ナッシング

笠村 葵

本文

 ぼくがこの文章を書き始める、三日前の夕方のことである。百円ショップが二個ある、少し都会じみた田舎の最寄り駅にて、ぼくは家に帰ろうとしていたにも関わらず、改札前を歩いている一人のお婆さんが気になって、立ち止まってしまったのだ。ぼくの目には、そのお婆さんがか弱く見えてしまっているのに、手から溢れてくるあの自信によって、或る一種の興味を意識せられたからである・・・。

 この最寄り駅には、路上演奏家やら、政治に何らかの関係がありそうな人やら、パチンコのクーポン券らしき紙を配っている人やら・・・大抵ぼくが駅を通るときには必ず誰かがいる。なんで毎日いるのか・・・理由はわからない。昔の友達によれば、警察署から道路使用許可を取ってから始めるらしい。が、いつも彼等はいるのだから、警察署の窓口に行列でもできていて、取り合いになっているのではないだろうか・・・。

 兎も角も、その日に彼等がいないことに不安を感じていたのだが、それよりも、お婆さんのことが気になってしまった。なんだか、うろちょろしているようで・・・最初は「電車の乗り方がわからないかも知れない」と思って、助けようか迷っていたのだが、やはり、うろちょろするには変な動き方をしていたので・・・ぼくは見入ってしまったのである。しばらくすると、次のような独り言がそのお婆さんから溢れ出してきた。

「・・・ウフフフ、キットこれは、喜劇に違いない。なんせ、わたくしの体験話なのだから・・・この私でも面白く思えて仕方がないのだよ・・・アッハッハッハッハ・・・」

 なんだか、気味が悪かった。おなかが痛くなってきた。ぼくはお婆さんのことをどうでもよく思ってしまい、早めに帰ろうとしたのだが、謎の好奇心がそのときの腹痛を忘れさせてしまった。

 それから、改札の向かい側にてお婆さんは地面に座ると、持っていた小さなバックから扇子を取り出して、大体こんなことを言い始めた。

「サア寄ってたかって、この私による、壮大なる噺が始まるよォ。グランド・オペラのようなもんさ・・・ナアニ、小銭は要らん。私が欲しているのはね、君らの・・・おっとっと、コレは失敬に値するだろう。なんせ目前にいらっしゃるのは、皆、誰かの奥さんなのだからねエ・・・そうだろう? 私はね・・・結果的に孤立した、単なるばばあなのだよォ・・・アッハッハ、長生きして悪いかね? コンナところで語り始めて悪いかね? 

 アァ、まだ言っていなかったことが有る・・・ソレはドンナ事かと申すと、私の欲しているもの、そのお噺なんだ。全く本編から外れているから、ケータイでもスマホでも遊び乍ら聴き給え・・・といっても、ソンナ難しいことではないのだよ。至って単簡。私がめぼしい噺を勝手に提供するから、この先も聴いていたいと思った奥様には、笑っていてもらいたいんだ・・・ホラ、シンプルだったでしょ? ソンナことを言った気がするんだ。

 何だその目は・・・アァそうか、あまりにも凡庸すぎて厭になってしまったか。私はね、コンナ喋り方をしておき乍らね、意外と世間と同じ考え方をしている、と思いたいのだよ・・・おや、気づいてしまった方がいるねエ? コレは、単なる思い込みであると・・・そうだろう? いや、聞かなくたって、平気さ。だって、モウ知ってしまっているのだから・・・。

 サアテ本題を・・・語ってしまおうではないか。実を申すと、コレまた単純で・・・。

 今日私は、或る夢を見たんだよォ。それはとても恐ろしいことであったんだ・・・まてよ? さっき「壮大なる噺」と言ったが、私はホラを吹いたかもしれない・・・アッハッハ、笑ってくれ給え。

 ・・・おや? まだそこに居るのかい? なぜなのだろうかねエ・・・アァ、そうか。まだ何も話していなかったか・・・。

 エート・・・何だったかしらん・・・? そうだ、私は或る夢を見たんだよ・・・しかし、その内容を今更となりて忘れてしまったのさ・・・

 夢の内容は、ナッシング・・・。

 ・・・イヒヒヒヒ・・・だからと言って、今から創作する必要性はないのだよ。だって、もうすぐ私は去らなければいけないのだから・・・」

 そう言い終わるとお婆さんは立ち上がり、また独り言を言いながら、何事もなかったように帰っていった。

 ぼくは、そのお婆さんが何をしに来たのかがわからなかった。

 だけど、いつの間にか来ていた路上演奏家の方が、ものすごくお婆さんを迷惑そうな顔で見ていたことはわかった。後に演奏をし出して、観客がやっと集まって来たのも確かであった。

 ・・・ただそれだけのことである。

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ナッシング 笠村 葵 @kasamura3153

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