第3話「霧のあと」

 谷の底は、前よりも少しだけ明るくなっていた。


 霧はまだ濃いものの、時間の経過とともに、空の白さがゆっくりと和らぎはじめている。

 アイリスはゆっくりと身体を起こし、手足を確かめた。全身に細かい痛みはあったが、動かせないほどではなかった。


 ——生きてる。


 その事実に、少しだけほっとした。


 だが、すぐに胸の奥が“ぽつり”と空白になるような感覚があった。


 あの感覚。あの気配。

 人ではない、でも確かに“誰か”がそこにいたという記憶は、まだ胸に残っていた。夢だったのか。幻覚だったのか。それとも……。


 アイリスは荷の中から応急セットを取り出し、砂まみれの膝を拭いながら、ふと目を上げた。


 そこに、《ルタ=エスト》がいた。


 葉の先端に、小さな“赤”が見えた。


 さっきまでなかった——いや、“なかったはず”の赤。

 それは新しく伸びた芽のように思えた。霧の中で膨らみ、わずかに色づき、光を吸おうとしているようだった。


 「……成長したの?」


 そんなはずはなかった。《ルタ=エスト》は生長がきわめて遅く、環境の変化に極端に敏感だ。人の気配だけでもしおれてしまうことがある。


 だが、この葉は、まるでアイリスが落下していた間に、何かを受け取っていたようだった。


 アイリスは静かにしゃがみこみ、葉に触れずに観察を始めた。

 温度、水分量、葉の厚み、表面の反射率、微弱な発光反応……。端末が示す測定値は、ほんのわずかに、けれど確実に変わっていた。


 違和感は、以前にもあった。

 ——半年ほど前、南部調査区で採取した草本。あのときも、触れた瞬間に静電反応とは別の“ざわめき”のようなものを感じたことがある。


 夜間、風のない時間帯だった。

 ただ一輪の開花直後、花弁の内側から微弱な発光が見えた。

 仲間に話しても「測定器の誤差だろう」と返され、それ以上は追求されなかった。


 当時は疲労のせいかと思っていた。だが、今こうして霧の中にいると、あのときと同じ“静かななにか”が、この植物の奥から伝わってくる気がした。


 ——まさか。でも。


 心のなかで誰に向けるでもなく、問いのようなものが浮かんでくる。


 あの存在。“誰か”としか呼べなかった、霧の中のまなざし。


 なぜか分からないけれど——その気配には、女性のような優しさがあった。


 それはただの印象かもしれない。名前も、声も知らないまま。

 けれど、アイリスの心のどこかが、その存在を“彼女”と呼ぶことに、迷いを持たなかった。


 谷の霧は、まだ晴れていなかった。


 けれど、彼女の気配は、そこに残っていた気がした。


 アイリスはしばらく立ち尽くし、空を見上げた。


 霧は空に向かってゆっくりと溶けてゆく。

 その奥には、やわらかな光が浮かんでいた。星とも雲ともつかない、淡い瞬き。

 何かが始まる前の、ほんの短い、静かな呼吸のような光。


 それは、見慣れた夜とは少し違っていた。

 けれど、不思議と、懐かしかった。

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