5-5 赤の誓い
「テオは血行が良くないのではありませんか?いつも唇の色が悪いようですもの」
「あぁ、小さな頃からずっとそうだ。夜眠る前に暖かい飲み物を飲んでいるが……」
「ハーブティーですわね、宿舎でもそうしていらしたもの」
「アイリスはすぐに出ていってしまったのに、よく覚えていたな」
「ふふ、あの時はアステル様から新しい試験を言い渡されたばかりでしたねぇ」
「そうだったな。まだ、黒の国に来て一月くらいしか経っていないのに……恐ろしいほど目まぐるしく環境が変わる」
「あなたたちもしっかり試験に合格してましたね。星隔帯に行ったのによく調べられましたわ」
「……あぁ」
ふわふわと笑むアイリスに、テオーリアは複雑な表情を浮かべる。アギアの中で選ばれた彼とアリスト、リュイ、カイ、アイリスはアステルから別の試練を渡された。
だが、刺客退治に星隔帯への出向が次々と決まり調べ物をする余裕はなかった。
(カイが再び取引を持ち掛けなければ、私たちは全員不合格になっていただろう。一人一人の事情を完全に吐露し、協力関係になろうと持ち掛けられなければ)
何がなんでも自国に聖女を連れ帰りたいのはテオーリアだけではない。白の国からきたリュイも、緑の国からきたアリストも同じだった。そして、カイの目的はまた別のところにあったが……これらは全てアイリスには秘されることが約束に入っている。
妙な取引に応じてしまった上にお互いがライバルだと知って、新人アギアたちは関係悪化するかと思われたが……それもアイリスの帰還で無に帰した。
黒の国の腐敗は深く、聖女の登場がどの国よりも必要と思われる。
この国を建て直し、その上で聖女を連れ帰るのが最善であるとテオーリアを含めた全員が考え至ったのだ。
「あっ、こんなところに薬草が!ちょうどいいわ」
「ん……?」
アイリスは近くの木から花と葉を摘み取り、ハンカチに包んでテオに差し出した。
「夜、眠る前にお茶として飲んでください。体が暖かくなります」
「リンデンか、薬としてはマイナーだがよく知っていたな」
「ふふ、あなたが以前差し入れてくださったからよ。手の先や足の先までポカポカしてよく眠れました」
「そう言えばそうだったか……」
菩提樹の樹はこの世界でも同じ効能を示す。リンデンフラワー、リーフは発汗を促す作用があるがメジャーなものでは無い。
雨の降る日にアイリスが資料室で手を擦り合わせていたのをみて、テオーリアはお茶を分けたことがあった。
「そうだわ!あなたたちがアステル様の試験に合格していたことを、昨日初めてお聞きしたのよ。事情も全てお聞きしています。
合格おめでとう、って言ったら嫌味になりますかしら?」
「あぁ、嫌味だ。私たちを置いてあっという間に出世したアイリスからの褒め言葉は、素直に受け取れない」
まぁ!と大仰に反応した彼女からハンカチを受け取り、テオーリアは顔を上げる。
そこには、眩いばかりの笑顔があった。
「なぜ、笑う?」
「ふふ……なぜだと思いますか?」
「質問を質問で返すのは、」
「そうね、よくないわ。反省します」
「アイリスが反省するのは想像できないな。黒の国を動かす者たちも、恐れていると聞いた」
「そんなことを言ったら、私が怖い人みたいじゃありませんの?」
「違うのか?」
「酷いですわ!もう!」
二人の小さな笑い声はやがて風に溶けていく。テオーリアの大きな手が月に翳されて、彼の深い灰色の瞳は翳り闇に染まっている。
何から話せばいいのか迷っている彼を見つめ、アイリスは静かに待っていた。
「アイリスはなぜ、貧困を知っているんだ?君は、王城育ちだろう」
「青の国でお勉強しましたから。それに、陸に上がってからかなりの長距離を走って国の惨状を見てきました」
「そう言えば締め切りギリギリに、ボロボロの姿で現れたと聞いた」
「あれは仕方ありません。イルカと大して変わらないと思っていたのに、馬は人を侮ります。
海から上がった人魚など、さぞ矮小に見えたことでしょう」
「今ではその馬も、アイリスに絆されているだろう?名馬ではあるが、あれは決まった人間しか乗せてくれない」
「えぇ、好物のリンゴを差し上げましたから。あの子は甘い果実が好きですの」
「…………馬は人参が好きなのではないのか」
「馬にも個性があるのよ。それで……貧困についてでしたわね」
テオーリアが頷くのを見て、アイリスは思い悩むように指先を顎に当てる。その指先はあかぎれて、血が滲んでいた。
王女のままであればこんな風になるはずもなかっただろうに。赤く染まった指先は彼の瞳に鮮明に焼きついた。
「私は、ごくたまに夢見をします。断片的ではありますが」
「……夢見、とは?」
「アステル様にはお話ししましたし、この任務から帰ればあなたにもお伝えすることになりますから、教えておきます。
私には神聖力の特徴が複数あり、先を見ることができますの」
「は……そ、れは。まさか、預言者の神聖力ではないのか」
「アステル様はそうおっしゃいましたが、私に安定して使えるものではありません。
眠った時に夢を見て、時々もたらされる情報ですから」
「そうか。いや、それでもかなり珍しい神聖力だろう。私の国でもそんな人は何百年も生まれていない」
尊敬の眼差しでテオーリアは彼女を見つめ、アイリスはそっと目線を逸らす。彼女にとっては預言者という言葉は正確なものではない。前世の記憶があり、深いところまで思い出せないものを夢の中で確認しているようなものだから。
アステルにも、テオーリアにも、誰にも真実は告げていない。カイだけはうっすらとそれを知っているが、この作り話に納得してしまっていた。
後ろめたい気持ちはあるが、最後を迎えるまでは大っぴらに伝えられることのない真実……いや、もしかしたら明かされることはないかもしれない。
誰かが作り上げた『物語』の中を生きる彼らは、その事実を知ったところで何の利点もないのだから。
「私の夢は、国の戦乱も見せます。爆弾が炸裂し、暴風で全て吹き飛ばされる瞬間も、凶悪な破片が人の身を裂く様子も」
「それは、小さな頃からか」
「ええ、でも……そのように衝撃的な情景ではなく、私が一番苦しかったのは戦に巻き込まれた民の姿でした」
月光が宿る青の中に、ふわりと悲しみが浮かぶ。夢で見てきた他の人の人生は、世界の出来事は、アイリスの老練を思わせる一端なのだとテオーリアはこの時理解した。
「自分の体が腐敗していくのを感じながら、赤子に乳を与える母。痩せ細った兄弟がわずかな食物を得て、弟に全部食べさせて兄が微笑む姿。
平和が理不尽に蹂躙される中で、民衆は生きていく試練に挑まされます」
「…………あぁ」
「あなたの国も災害が起これば同じようなことが起こりますね?」
「そう、だな。だが、私が生まれてから災害は起きていない。
だから、私が跡を継いでもあの国が立ち行くかどうかわからない」
「なぜそんな消極的なの?あなたは赤の国に生まれて育って、今何歳ですか?」
「……25だ」
「では、災害に対しての対策は思いつくと思います。『立ち行くかわからない』ではなく、『立ち行かせねばならない』のですよ」
アイリスは姿勢を正し、真っ直ぐにテオーリアを見つめている。彼はその視線を受け取り、厳格な母と対峙しているような感覚を覚えていた。
「経験をしていない以上、私の策は机上の空論でしかない。それに、私自身の神聖力が暴走するたびに誰かを傷つける。
そんな人間が国を守れるのだろうか」
「――守りなさい」
アイリスはテオーリアの手を取り、皮膚に刻まれた傷痕をなぞる。神聖力は〝誰か〟だけでなく彼自身を傷つけ、優しい心を持つ王国の後継は、どんどん自分を縛った。
鋼のような理性を持っていても、身のうちに宿る力はやがて限界を迎えて決壊する。
ならば、発散するべきだとアイリスは結論付けたのだ。
「あなたの体に流れる神聖力は、テティスのように
「…………」
「使い方さえ合っていればあなたの力は国の助けになる。アステル様が知らないままの
ハッとして顔を上げた彼から、弾みでメガネが落ちた。それを見とめたアイリスはガラスに阻まれなくなった彼の赤い瞳を見つめる。
「魔法の眼鏡で目の色を変えても、髪を染料で染めても、あなたは何色にも染まらないわ。赤の国に生まれたあなたの持つ赤は、何よりも激しい熱を宿している。
その苛烈さは、あなたの心の温度でもあるの」
「心の、温度?」
「えぇ、優しさなんて簡単なもので片付けてはいけないわね。アナスタシアのために怒りを覚え、あの子の寂しさを思うテオーリアはとても心が熱いのよ。
その熱さは、力の暴走は必ず制御してみせるわ」
「毎晩発散していることがか?それは確かに……」
「ううん、違うの。あなたは明日、新しい神聖力の使い道を得るでしょう。そして、それはあなたの人生で最も役に立つ物になる」
「…………」
「夢見の預言者からのプレゼントよ。信用できない?
あなたは、必ずできる。あなた自身が自分を誇れるようになるから」
アイリスの指先は、ずっとテオーリアの傷跡を撫でている。今までの傷を癒やすように暖かい体温が沁み込み、得体の知れない信頼に戸惑いながらも胸の内に何かが満ちていく。
指先にまで血が通い、温められてピリピリと電流を感じるようだ。
アイリスは、誰よりも長く起きて誰よりも働いている。最初から真っ直ぐに前を見つめ、振り返ったりしない。何かを否定しても必ず相手を信じて挽回の道を残す人だ。
小さなその背中にいったい何を背負っているのか、まだわからない。
けれど、この旅に出てから彼女が自分を見つめる度、こんな風に何かが体の中に蓄積していくのを感じていた。
彼女は、テオーリアが失敗すると思っていない。夜の狩の時も、旅中でも、些細な日常ですら彼を信じて達成するのを見守っていた。
そんな信頼を得たのは彼にとって初めての経験であり、母の厳しい言葉と全く異なったものだった。
母が口癖のように言っていたあの言葉は、彼への戒めであり、全てを閉じ込めるものだったのだ。
アイリスは最初から彼を思うがままに動かして、成功するまで待ってくれていたのだ。
自身に厳しく、そして誰にも優しい彼女が信じてくれることは全てを満たして、テオーリアを奮い立たせてくれた。
心の扉が彼女の手で開かれていく。
テオーリアがずっと欲しかったものが――今確かにここにある。
「テオの力についてはまだ伝えられないけれど、火山の噴火は対策できます。
災害の事前対策についても今日からお話ししてみませんか?」
「対策を...立てられるのか!?」
「えぇ、人は大いなる自然には勝てない。火山の噴火に勝てるなんて無理だけれど、そこで受ける恩恵を手放せないのなら事前対策をするのです」
「事前に……そうか。人ができうる全てで対抗しろということか」
「ええ。幸い、私は災害について大変詳しいの。地震や火山の噴火、台風や豪雨の被害、そう言ったものをよく知ってるわ。
火山もあなたと同じ。噴火を抑えたら後々余計に酷い噴火を起こすのよ」
「たしかに、聖女が抑えた火山は、次の噴火で酷い被害をもたらしたと記録されている」
「そうね。あなたの力についても、事前の災害対策についても、黒・赤両国に活かせるものだと思うし……現状の黒の国で実体験もできる。
聖女様と無理な婚姻を結ぶのではなく、あなたがここに修行に来たと思って……」
「ぜひ、よろしくお願いいたします」
アイリスの手をそっと包み込み、テオーリアは赤い瞳を潤ませて彼女を見つめた。隣り合わせで座っていた彼は大地に膝をおろし、彼女の手を片手で持ち上げる。
そして胸に手を当てて、顔を伏せた。
「……え?えっ??」
「あなたに騎士の誓いを捧げたい。アイリスがくれようとしている
未来を知っているからとて、手放しの信頼がもらえるなんて思っていなかった。初めてだった」
「あ、え、えと。あの、て、テオーリアの性格がわかっているからよ。あなたは生真面目で、こうと決めたら諦めたりしなかったし、」
「25年間生きてきた赤の国で、ここまで手を携えてくれる人はいなかった。だから……」
薄い唇がアイリスの手の甲に触れる。そのあまりの熱さに彼女は肩を震わせて、頬を赤らめる。
テオーリアは思ってもみなかった純粋な反応に胸が跳ねて、彼女の眩しさに目が眩みそうだと思った。
(なんて、綺麗な人なんだろう)
「私は必ず成長してみせる。赤の国とあなたを守れるくらいに……アイリスがくれた信頼に足る男になる。
どうか、傍に置いてください」
「はぇ、あ、アステル様にご相談してみないとわからないと言いますか、あの……」
「私が自分で隊長に伝える。あなたはただ、認めてくれればいい」
「ふぁ……は、はい」
「言質は取ったぞ」
もう一度落とされる口付けに戸惑い、アイリスは「ひゃっ!?」と情けない声を上げる。
思わず吹き出したテオーリアは、誰にも見せたことのない満面の笑みを浮かべていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます