『目覚めの朝』
「……だから、今日はね、花の勉強をしたの。
名前とか、育て方とか──
でも、すぐ全部ごちゃごちゃになっちゃったけど……」
その声は、静かな午前の光の中に溶け込んでいた。
リリアはベッドの傍らに座り、小さな声で話し続けていた。
その視線の先、白い寝台には変わらず眠り続けるひとりの青年──レン。
「先生には“記憶力だけじゃどうにもならないぞ”って言われたよ。
ふふ、言い方、レンにそっくりだった」
机の上には日記帳。リリアが毎日書き続けている、彼のための記録。
開かれたページには、今日の日付と、“いつも通り”の文字。
……でも。
数日前──ほんの一瞬だけ、レンの指が動いた。
あの時、誰よりも先に気づいたのはリリアだった。
“もしかして”という期待と、“ただの痙攣かも”という不安の狭間で、
それでも彼女は、今日もそばにいる。
「……ねぇ、レン。あのときの、あれ……ただの偶然じゃないよね?」
そう呟いた、その時だった。
──カサッ
紙がめくれるような、わずかな音。
まばたきをした。心臓が一瞬止まった気がした。
けれど、もう一度見て、確信する。
レンの指が……また動いた?
「れ……ん……?」
震える声で名を呼ぶ。思わず身を乗り出して、その手をそっと包む。
今度は──ゆっくりと、まぶたが開いた。
「え……?」
思わず、声が漏れる。
そして、確かに。目の前の彼の瞼が、ふわりと開いた。
焦点の合わない瞳が、やがてこちらを捉える。
その目に光が戻っていくのを、リリアはただ、息を殺して見つめていた。
「……おはよう」
言いかけて──やめた。
彼女は小さく笑って、瞳に涙を浮かべながら、こう囁いた。
「……今さら、“おはよう”とか言ったら、怒るからね」
レンの唇が、かすかに動く。
それは彼が、10年ぶりに放った言葉だった。
「……腹、減った」
──瞬間。
リリアの顔がくしゃりと歪んだ。
こらえていたものが決壊したかのように、ぼろぼろと涙が溢れる。
「……ばか……ほんっとに……っ!」
そのまま彼に飛びついて、抱きしめた。
10年分の想いが、あふれた。
「……おかえり、レン」
部屋の外で、誰かが嗚咽を押し殺すように息を呑んだ。
側近たちも、使用人たちも、その奇跡の光景をただ見つめていた。
それは、指先から始まった奇跡が、現実になった朝だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます