく会話ができるか心配だった」
唐突に語られた清藍の本心に、紫苑は納得する以外ない。紫苑も、初対面の人に事情を伝えるときはいつも身構えてしまう。
親切にしてくれる彼らに不便をかけていることが、心苦しい。
紫苑は謝罪の気持ちを示すべく、鉛筆に手を伸ばそうとした。
「だが、杞憂だったな。言葉がなくとも、其方の表情はとても雄弁だ」
目を見開き、清藍を見つめる。
そんなことを言われたのは、初めてだ。
「おや、自覚がなかったか? 茶と菓子を気に入ってくれたのも、この部屋に来たときに私に見惚れていたことも、すぐにわかったぞ」
かあっと頬が熱くなる。あの僅かな時間で、そこまで見抜かれていただなんて。
「赤くなって、其方は素直だな」
心を覗かれたようで恥ずかしい。
でも、厭ではない。
「触れても良いか?」
応える間もなく、清藍の手が伸びてきて、頬に触れられる。
清藍の手は大きく、少しだけ冷たかった。
(また……)
胸が高鳴る。清藍に触れられているところから、この鼓動が伝わってしまうのではないかと不安になる。
けれど、それ以上に心地良い。このままでいたい。
いっそのこと、清藍にはすべてを明かしてしまいたい。
「声を出せないことを後ろめたく感じる必要はない。ここにいる者は皆、其方を歓迎している」
そうであろう? と清藍は灰簾と千草に目を配せて問う。二人とも揃って首肯していた。
「其方は何を憚ることなく、ここにいてもらいたい。──皆、其方の味方だ」
清藍の言葉が、深く響く。
凍っていた心の奥が、溶けていくのがわかる。
父から引き離されたときから、紫苑に味方はいなかった。
どこにも居場所がなくて、世界から爪弾きにされたような気持ちで六年間を過ごした。
──誰でもいい、連れ去ってほしい。
──ここではない、どこか別の世界に。
(願いが、叶った……?)
しかもこの世界では、皆が紫苑に親切にしてくれる。
わからないことは多い。ここに来たのには、何か理由や目的があるのかもしれない。
それでも、彼らと共にいたいと、心から思った。
清藍と別れ、千草と共に奥宮から戻ってきた紫苑は、衣装を夜着に着替えた。
先まで一緒にいた清藍の姿が、眼裏から離れない。
深く艶やかな声が、耳の奥で響いて消えていかない。
(また会いたいな……)
今度はいつ会えるだろうか。会いたいと伝えれば、会ってもらえるだろうか。
「紫苑さま、寝台の準備が整いました」
寝具を整えてくれていた千草に声をかけられ、紫苑ははっと我に返った。
「いろいろなことがありましたから、お疲れかと思います。少し早いですが、今夜はもうお休みください」
正直まだ眠気はないのだが、ここは千草の配慮に甘えることにして頷いた。
「明日の朝は起こしには参りませんので、心ゆくまで休んでいただいて問題ございません。私は隣の部屋で待機しておりますので、ご用がございましたらこちらの紐を引いてお呼びください」
寝台の頭部の付近に垂れ下がっている紐を指して千草は言う。これがどうやら隣の部屋に繋がっているらしい。
「ご不明な点などはございませんか?」
最後まで心を尽くしてくれる千草に首を振る。あとは休むだけだから、問題ないだろう。
「では紫苑さま、おやすみなさいませ」
一礼して去って行く千草を見送ると、部屋の中はあっという間に静かになった。
すぐに横になっても良かったのだが、紫苑は窓辺に行き、外を眺めた。
静かな雨が降り続けている。
この清らかな雨が清藍の力によるものと思うだけで、胸の奥があたたかくなる。なんだか清藍に包み込まれているような感覚だった。
(なんて素敵なところだろう……)
ずっとここにいられたらいい。
ずっとここにいたい。
何よりも、清藍の傍にいたい。
こんな気持ちになるのは、生まれて初めてだった。
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