ブランコの向こう

久保ほのか

1


深夜の公園でひとりぼっち、ブランコを漕ぐ子供がいた。キィ……キィ……侘びしく軋む金属音が耐え難い夜の歯軋りみたいで、僕はブランコの音に惹かれるように、気づけば歩き出していた。


 だれかいるの?


子供は目ざとい。姿の見えぬ距離だろうに、闇の中の人型を察知した。


 君こそ誰だい?


真っ当な質問だろう。時間もわからない真夜中に子供がひとり、明らかに尋常ではないのだから。


 質問を質問で返しちゃいけないって、習わないのかしら


心底不思議そうな返答。時と場合によるものだと大人ぶって返してみた。


 ふーん、それもそっか。せっかくだからこっちに来ない?ギシギシ錆びてて漕ぎがいのあるブランコだよ。はげた白粉みたいな色だ。こっちは赤色。ピエロのメイクみたいだね。


子供は一息に言うと反応を待つことなく再び漕ぎ出した。ようやく月明かりを浴びた横顔が見えた。

10歳くらいだろうか?やや背が低いようだ。月の光のせいか、その顔はやけに青白い。真剣にブランコを漕ぐ表情は、難問に取り組む小学生みたいで少し笑った。ご一緒させていただいて、思いの外難しいブランコ漕ぎに集中した。


それから三日。やはりいる。いつもの夜、いつもの公園、いつものブランコ。二人並んでひたすら前へ前へ漕ぐ時間。規則正しいルーティンに不思議と飽きることはなかった。

僕は日課のように、夜はその公園へ通い謎の子供と一緒にブランコを漕いだ。


いつからだったか、隣でブランコを漕いでいるはずの子供の顔が、うまく思い出せなくなった。


横目に見ていたあの顔は、たしかに懐かしげで印象深かったはずなのに、いざ思い出そうとすると輪郭が霞んでしまう。誰かに似ている気もするし、見たことのない顔のようにも思える。

直視していても、顔だけがうまく拾えない。そんな奇妙な状態が続いて、だんだんと気味が悪くなった。


それでもう、公園に行くのをやめた。日課になっていたにもかかわらず、不思議と寂しさはなかった。



しかし今、老いて死を待つばかりの今は、あの1ヶ月にも満たない日々が懐かしい。

互いにほとんど顔を合わせず、前だけを向いて一心不乱に漕ぐブランコ。ビュンビュンとすれ違う瞬間、目の端に映るその子の横顔。飽きるまで漕いだら挨拶もせず、ふといなくなる。子供がどこに帰るのか、僕は知らなかった。あの子はいつも土の匂いがした。すこしカビた、墓場の土のようなにおい。


死臭、というのだろうか。埋葬されてもいないというのに、私の体からもそんな臭いがするようになった。4日着たきりだった入院着を畳んでいるとき、臭いにつられてふと脳裏に浮かんだのは、沈痛な面持ちの母親の顔と悲しみを堪えた父親の顔。あれは60年も前の、隣家の子供の葬式だろう。今では顔も忘れてしまった。


僕は喪服を着ていて、多分みんなも喪服だった。各々手に持った花を、棺の中の遺体に置いていく。白い薔薇は安置された遺体の上に溢れ、その顔まで隠している。


深く掘られた墓穴に、そろりそろりと棺が降ろされる。わずかに葬儀人の手元が乱れたのか、棺が揺れ、顔を隠していた薔薇が動いた。

ちらりと覗いたその顔は、あのブランコの子供の顔ではなかったか......?

薄れた記憶が輪郭を取り戻し、あの子の顔を再生していく。そうだ、確かに、60年前の隣家の子供だ。


今更思い出して何になるだろう?

60年前の死んだ子供が、深夜の公園で夜な夜なブランコを漕いでいたからって、なにか事件が起きたわけでもなし、少しふしぎな思い出というだけだ。


だが、懐かしい思い出だ。

それに、もしかしたら、という思いもあった。


あのときの公園は今も変わらず、この病院の裏にある。時は深夜2時。おあつらえ向きに舞台が揃っていた。行くしかないだろう。腹は決まった。


階下の休憩室に行くふりをしてエレベーターに乗り込み1階まで。夜間入り口を出て、街灯もまばらな裏道を歩き、あの公園へ。そこにいてほしいという気持ちと、いてほしくない気持ちがせめぎ合い、胃がキリキリしてくる。

砂場に足を取られながらブランコへ近づくと、そこには――あの子がいた。


真剣な顔で、錆びついたブランコを、前に前に漕いでいる。


僕の足元の空き缶が、つま先が当たった拍子に転がり、カラカラと音を立てた。


あの子はピタリと漕ぐのをやめ、ブランコはゆっくり減速し、やがて止まった。ゆっくりこちらを向いた顔はやはり、薔薇の陰から覗いていた、青白い死んだ顔だった。


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ブランコの向こう 久保ほのか @honokakubo

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