冷蔵庫の女
秋犬
都合の悪い粗悪品
俺の母は料理の先生だった。いつも忙しく飛び回っていて、俺が小さい頃から母の周りはたくさんの生徒さんで溢れていた。
「こちら、先生の息子さんよ」
「まあ、お元気そうで」
俺にはひとかけらも興味のない女どもに囲まれても、俺は面白くなかった。母は先生である上に完璧主義だから、気を抜いているつもりでも丁寧なご飯が毎回食卓に並んだ。和食に中華、本格的なフォン・ド・ボーを用いたビーフシチュー。俺はただの白いご飯と味噌汁と銀シャケくらいがよかった。余所の家で見たあり合わせの炒飯みたいな食事に俺は憧れた。
あれは俺が高校入試を控えた頃だった。卒業も間近に控えた三学期に、突然転校生がやってきた。良い香りのする、きれいな女だった。こんな時期に普通は転校なんてしないから、おそらく何か訳があるのだろう。女は良い香りを辺りにまき散らして、その辺の男どもを誘惑した。男は馬鹿だから、みんな女の香りに釣られた。
ある日、俺は彼女に呼び出された。人影のない廃工場の裏で、彼女は俺とセックスしようと言った。聞けば、誰とでもセックスするという。俺は返事をする前に彼女にむしゃぶりついた。ゴムは彼女が持っていて、つけてもらった。女ってのはいいもんだと俺は思った。女は母がよく言う粗悪な既製品の味がした。
ところが、俺が女をハメてからしばらくすると女が学校に来なくなった。元から素行不良で誰とでもハメていた女だから誰も不思議がらなかった。俺は初恋みたいなのがすぐ終わってしまって、ちょっと凹んだ。その気持ちをバネにして勉強に打ち込み、すぐに高校に進学した。
高校に入ってからも、俺は廃工場の裏でしたセックスが忘れられなかった。俺は入学してから、あの粗悪な既製品の匂いがする女を探した。手入れの行き届いた息の詰まる女はダメだ。もっとこう、俺よりも馬鹿でセックスしか価値のない女がよかった。意外と女はすぐ見つかった。中学の頃から「ヤリマン」として有名な女だった。
女は既製品の添加物がたっぷり入ったアイスクリームを差し出すと喜んでパンツを脱いだ。そのむせかえるような粗悪な匂いに俺はくらくらした。頭の中で母が「何事も丁寧に行いなさい」と言っているような気がした。知るか。
それから俺はアイスクリームと引き換えに女とせっせと青姦に励んだ。そうして順調に成績を落としていった。ところがある日、女は赤ん坊が出来たと言い始めた。まずいと思った俺は、とりあえず母に探りを入れた。
「あのさあ、堕胎費用ってどのくらいかな」
「何でそんなこと聞くの?」
「友達がカンパ募ってるんだよね。だからどのくらいが目標なのかなーって」
俺の白々しい話から、母は細かく堕胎の方法や費用を教えてくれた。結局金はもらえなかったので俺はしょぼくれていたが、どう女と顔を合わせればいいか考えているうちに何故か女の方が姿を消してしまった。別れが寂しいという気持ちもあったが、俺とすればラッキーだった。これで責任を取らずに済む。女は家出人扱いとなり、そのうちみんな女のことを忘れた。
ただ、俺としてはヤった女が二人続けて失踪したというのは気分が悪かった。確かにどっちも汚いヤリマンだったのだが、俺とセックスしたから失踪してしまったのではないかと俺は罪悪感に苛まれた。俺は粗悪な既製品の匂いが嫌いになって、清潔な女を求めるようになった。家柄の良くて素敵なお嬢さんと付き合うと、何故か彼女たちは俺の前から消えなかった。そのうち俺は粗悪な既製品の匂いを忘れていった。
そのうち俺はいいところに就職していいところの女と結婚し、子供に恵まれた。俺の妻は俺の母の気に入るような、丁寧に時間をかけて仕込まれた女だった。その代わり、既製品のようなしたたかさがなかった。仕込むのに時間がかかりすぎたのか、女は母に似て少々神経質だった。
「幼稚園受験で人生が決まるんだから」
「あそこの家、今度タワマンに引っ越すんですって」
「これ、無農薬野菜よ。ベビーサークルのママにもらったの」
俺は自分の息子も俺みたいな不幸を背負ってはいけないと思い、どこぞの立派な付属幼稚園に入った息子に「ママには内緒な」と言ってこっそり添加物たっぷりの菓子を与えた。息子は何も言わずにジャンクな菓子を貪った。
しかし、俺の妻の神経質さは日ごとに増していった。ベビーサークルで知り合った友人たちから教わった何やらを家に持って帰ってきて、毎日ぺちゃくちゃと効能を説明していた。
「これは天然のハーブで作った石鹸。添加物が入っていないから毒素も抜けるの」
「米ぬかで作ったシャンプーよ。あと風呂にはこのエキスを入れるといいんだから」
「また添加物が入ってる! 毒よ毒! こんなの買ってこないで!」
たまらなくなって、俺は妻の実家に相談した。それからいろいろあって、妻が息子を虐待していたことが明らかになったため、俺は離婚を選択した。
「どうして母親が子供の心配しちゃいけないの!? 私はただ心配だっただけなのよ!」
しかし、俺に隠れて息子の食事を抜いていたり予防接種を受けさせていなかったりという奇行が明らかになったときに俺は少し冷静でいられなかった。息子は母親と離れて寂しいかと思ったけれど「パパがいるからいい」と言ってくれた。俺は息子が禁じられていたテレビを好きなだけ見せてやった。
それから、元妻が俺の家に押しかけてくるようになった。「子供を誘拐した」「親は私なのよ」と家の前で騒ぎ、何度か警察にも来てもらった。息子は元妻に怯えていた。俺の前ではいい顔をして、息子の前ではこんなに怖い顔をしていたのかと思うと俺は息子に申し訳なかった。
この騒ぎに俺も向こうの両親も疲弊した頃、ある日元妻がぱたりと姿を見せなくなった。ある日突然行方不明になったそうだ。精神状態から自殺を図った可能性もあるという見解もあり、元妻はめでたく家出人になった。
俺と息子の暮らしに平穏は戻ったが、母親がいなくなったことで不憫な思いをさせてはいけないと俺は必死で「良い父親」になろうとした。週末には息子からすれば「ばぁば」の俺の母特製の手料理を食べさせ、なるべく遊びには連れ出した。俺と息子の間にわだかまりはなく、良好な関係は築けたと思う。
そうして息子が高校生になった頃、俺の母が他界した。急な心臓の病気で、俺たち家族はもちろん皆が驚き、悲しんだ。
葬儀や諸手続が一段落した頃、俺は母の自前のキッチンスタジオの整理に取りかかることになった。母と古くから親交のあったお弟子さんから「あの冷蔵庫たちは一番処分が大変そうですね」と言われていた。
『あの冷蔵庫?』
『知りませんか? 食材をストックしておくのに、大きな冷蔵庫がたくさんあるんですよ』
母のキッチンスタジオは聖域で、俺や俺の父は滅多に近づかない場所だったから俺は実家の離れにあったというのに内部をよく知らない。
「食材や調味料、機材などで使えそうなものは譲渡して、捨てられるものは捨てよう」
俺と父はそう方針を決めた。そして次の休みの日に、俺が先にひとりキッチンスタジオに入った。「男は厨房に入っちゃダメ」と昔は叱られたが、このキッチンスタジオは昔から俺によそよそしかった。
「確かに、この冷蔵庫は大きいな」
それはレストランの厨房にあるような、大きな銀色の冷蔵庫だった。中には使いかけの食材や調味料が丁寧に整頓されていた。調味料などはご丁寧に賞味期限順に並んでいて整理の役に立った。封を開けてあるものは処分し、未開封の食材は譲渡ボックスへ俺は遠慮無く放り込んでいった。
そんな風に冷蔵庫の中身を二台ほど空にしてから、俺はこれまた馬鹿でかい冷凍庫に取りかかった。中身を改めると、冷凍になった肉や魚がたくさんあった。これらは俺たち家族で食べられるかな、などと考えているうちに妙なことに気がついた。
冷凍庫の大きさの割りに、奥行きが足りないのではないか。
俺は冷凍庫の奥に手を入れた。すると、カチカチになった保冷剤の向こうから黒いゴミ袋に包まれた何かが出てきた。それらは冷凍庫の奥からいくつも発見され、袋の上から触った感じで俺は中身が何であるかを察してしまった。
これは人間の手。これは人間の頭。
その量は、一人分ではなかった。おそらく、二人か三人。
俺は黒いゴミ袋を前に、俺の周りで女が綺麗に消えていたことを思い出した。粗悪な既製品は、丁寧に手を掛けて仕込まれていたわけだ。なるほど、そういうことか。
震える手で俺は警察に電話をかけながら、涙を流した。もう俺の周りで女が消えることはないと思いながら。
〈了〉
冷蔵庫の女 秋犬 @Anoni
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