第11話 冷静にならなきゃ
墨田業平は、まるで洗濯機の中の服のように、プールの中をむちゃくちゃに流された。水の塊が四方八方から体を押す。あっちに流されたと思えばこっちに流され、ときどき水面に顔だけ出される。そのタイミングで呼吸するが、またすぐ水に入れられ、息を止めさせられる。
苦しい。苦しい時間が、ひたすら続く。
勝てない、と彼は思った。相手の能力が強すぎる。せめて自分が、昔みたいに泳げれば……。
一年前に事故にあってから、一度たりともプールには入っていない。両親や医者は障害者スポーツをすすめたが、なんだかみじめな気がして断った。
せめてこの足が、元の足なら。いくら義足を動かしても、前のようには到底泳げなかった。
墨田業平は、意を決して能力を使った。阿逹仁に能力を告げられたとき、なんてバカらしくて、みじめな自分にぴったりな能力かと思った。あまりにも弱く、使いたくならない能力だった。
だがいま、みんなを助けるためなら、使うしかないと思った。
能力を使うと、苦しさはなくなった。不思議と周りの水の流れさえもわかるように感じた。
水流をかき分け、水面を目指して一気に泳ぐ。
そして、プールから飛び出す。
目の前にあったのは、こちらを見上げるサカエの、驚いた表情。
そのまま落下し、サカエの腕に噛みついた。
「ぎゃーーっ!」
サカエが腕を振り回す。墨田業平は口を離して、再び水中へ戻った。
「な、な、なんで学校のプールに、サメがいるのよーっ!?」
それが墨田業平の能力だった。「魚に変身する能力」。阿逹仁にそう言われたとき、脱力したのを覚えている。そんなの使い道がないじゃないか、と。
だが、ここ、プールでの戦いにおいては、最強の部類かもしれなかった。
墨田業平は大きなマグロに変身し、プールの反対側まで泳いだ。
気持ちが良かった。水の中を自在に泳げるこの体が。
プールの反対側から水上に飛び出す。荒川紅緒を押さえつけている男にタックルし、転ばせた。墨田業平は人間の姿に戻ると叫んだ。
「荒川! 早く拘束を!」
「う、うん!」
荒川紅緒は起き上がり、倒れたままの男に向かって糸を発射する。
だが、その男の姿が、目の前で消えた。
「えっ!?」
驚く荒川紅緒の背後に、もう一人男が立っていた。墨田業平はその男にタックルし、一緒にプールに落ちた。
だが再び、その男の姿が消える。
「そうか!」
水面に顔を出した彼は叫んだ。
「分身は、いつでも消せるんだ!」
「そういうことだっ!」
プールサイドから、男がこちらに飛び掛かってくる。
墨田業平はホホジロザメに変身し、その男を口で受け止めた。次の瞬間には、その男の感触が口から消える。
分身をいくら攻撃しても意味がない。本体を攻撃しなくては。
しかし、プールサイドに上がった彼は、戦場を見てぼうぜんとする。
何人もいるコウホクの中から、どうやって本物を見つければいいのだ?
そのときだ。
「みんな! 助けに来たぞ!」
プールの入り口のドアが勢いよく開けられた。
そこに立っていたのは、阿逹仁と川戸栄太だった。
「どうなってんだこれ!?」
同じ男がうようよいる状況を見て、川戸栄太が目を丸くする。
「実は……」
駆け寄ってきた阿逹仁に、コウホクとサカエの能力を手短に説明した。
それを聞いて、阿逹仁は笑顔になった。
「なんだ、そうだったのか!」
「どうした?」
「分身には能力がないから、俺の能力でも何も見えなかったんだ! そして、ジュウロクは移動したんじゃない、消えたんだ! 板橋君が裏切ったわけじゃなかったんだ!」
「なに、板橋? あいつがどうかしたのか?」
「全部オレの勘違いだった! そして、オレには本物のコウホクが誰かわかる! あそこでサカエに包帯を巻いているのが本物だ!」
阿逹仁は、プールサイドの隅にいる男女を指差した。サメに噛まれたサカエの腕を、コウホクが応急手当しているところだった。
「耳ざわりなガキめ」
本物のコウホクから、再び何人も分身が現れる。
「阿逹、情報ありがとう。二人とも逃げてくれ!」
墨田業平はそう叫び、プールへ飛び込んだ。
再びホホジロザメに変身して、本物のコウホク目指して加速する。
「冷静に、冷静にならなきゃ……」
「さっきから何をぶつぶつ言ってるんだ!」
中野弥生は、自分を押さえつけていた男に無理やり立たされた。両手を後ろで縛られる。
目の前のプールでは、ホホジロザメがコウホクとサカエに向かって泳いでいる。プールの入り口近くでは阿逹仁と川戸栄太が男たちから逃げ回り、反対側のプールサイドでは荒川紅緒が白金みなとを守りながら糸を飛ばしている。
中野弥生はパニックになりそうなのを必死にこらえながら、プール全体を見渡した。深呼吸を繰り返し、冷静さを取り戻そうとする。
中野弥生は緊張しやすい性格だった。人に話しかけられると、いつも何をしゃべればいいのかわからなくなり、うなずいたり首を振ったりしかできない。テストのときも、最初の数分間はいつも緊張をほぐすのに使っていた。それにもかかわらず成績が学年一位なのは、ひとえに中野弥生の努力のたまものだった。
だけど、もっと冷静になりたい。いつもクールでいたい。神田千代のように、どんな相手にでも堂々と振る舞えるようになりたい。中野弥生はそう願っていた。だから、こんな能力を得たのかもしれない。
中野弥生は、後ろに立つ男に指先を向けた。
「……凍って!」
瞬時に、ひんやりとした空気が背中に伝わってきた。
「なんだそれは!」
ホホジロザメの攻撃をかわしたコウホクが、こちらを見て叫んだ。
中野弥生も後ろを振り返って、どうなったか確認する。
そこに立っていた男は、氷漬けになっていた。中野弥生の「指先から冷凍ビームを出す能力」で、全身が瞬時に凍りついたのだ。
その男の姿が、氷ごとパッと消えた。
「サカエ、あの能力はまずい!」
「わかってるわよ! もういいわ、全員溺れろ!」
サカエが大きく腕を動かす。プールの水が再び盛り上がって、プールサイドにいる全員を襲う。
「きゃっ!」
中野弥生にも水が襲いかかった。周囲にいたコウホクの分身ごと、一緒にプールへ引きずり込む。
彼女だけではない。阿逹仁も、白金みなとも、サカエと本物のコウホク以外の全員が、水中へ引きずり込まれた。
「さぁ溺れなさい! そして観念して、私たちに付き従いなさい!」
嵐の海にいるかのように、波にのまれ、上下すらわからなくなる。
そんな中で、必死に叫ぶ阿逹仁の声が聞こえた。
「白金君! きみの能力を使うんだ!」
「お、おれ!?」
「あの二人も引きずり込むんだ!」
中野弥生は、プールに来る前に聞いた白金みなとの能力を思い出した。「人を引きつける能力」だと言っていたはずだ。
「あらっ?」
「なんだっ!?」
サカエとコウホクの体が、こちらへ寄ってくる。抵抗できない力で、ぐいぐいと押されているようだ。
荒れ狂う波の中に、サカエとコウホクが転落した。
さらに、中野弥生の体も、白金みなとに近づいていた。プールにいる全員が、白金みなとを中心に集まっていく。いまやプールには、巨大な渦潮ができていた。
「サ、サカエ!」コウホクが溺れながら叫ぶ。「やむを得ない、水を止めろ!」
ぴた、とウソのように水の流れが止まった。同時に、全員の体が白金みなとを中心に押しつけられる。
水の中に沈んでいた阿逹仁が、水面に顔を出して荒い息をする。川戸栄太も、荒川紅緒も、墨田業平も顔を出した。
全員の顔を確認すると、阿逹仁は中野弥生を見つめた。
「中野さん、能力を使うんだ!」
「え、でもそんなことしたら……」
「いいから!」
「や、やめなさい!」サカエが叫ぶ。「そんなことしたら、あんたたちだって氷漬けよ!」
「そうだ!」コウホクも逃げようとしながら叫ぶ。「下手したら、全員死ぬぞ!」
「大丈夫だから、やるんだ、中野さん!」
中野弥生はもはやパニック状態だった。
どう考えたって、いま凍らせたら危険だ。阿逹仁の言うことを信じていいのか?
阿逹仁は、変人だ。ちらりと聞いた話では、両親がいなくて施設で生活しているらしい。一緒に生活している川戸栄太、大田稲荷の二人といつも一緒にいる。そして、いつも何かいたずらを考えている。川戸栄太と大田稲荷が、その被害にあうのを何度も見たことがある。
だけど、決して悪意のある人ではないことも知っている。クラスの人のことを意外とよく見ていて、少し体調が悪いとさり気なく気遣ってくれたりする。中野弥生も、それで何度か助けられたことがあった。
だから、信じよう。中野弥生は、冷静にそう判断した。阿逹仁の知恵が、きっとこの状況をなんとかしてくれる。
中野弥生は、指先に力を込めた。
「凍って!」
ピシッ、と音がした。次の瞬間、痛いほどの寒気が全身を駆け巡る。
プールが、完全に凍っていた。
「さささささ寒い」
半袖短パンの白金みなとが、真っ先に悲鳴を上げた。
「おおおおい阿逹、これからどうするんだよ!」
「どうかするのはオレらじゃない」
阿逹仁は鼻をすすりながら、泳ごうとする体勢のまま固まったコウホクを見た。
「コウホクさん。あんたならこの状況、なんとかできるはずだ」
コウホクは黙って、阿逹仁をにらんだ。阿逹仁は、それをキッとにらみ返す。
「あんたらの負けだ。……早く分身を消せ! でないと全員死ぬぞ!」
「……」
コウホクは苦々しい顔をした。
そして、一瞬で、プールを埋め尽くしていた氷が消えた。
全員が、ドサッとプールの底に落下する。プールが空っぽになっていた。
「荒川さん、早く拘束を!」
「え、あ、うん!」
荒川紅緒が、慌てて手を前に出す。コウホクたちが逃げるより早く、粘着性の糸で二人が拘束された。
「な、何が起こったんだ?」
尻もちをついた川戸栄太が、尻をなでながら立ち上がった。
「コウホクに分身を消させたんだ。それで、分身と一緒に氷も消えた」
「どうして?」
「コウホクの分身が消えるときは、分身が身につけているものも一緒に消えるんだ。自分を拘束している糸とか、まとっている氷とかね。だから、分身が消えるときにプールの氷も一緒に消えたんだ」
義足の具合を確かめながら、墨田業平も聞いた。
「だが、このままで大丈夫なのか? また分身されたら……」
「それも大丈夫。コウホクの分身は、コウホクが身につけているものも一緒にコピーする。拘束されているコウホクからは、拘束されている分身しか出てこないよ。そして、サカエの能力は水がなきゃ使えない。プールの水がなくなったいま、こいつは無能力だ」
ついでに言うと、と阿逹仁は付け加えた。
「サカエは腕を動かさないと水を操れないらしい。だからこうして腕を動かせなくすれば、能力は使えない」
「……ちっ」
サカエとコウホクは阿逹仁から目をそらし、プールの底をにらみつけた。
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