第6話
「鴨川さん、俺のマグカップそっちにいってないかな?」
「あー、ちょっと今手が離せないんで勝手に見てもらってもいいですか?」
「はいよー」
穴からひょいっと顔を覗かせた磯辺さんに目もくれず、テレビ画面にかじりつく。
そういえば洗い物の中に混ざってた気がするから渡してあげたいけど、なんせテレビが佳境なもんで。
……っていうか、磯辺さんまた自分のこと『俺』って言ったな今。
「あったあった。ごめんね洗ってもらっちゃって」
テレビが佳境なもんで、これまた目もくれず親指を立てて「どういたしまして」の意を伝えた。
なんていいながらも、頭の中では磯辺さんの一人称が気になって仕方がない。
最初は『僕』で今は『俺』。そして観察してみると私以外の人の前では『僕』のままだったりして、少しは気を許してくれているのかな、なんて思ったりもする。
「あ、珈琲豆きらしてたんだった……買い出し行ってくるけど、鴨川さん他に何かいるものある?」
「ない――あ、磯辺さんこの前電池もないって言ってた気がする」
「すっかり忘れてた。流石鴨川さん、ありがとう………ちなみに単三?単四?」
「単三です……っていうか!私すっごく真剣にテレビ見てるんですけど、佳境なんですけど」
「えー」
えーじゃないよ、えーじゃ。
「だって鴨川さん本当に集中してる時は受け答えしないからいいのかなって」
「……仰る通りで…」
「でも邪魔しちゃってごめんね?とりあえずその二つ買って来るから、もし何か追加であれば連絡して」
「はーい、行ってらっしゃい」
・・・
チャイムが鳴った。鳴っているのは磯辺さんの方のチャイムだし、いつもなら勝手に出るわけはない。だけどこの日に限っては「頼んでる郵便物が中々届かないんだよなぁ」とぼやいてたため「この機を逃すわけには!」と変な使命感を抱いてドアを開けた。開けてしまった。
「あら?ここは磯辺の自宅で間違いないかしら?」
宅配のお兄さんが立っているかと思いきや、そこに立っていたのは着物を綺麗に着こなす中年のおばさまで。
「…………えっと、大変失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「磯辺秀二の母ですが、あなたは……?」
やべ、マジで大変失礼だった。
「すみません、鴨川真紀と申します。今磯辺さん……えっと、秀二さんは外出していて、少ししたら帰って来ると思うんですけど……」
「そうなのね」
磯辺さん、お母さんが来るとか言ってたっけ?いや、言ってないよね?いやもう言ってたかどうかとかこの際どうでもいい。おもてなしだ。おもてなししないと。
「はい…………あの、と、とりあえず上がって下さい。そうだ、ちょうどお昼時ですしお腹減ってませんか?」
「えぇ、そういわれてみれば…」
「何か作るので、どうぞどうぞ。お嫌いなものとかありますか?」
「特には……」
「分かりました」
そう言うや否やすかさず部屋に入り、部屋の穴を隠し、出来あいながらも中々の料理を作り、お皿に盛りつけ、磯辺ママのお言葉に甘えて私も一緒に食べることになった。
そうして、一緒に食べ、一緒にテレビを見ながらようやく思う。
「いや、私は何をしてんだ」と。
恋人でもない女が息子の部屋にいて、勝手に冷蔵庫を開け、食材を使うなんて…。
第一声から失礼極まりない私に何も言わず、「結局お前は息子の何なんだ」なんて質問もせず、食事は褒めてくれる磯辺ママ。なんて心の広い人なんだ。
「え、何してんの…?」
「あ、お帰りなさい」
「ただいま……って、え?母さん何してんの!?」
「来ちゃった」
「いや、来ちゃったって…いや待って、何作らせてんの!?」
「あ、ごめん。これは私が勝手に作っちゃって。磯辺さん……じゃなくて秀二さんも食べます?珈琲は食後でもいいですよね?」
「あ、うん。じゃあもらおうかな…」
「はい、今すぐ準備しますね」
「ありがとう………じゃなくて!俺がするよっ」
磯辺さんが帰って来るまでの間に多少なりとも磯辺ママと打ち解けたせいか、今この部屋の中で一番混乱しているのは磯辺さん。慌てて後を着いてくる姿が子犬みたいだ。
「ごめんね、気遣わせちゃったでしょ」
「いえ、緊張はしましたけど、楽しくお話させていただきましたよ」
「そう、ありがとうね。――よし、じゃあこれ持って先に戻っててくれる?」
「はい」
磯辺ママと私の分の食後の珈琲を持って戻ると磯辺ママから一言。
「真紀さんはやっぱり秀二の恋人なのね。これからもあの子のことよろしくお願いしますね」
「違います」「違うから!」
反射的に否定すると、ちょうど自分の分の食事を持って戻ってきた磯辺さんと声が重なった。
「あら、違うの?」
「違うって。俺なんかに鴨川さんは勿体ないから」
「そんなことは…」
磯辺さんの言葉を聞いて、私も「私なんかに磯辺さんは勿体ないです」って付け加えればよかったなと後悔。
それからしばらくして、磯辺ママは
「ごめんなさいね真紀さん。真紀さんと喋ってる時、秀二の一人称が『俺』になってたからてっきり…」
という言葉と共に笑顔で帰って行った。
無自覚な一人称の変化だったらしく扉が閉まった後も固まっている磯辺さん。一人称自覚中の磯辺さんを待つのはやめてあげようと先に部屋の中に戻ると少しして「え!?」という磯辺さんの声が聞こえた。聞こえ方からしてまだ玄関で固まってそうだ。
バタバタと慌てた様子で「俺、『俺』って言ってた!?」なんて恥ずかしそうに聞いてくるもんだから内心「今も言ってますけどね」と思いながら揶揄うのを我慢して「特に意識したことはなかったけど、言われてみると確かにそんな気もしてきました」と返した私の優しさに、いつの日か感謝してもらおう。
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