第3話「帰りたくない」
その日は、図書委員の仕事が早く終わり、誰もいない教室でひと息ついていた。
紅い斜陽が窓から差し込む光景は、まるで恋愛・青春ドラマのワンシーンのようで、これを若者言葉で表現するならば、エモい、だった。
そんな気持ちでいながら、誰もいない空っぽな教室を眺めていた。
教室は気まずいくらいに静まり返っていて、上の階から聞こえる吹奏楽部の楽器の音色や、グラウンドの野球部の乾いた音などを独立させていた。
普段ならざわざわと落ち着かない教室が、今だけはしんとしている。
「へぇ…。何だか不思議な感覚」
私は自分の机に座りながら、ポケットからスマホを取り出して、そこにイヤホンを繋げた。
そして、音楽のアプリからGReeeeNの『勿忘草』を選曲し、そのまま音楽の世界に潜っていった。
………「あの、あの?」
どのくらい時間が経ったのか次に目が醒めると、外は真っ暗になっていた。
教室は電気がついており、となりの机には花本さんが座っていた。一体いつから、そこにいたのだろうか?
「は、花本さん?!」
「あ、起きた」
「いつからそこにいたの?」
「4時半過ぎにはいたよ」
4時半過ぎ…ということは、私が寝落ちし始めた辺りか、その少しあと辺りだろうか。
それにしても、花本さんに寝顔を見られてしまった。変な顔をしていないといいが…。
花本さんは隣の席に座って本を読んでいた。ブックカバーで隠されて、何の本を読んでいるのかは分からなかったが、ページを見る限り、少なくとも漫画ではないだろう。
「お疲れだったのかな」
「え?」
「委員会とか大変だもんね。お疲れ様」
花本さんはそう言って微笑んでいた。
私は恥ずかしいような、照れのような、何とも複雑な気持ちになって、左耳にイヤホンを突っ込んだ。一時停止にしていなかったのか、次の曲が流れていた。
「そ、そんな。花本さんも、お疲れ様」
「私は少し散歩してただけだよ。姫野さんは委員会でしょ?図書委員だっけ?」
「そう。図書委員で、まだ1年生だから本の整頓とかばかりなんだ」
「そうなんだね。貸し出しはやってないんだね」
「うん。そっちは先輩や司書さんの仕事らしいから」
「そっか」
私は少し音量を上げる。左耳は音楽に、右耳は日没の環境の音を拾っている。
花本さんは、再び本を読んでいる。
「何の本を…読んでいるの?」
私は、いつの間にか花本さんに訊ねていた。
私の質問に、花本さんは微笑みながらブックカバーを外して、
「詩集だよ」と答えた。
「詩集…?詩集って、宮沢賢治とか、谷川俊太郎とか?」
「そう。俊様の詩集なんだ」
「シュンサマ?」
「あ、ごめん。谷川さんの詩が大好きで…ついそう呼んじゃうんだ」
花本さんは、開いているページを私に見せながら、
「特にこの詩がお気に入りなんだよね」と言って楽しそうに語っていた。
私は谷川俊太郎の詩には触れたことはあるが、本格的に詩集を読むのは初めてだった。
「ほうほう……」
最初に感じた感想は、「宇宙の中にいるような気分」だった。
谷川俊太郎という一つの惑星があって、その周りを小さな詩(衛星)が廻っている。
そんな風にしてこの詩集は出来上がっており、彼の詩を理解するころには彼そのものを理解するという結果となるんだと感じた。
「なるほど。改めて読むと、面白いね。子供っぽかったり、大人っぽかったり。その両方に当てはまるところが、私が魅力的に感じたところかな」
私は読んだ時の素直な感想を花本さんに伝えた。
花本さんはパアっと明るい笑顔を浮かべて、
「だよねだよね!そう思うよね!」と、激しく同意していた。
話を聞くに、花本さんは中学校の頃から谷川俊太郎を読んでいて、それと同時に文学(とくに詩)にのめり込むようになったらしい。
「他にも好きな詩人はいるんだけど、ダントツで俊様が好きかな」
そう言う花本さんの表情は、これまで見てきたどの表情よりも、楽しそうだった。
………やがて、今日最後のチャイムが鳴った。時刻は6時を過ぎていた。私もそろそろ帰らなければいけない。
「そろそろ、帰ろっか」
私は荷物をまとめながら、花本さんに言った。
「う、うん……」
それを聞いた花本さんは、何だか不安気で、寂しそうな眼をしていた。
それはまるで、初めて会ったあの夏の日と、同じような瞳だった………。
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