神子は聖なる血を流す

紗々匁ゆき

1.典礼

プラエネステ王国グロリア大聖堂 神子の戒律

 一、公平であれ

 二、私欲に走るなかれ

 三、恋をするなかれ



 信心深きプラエネステ王国の国民は、週末になると挙って朝から近くの教会へ典礼に赴く。

 典礼では皆が司教の説法に耳を傾け、主なる神に日々の安寧と平穏を祈るのだ。

 国内に数多くある教会の中でも、もっとも多くの人々が訪れるのが、王都にあるグロリア大聖堂である。

 このグロリア大聖堂には、国中の教会の司教たちの長である大司教が住まい、人々の心の拠り所として奉仕している。

 しかしもう一つ、人々がこのグロリア大聖堂を訪れる理由があった。


 一面大理石の壁と柱に支えられた、荘厳なるグロリア大聖堂。

 週に一度の典礼の日である今日は、多くの信徒たちが訪れ、大聖堂に仕える聖堂騎士たちが広間を囲むように立ち並び、警護に当たっている。

 そんな厳粛な空気の中、大広間いっぱいに集まった国民たちの視線が、壇上に立った二人の人物に注がれていた。

 一人は灰色の瞳の、暗褐色の長い髪を背中で緩やかに結んだ、長身の人物。

 白を基調とした金色の刺繍と縫い取りが華やかな祭服と司教冠ミトラを身につけ、怜悧な美貌に柔和な笑みを浮かべているのは、若き大司教・クレドだ。

 そして、クレドの隣に控えるもう一人は、ほっそりとした身体にクレド同様に祭服を纏っている青年だ。

 しかしこちらは司教冠ではなく、柔らかな白金色の髪に華奢な造りのサークレットを戴いている。髪と同じ色の睫毛に縁取られた大きな碧色の瞳に深い慈悲を滲ませ、優しい微笑みを浮かべていた。

「我らが主である神より、恵みと平安が、私たちにありますように」

 大司教クレドが祈りの言葉を唱えると、その場にいる全員が静かに瞑目する。──典礼の始まりだ。

 呼吸三つほどの沈黙を経て、クレドが再び口を開いた。

「今日は神子についてのお話しをしましょう。神子とはその名の通り、我らが主である神の子であり、またはその化身とも云われています。どんな病や怪我も癒やす力を持ち、過去にその力で以って、多くの人々を、そしてこの国を救ってきました」

 そう語るクレドの眼差しが、隣に立つ青年へと向けられる。青年は微笑んだ。

「神子は過去何度もこの世に生まれ落ち、そのたびにその力を我らのために注いでくださいました。そして今もこうして、私たちと共に同じ時を生きている。神子の存在こそ、神が我らに与えたもうた慈悲なのです」

 熱心に聞き入る人々の中に、啜り泣く声が混ざり始め、中には手を合わせる者までいた。

 クレドはそんな彼らを一瞥し、口元に笑みを刻んだまま頷いた。

「どうか、我が主なる神と神子への感謝の気持ちを忘れないでください。──では、神子」

 クレドが促すと、隣に佇んでいた青年が動き出し、壇上から降りた。

 青年が同じ場所に降り立つなり、人々はわっと寄って集まった。

「神子様、脚が痛くて歩くのもつらいのです。癒しをいただけませんか」

「私の妻が重い病を患ってしまったのです。どうかお慈悲を」

「腕の骨を折っちまったんだ。このままじゃ仕事ができねえ」

 口々に癒しを求められる中で、青年はふと、ぐったりと椅子に座り込んで目を閉じている少女に気がついた。

 足早に駆け寄り、膝を折って目線を合わせると、隣にいた母親らしき女性が慌てて居住まいを正した。

「この子は?」

 青年が訊ねると、母親は震える声で応えた。

「生まれつき身体が弱くて、ここ最近ずっと体調が悪いのです。お医者様からも、もう……長くはないと、言われてしまって……」

 嗚咽混じりに話した母親の目からは、やがて大粒の涙が溢れた。可憐の盛りであるはずの少女の顔はすっかり青褪め、見る影もなく痩せ細ってしまっている。

 青年は少女の手を取ると、両手で包み込むようにし、そのまま瞑目した。青年の手の中に温かい光が宿った瞬間、周囲から感嘆のどよめきが上がる。

 しばらくそうしていると、やがて少女の頬にほんのりと赤みが差し、力なく閉ざされていた瞼がゆっくりと開いた。

「みこさま……」

 少女の声に気づいた青年は、目を開けて微笑んだ。

「気分はどう?」

「不思議。さっきまで身体が重かったのに、今は凄く軽いの……」

「ああっ……!」

 少女の言葉を聞いた母親が、嗚咽しながら少女を抱きしめた。たった今目の前で起こった奇跡に、周囲からもまた驚嘆の声が上がった。

「神子様、私にもお力を!」

「私にも!」

「神子様!」

 次々に癒しを求めて押し寄せる人々に、青年……神子は一人ずつその力を以って応える。すべてを終える頃には、間もなく日が暮れようとしていた。


 夕餉と清拭を終え、寝台に身を横たえ休んでいたとき、神子の部屋にクレドの使いと名乗る小間使いが訪れた。

 神子は身を固くしながらいつも通り支度を整え、クレドの部屋を訪ねた。

 神子を出迎えたクレドは、その美しい相貌に笑みを浮かべた。

「疲れているところを呼び立ててすみません。今日もよく頑張りましたね」

「ありがとうございます」

 神子は、クレドの労いに応えるように、軽く頭を垂れた。

「貴方を引き取ってから、もう十六年になりますか。すっかり立派になって、神子の役目を果たしてくれていますね」

 今年十八歳になった神子は、二歳になるかならないかの年の頃にその力が顕現し、クレドに引き取られて以降、この大聖堂で神子の修行と教育を受けながら暮らしてきた。

 崇敬の対象としてこの大聖堂に住まい、癒しを欲している人々にその力を使う。

 そんな日々の繰り返しに、神子は何の不満も抱いていなかった。

 この力が特別であることは、クレドから徹底的に教え込まれてよくわかっていたし、力を振るうことによって人々が幸せになることが何よりも嬉しかった。

「僕が務めを果たせているのは、クレド様の教えがあったからです。とても感謝しています」

「礼には及びませんよ。……私も、貴方には感謝してもしきれませんから」

 そう言ってクレドは、部屋の隅にある机の引き出しの中から光るものを取り出した。

 丹念に磨き抜かれたそれが、鏡のように虚像を映し出す──その正体は、短剣だった。

「さあ」

 クレドに促され、神子は自ら纏っている祭服を緩めた。

 肌蹴た祭服の中から、日に焼けていない真っ白な肌と、無数の傷痕が残る肩と胸が露わになった。

 クレドは神子に背を向けさせると、指先で右肩の後ろ辺りをなぞる。

「昨日の傷も塞がっていますね。もう痛みませんか?」

「はい、大丈夫……です」

「いつもより深く傷つけてしまったので、心配していたのです。でも、さすが神子ですね」

 神子が背を向けている背後で、クレドが短剣を昨日とは反対の左肩に近づける。

 膚に触れる冷たい刃に、神子は無意識に身体を強張らせてしまう。

「大丈夫、今日は気をつけますから。さ、力を抜いて……」

 捕らえるかのように、クレドの左手が神子の腕を掴んだ。

 肩に押しつけられた短剣が、皮膚と肉を裂きながら膚の上を滑っていく。

「──……っ!」

 鮮烈な痛みと刃の感触に、神子は声を殺すように唇を噛んだ。

 傷口から溢れた血を見るなり、クレドは手に持っていた短剣が音を立てて落ちるのも構わずにむしゃぶりつく。

「ああ、素晴らしい……!」

 恍惚とした声を上げながら、クレドは神子の血を啜る。滴る血を余すことなく舐め取り、時折傷口を舌でこじ開けるようにして、更なる出血を促した。

「あ……あ……」

 血が流れ出ていくたびに、神子の視界はまるで貧血を起こしたときのようにぐらぐらと揺れた。

 気が遠のくたびにクレドの舌の感触によって思惟を引き戻され、この痛苦が永劫のもののように錯覚した。

 どれほどの時間そうしていたのか、やがて傷が塞がったことを悟るや否や、クレドは口惜しそうな表情を浮かべつつも唇を離した。

「……今夜はもう大丈夫です。いつもありがとう」

「いえ。クレド様のご病気が良くなるのでしたら、このくらい……」

「貴方が毎晩こうして血を分けてくれるおかげで、今はとても落ち着いています。ですが、貴方に負担を掛けてしまうことだけが、気掛かりでなりません」

「これも僕に与えられた役目です。それに、クレド様はこの国に必要な方ですから」

「……貴方は優しい子ですね」

 乱れた神子の装束を、クレドが直してくれる。神子は自分でやると申し出たのだが、血を分けて貰っているのだからこれくらいやらせてほしいと言われた。

「さあ、部屋に戻って休みなさい」

「はい……」

「おやすみなさい。良い夢を」

「おやすみなさい……」

 クレドの部屋を辞した神子は、一気に重くなった身体を引き摺るようにして自室へと引き返す。先ほど切り裂かれ、蹂躙された肩が痛む。

 ──癒しの力を使った後は毎回疲労するが、近頃その傾向がより顕著になっている自覚が神子にはあった。特に、先ほどのようにクレドに血を差し出した後は、歩くのが精一杯なほどに身体が疲弊している。

 もしや、と脳裏をよぎる予感を振り払い、神子は一心に足を進める。

 今はとにかく考えるよりも、少しでも早く横になって眠りたかった。

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