第2話「邂逅」
あたりは、静寂だった。
音がなく、光もなかった。けれど、そこには確かに“何か”が存在していた。
意識と無意識の境界が曖昧になって、アイリスはただ、自分の中に流れ込んでくる“気配”に身を任せていた。
夢だろうか。それとも死の間際の幻だろうか。けれど、そのどちらとも違うと、どこかで分かっていた。
——誰かが、いる。
視界を開いているのかどうかも分からなかった。
ただ、真っ白な空間の中心に、まるで“まなざし”のような存在があった。
輪郭も、影もない。重力も上下も分からない場所。
でもそこには、はっきりと「誰か」が立っていた。
人のようで、人ではない。けれど、確かに“誰か”がそこにいた。
アイリスは問いを発することもできなかった。言葉はこの空間にそぐわないと、本能的に感じていた。
代わりに、心の奥で思ったことが、波のように伝わっていく。
——あなたは誰?
——ここはどこ?
返ってきたのもまた、言葉ではなかった。
**やわらかく、遠く、けれども確かに生きていた記憶のかけら。**
空を見上げる小さな背。
水をたたえた石畳。
誰かの手が、風に揺れる草をそっと撫でている。
小さな火を囲む気配。ひとつの影が、やさしく誰かの髪を撫でるように手を伸ばして——
それらは映像というよりも、**感情そのもの**だった。
懐かしさと、痛みと、永い孤独のようなものが滲んでくる。
アイリスは、それをただ受け止めるしかなかった。
まるで、誰かの記憶を“預かる”ような感覚。
それは重くはなかったけれど、確かに“生きていた”ものの一部だった。
身体の中心に、静かに沁みてくる。
——どうして……泣いてる?
自分でも分からなかった。けれど、頬を伝う涙は止まらなかった。
誰のための涙なのか。自分のものなのかすら分からなかった。
その存在は、ふっと消えた。
霧の中にはもう、誰もいなかった。
でも、さっきまでそこにあった“気配”の余韻だけが、まだ空間の隅に残っている気がした。
そして——
「……ぅ、く……」
まぶたの裏が熱い。現実の光が差し込んでくる。
目を開けると、視界の端に《ルタ=エスト》があった。どうやら谷底の浅い凹みに落ちていたらしい。奇跡的に、大きな怪我はない。
身体は重く、土の感触がひんやりとしていた。
霧はまだ深く漂っていたが、それがもう違うものに思えた。少しだけ、音が戻ってきていた。
——夢だったのかもしれない。
でも、胸の奥に触れた“なにか”は、まだそこにあった。
それは、誰かの記憶。あるいは、想い。
アイリスは静かに身体を起こし、霧の底を見渡した。
そして、ひとつ深く呼吸をした。
霧は、まだ晴れていなかった。
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