第一章:四つの灯火

第1話 港町の異邦人

 灰色の空の下でも、海鳥だけは昔と変わらない声で鳴いている。腹を満たすため、港町に立ち寄ったエウェルはかつて公務でこの地を訪れた日を思い出した。


「あんたこの辺じゃ見ない顔だね」

「北の出身です」


 屋台の値段を見たエウェルは目を疑った。魚の串焼きが銀貨二枚。基本的な旅道具一式に消耗品の予備が購入できるほどの値段だ。エウェルが皮袋に手を伸ばすのを渋っていると、屋台の主人は頬杖をつきながら目をぐるりと動かす。


「……また税金が上がったんだ。海にゃ魔物も出る」


 ならば仕方ない。黙って支払うと屋台の主人は皺だらけの大きな手でゆっくりと串焼きを差し出した。魔女の襲撃から何年経過しただろう。魔物との戦いのさ中に河へ投げ出され、記憶喪失になってから全てを思い出すまでの間に王国はすっかり変わってしまった。この町も昔はもっと活気づいていたのに、物価が上がっただけで生活は良くなっていない様子だ。


「(……美味しい)」


 ふっくらした白身の旨さが疲れた体に染みる。目的地であるノイクラッグまでまだだいぶ距離がある。腹を満たしたエウェルは町の外れに向かって歩き出した。しかし体を横にできそうな場所は見当たらない。やはり付近の森まで歩いた方がいいだろうか。エウェルが考え込んでいると、誰かが彼女の肩を叩いた。振り返ると、そこには他の住人たちとは明らかに違う顔立ちの少女が漁網を手に立っていた。


「泊まる場所なら、そこの宿が一番安いですよ」


 滑らかなグリアンロン語を話す少女にエウェルは一瞬呆気に取られる。少女は「通じなかっただろうか?」と言いたげな表情を浮かべた。


「いや、あいにく手持ちが少なくて」

「それは残念。早く見つかるといいですね」 


 そう言うと、少女は人混みの中に消えていった。東洋人だろうか。一つ海を挟んだ向こうには彼女のような象牙色の肌に黒い髪の人々が暮らす国があると聞いたことがある。

 しかしなぜ彼女のような外国人がこの町にいるのだろう。ひとつまみの疑問を胸に抱きながら、エウェルは寝床探しを再開した。






 翌日。港の灯台で目を覚ましたエウェルは大きく伸びをした。昨晩灯台守の夫妻が声をかけてくれなかったら、きっと今頃寒空の下で凍死していたに違いない。

 荷物をまとめたエウェルは出発の前に市場に戻ろうと靴紐を結び直した。さあ出発、と立ち上がったその時。海の方から大きな水音と人々の叫び声が聞こえた。思わず夫妻と一緒に岸壁へ駆け寄ると、帰港途中にある大型の漁船を巨大な触手が襲っている。


「ああ!アーロンさんの漁船が!」


 どうやら知り合いらしい。気がつけば住民が船着場で鎖を巻きつけた機械を回している。どうやら漁船は予め港と鎖で繋がっているらしい。エウェルも飛び出し、住人たちと共に機械を回した。


「私も手伝います!」

「ありがとな嬢ちゃん!」


 少しずつ漁船が陸に近づく。しかし魔物の猛攻は止まらず、海に落ちる者も出始めた。エウェルは他の住民と場所を交代すると、船を引く鎖に飛び乗った。


「お、おい!何する気だ!」

「あなた方はそのまま鎖を巻いてください!」


 海風で鎖が揺れる。落とされないよう慎重に、しかし迅速に進む。あと3歩というところで甲板に飛び乗ると、エウェルは剣を抜いて叫んだ。


「動ける人は鎖を伝って陸へ!急いで!」

「負傷者をおぶれ!」


 甲板に侵入した触手を一刀で切り落とす。担い手が居なくなった舵を動かそうと甲板を走っていると、どこからか大きな鋼鉄の矢が飛んできて水中の本体に突き刺さる。頭上を見ると昨日の少女が物見台から弓を構えていた。

 魔物は苦しむように触手を動かしたが船体を離そうとはせず、大きな音を立てて一本のマストをへし折った。このままでは船が沈んでしまう。

 エウェルが船員に迫る触手を切り落とし、少女が物見台から本体を狙う。


「(攻撃の勢いがなくなってきた)」


 安心したその時、魔物の本体がゆっくりと水中から姿を現した。血管が浮き出たぶよぶよの頭に、端についた2つの大きな眼。魔物――クラーケンは大きく口を開け、咆哮を轟かせる。


「嬢ちゃん!あんたも逃げろ!」


 エウェルはその声を無視すると、剣を構えて唇を開いた。


『太陽神グリアンナ、聖王アナグの子孫たる私に、貴方の力をお貸しください』


 祈りと共に全身が黄金に包まれる。軽く地面を蹴ると、エウェルはクラーケンを真っ2つに斬り裂いた。衝撃で船が大きく揺れ、海水と臭い肉片が甲板を汚す。力尽きたクラーケンはゆっくりと海中に沈んでいき、ボロボロになった船は無事港に到着した。エウェルも棒のようになった脚をなんとか動かして船の梯子へ向かうが、次第に視界が揺れ始める。


「危ない!」


 陸に足をつける直前、エウェルの視界は闇に包まれた。



 

 


 暖炉がパチパチと静かに音を立てている。目を覚ましたエウェルはひどい筋肉痛と疲労感に襲われた。太陽神グリアンナに祈りを唱えれば人間が本来持つ魔力を増幅させることができる。しかしきちんと訓練しないと先ほどのように失神してしまう。教師から逃げ回った過去を悔いていると、食器を持った黒髪の少女が入ってきた。船で弓を構えていた少女だ。


「目が覚めたのね」

「君は、確か船にいた……」

「私はトモエ。東のホノクニから来たの」


 魚と野菜のスープを渡される。腹を空かせていたエウェルはそれをペロリと平らげた。皿を盆に戻そうとしたその時、エウェルは何者かが自分を見つめている事に気がつく。人間ではない。しかし敵意も感じない。グリアンロン在来のものでもない。


「……トモエ、この魔物は君が連れてきたものか?」


 緊迫した空気の中、トモエは「そうよ」と静かに答える。するとエウェルの目の前に、緑色の体に茶色の翼を生やした鳥が現れた。


「この子は私の式神……この国では使い魔と言うのが正しいかしら。魔女の娘のエウェル王女」

「っ――!」


 エウェルは咄嗟に剣を取り、警戒するようにトモエを見つめた。

 祖父の冷たい瞳と罵りの言葉が蘇る。魔女の娘。長らくそう呼ばれることはなかった。


「手配書を見たんだな」


 トモエは黙って頷く。そして、攻撃の意思がないと示すよかのように両手を広げ、式神を自身のそばに呼び寄せた。


「憲兵には突き出さないわ。ただし条件がある」

「条件?」

「私と一緒に魔女を倒してほしい」


 トモエの藍色の瞳には強い意志と悲しみが宿っていた。四年前、トモエは故郷の仲間と共にグリアンロンへやって来た。しかし突如現れた魔物に仲間は殺され、生き残ったのはトモエだけ。なんとかこの町にたどり着き、何度も出港を試みたが全て失敗。孤独と無力感に苛まれる日々の中、この町の住民は警戒しつつもトモエに食料を分けてくれ、二年がすぎた頃にはすっかり町の一員として受け入れてくれた。


「仲間の骨を故郷に連れ帰りたい。魔女を倒せば魔物は全て消える。そうすればこの町の人たちだって楽に暮らせるようになる。だから……っ」

「気持ちはわかった。私も――魔女を倒すために旅をしている。でも、私といれば君だって危険になる」


 魔女はエウェルが自身の娘だと国中に広めている。この町に来るまでの間、指名手配のビラを何枚も見た。おそらく反体制派の旗印となりやすい彼女を孤立させるのが目的だろう。それ故、エウェルは認識を阻害する魔術をかけた護符を身につけていた。太陽神グリアンナを信仰しない魔術師や魔物に対してどれほどの効果があるかも不明だ。しかしこの先、顔を晒さなければならない場面は必ず出てくる。その時トモエのような民間人を巻き込んでしまうのは忍びない。

 しばらくの沈黙の後、トモエは「関係ない」と強く言い意放つ。


「私はこの国では外国人よ。嫌でも目立つし、警戒される。でもだからって足を止めていられない」

「……わかった。明日手合わせしてくれないか?ちゃんと実力があるか確認したい」

「望むところよ」


 二人は堅い握手を交わすと、笑みを浮かべる。

グリアンロンの王女エウェル、穂ノ国人ホノクニビトのトモエ。夕暮れの港町で王国の運命は静かに糸を紡ぎ始めた。

 

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