☆二〇一二年十一月二十五日(日曜日)への応援コメント
コメント失礼します!
五百円玉より少し大きいだけの番号札。その小さな穴に人生のすべてを懸けるような渉の姿に、言葉にできない孤独と意地を感じて引き込まれました。厨房の女性の「おそばのびちゃうよっ?」というお節介な温かさが、張り詰めた渉の糸を切る絶妙な救い(あるいは残酷さ)になっていますね。静かな夜の国道に響くトラックの音まで聞こえてくるような、素晴らしい筆致に星を贈らせていただきます!
僕も**『眠るたび、俺の創ったラノベ世界へ』**という作品を書いています。現実の理不尽に震えながらも、温かい「食事」で明日を繋ごうとする渉の姿に、日常を生き抜く主人公の強さを感じました。もしよろしければ、僕の世界も覗きに来てください!
また時間が取れた際ゆっくり拝読させて頂きます!
作者からの返信
ありがとうございます。
この小説の主人公はどうしようもない人間です。
ぜひ最後まで読んでいただければと思います。
☆二〇一二年十一月二十五日(日曜日)への応援コメント
このドライブイン、実際に立ち寄ったことあります。
作者からの返信
そうなんですね!
店内の様子は本文に書かれている通りですが、より一層あの雰囲気を味わっていただけると思います。
あの古びた薄暗い雰囲気が好きでした。
☆二〇一二年十一月二十五日(日曜日)への応援コメント
100choboriさま、はじめまして。
企画にご参加くださりありがとうございます!
まるで映像を見ているような描写力に圧倒されました。
ガラス窓の汚れ、蛍光灯のヤニ、番号札の穴、どれもが静かなリアリティを持ち、渉さんの心情を繊細に映し出していて引き込まれました。
日常の中の孤独とささやかな抵抗を、丁寧にすくい上げる筆致、お見事です!
続きも楽しみに追わせていただきますね!
作者からの返信
ありがとうございます。
まだ全部読んだ人は誰もいないので、ぜひ読んでいただければと思います。
★二〇一一年八月七日(日曜日)への応援コメント
100choboriさん、自主企画へのご参加ほんまにありがとうございます。
ウチ、今回の『ドライブイン東海道』を読ませてもろて、まず最初に思ったんは、空気の重さとか、肌にへばりつく暑さとか、言葉にならん苛立ちみたいなもんが、ものすごく丁寧にすくい上げられてる作品やなあ、ということでした。
国道沿いの景色、工場勤めの息苦しさ、ふと誰かに目を奪われる瞬間、そんで取り返しのつかへん感情の揺れ――そういうものが、派手に叫ばれるんやなくて、じわじわ心に染みてくるんです。
読みながら、渉さんのしんどさに息が詰まりそうになる場面もあったんですけど、それでもページを閉じたくならへん不思議な引力がありました。
ここからは、太宰先生にバトンを渡しますね。
先生はきっと、この作品の中にある孤独や、うまく生きられへん痛みのかたちを、やわらかく、それでいて深いところまで見つめてくれる思います。
◆ 太宰先生による講評――寄り添い
おれはね、この作品を読みながら、何度も胸の奥をそっとつつかれるような気持ちになりました。
人が生きているときの苦しみというものは、たいてい、もっと派手で、もっと劇的な顔をして現れるわけではないのです。むしろ、こういうふうに、べとついた机の感触だとか、汗のにおいだとか、どうでもよさそうな番号札の穴だとか、そういう取るに足りないもののそばに、ぴたりと張りついている。『ドライブイン東海道』は、そのことをよく知っている小説だと思いました。
渉という人物は、決して器用ではないですね。
いや、不器用という言葉では、少し足りないかもしれない。世の中の流れに合わせて、うまく受け流したり、自分をごまかしたりすることが、あまり上手じゃない。怒りも、恥も、みじめさも、胸の中でうまく処理できずに、変な場所で立ち止まってしまう。番号札の穴に爪楊枝を通したいと願うあの執着には、本人にとってさえ説明のつかない焦りがあるのでしょう。けれど、人間というものは案外、そういう説明のつかない衝動のほうにこそ、その人のほんとうが滲むものです。おれは、あの場面を読んで、渉を笑う気にはなれませんでした。むしろ、ああ、この人はちゃんと傷ついているのだな、と感じたのです。
この作品の良さは、渉の苦しさを、決して大げさに悲劇化しないところにもあります。
工場で働くことの閉塞感、上司の言葉に身を縮める感じ、裁判所や講習会の場で、自分が何か「外れた側」に回ってしまったような居心地の悪さ――それらが、ひとつひとつ具体的に書かれている。だから読者は、渉の不安を、ただの性格の問題として片づけずにすむのです。社会のなかで息をするということそのものが、ときに人を追いつめる。その当たり前だけれど見落とされがちな痛みが、ちゃんとここにはある。
そして、おれがとくに惹かれたのは、佐希さんとの出会いの描き方でした。
こういう出会いは、ともすれば運命めいた飾りに寄ってしまいがちです。しかしこの作品では、相手に救われたいという気持ちと、相手をまともに見られないぎこちなさとが、一緒に存在しているでしょう。そこが誠実です。渉は、佐希さんを前にして急に立派になったりしない。むしろ、自分の情けなさや未熟さを、ますます意識してしまう。その揺れがあるからこそ、ふたりの間に生まれかけたものが、淡いのに、ひどく切実に感じられるのです。
文章も、とてもよかった。
湿気、熱、光の反射、音の跳ね返り、そういうものが、ただの背景描写ではなくて、感情の器になっている。うまい文章というのは、賢そうに見える文章のことではありません。人の心が、景色や物の手触りに宿って見える文章のことです。この作品には、それがある。景色の描写を読んでいるのに、気がつくと人の孤独を読まされている――そんな場面が、いくつもありました。とくに道路や海やドライブインのたたずまいには、ただの舞台以上のものがある。そこには、過ぎていく時間と、置いていかれる心とが重なって見えます。
また、二〇一一年という時期が持つ空気も、押しつけがましくなく、しかし確かに作品の底に流れていましたね。
世界そのものが、どこか前と同じではいられなくなってしまった季節に、人が私的な恋や労働や孤独を抱えて生きている――その感じが、静かに作品の芯を支えている。時代を大きく語らなくても、そこに生きる一人の人間の呼吸を描くことで、かえって時代が伝わってくることがある。この小説には、そういう強さがあります。
もちろん、まだ途中までの感想ですから、この先にどんな傷や選択が待っているのか、おれにはまだわかりません。けれど、少なくともこの範囲までで、おれは、この作品が人を乱暴に断罪しない小説だと感じました。
渉の弱さも、みっともなさも、滑稽ささえも、見捨てずに書いている。人間は、ときどき自分のことを自分で持て余します。こんなはずではなかった、と思いながら、それでも同じ体と同じ心で次の日を生きなければならない。そういう逃げ場のなさを、本作はちゃんと知っている。だから、おれは安心して、この作品の痛みに近づくことができました。
寄り添い、という温度で申し上げるなら、この作品の魅力は、傷を大声で叫ばないところにあると思います。
言えないまま抱えてしまったもの、うまく形にならない不満や憧れ、誰かに近づきたいのに近づくほど自分の惨めさを知ってしまう感じ――そういうものを、作者は急いで解決しようとしない。その慎みが、かえってやさしいのです。読者はその余白のなかで、自分の昔の痛みをそっと思い出すことができる。
100choboriさん、この作品には、ひとの弱さを弱さのまま見つめる勇気があります。
それはとても尊いことです。世の中には、弱さをすぐに教訓に変えたがる文章が多い。でも、この小説は、そう急がない。だからこそ、読んでいて胸の奥に長く残るのだと思います。どうかこのまま、この作品の湿度と静かな切実さを大事にして進んでください。きっと、その誠実さに救われる読者がいるはずです。
◆ ユキナから、終わりのごあいさつ
100choboriさん、あらためてご参加ありがとうございました。
ウチ、この作品を読んで、しんどさをただ「しんどい」で終わらせへんで、景色とか手触りとか、その場にある物の重みまで使って丁寧に掘ってはるところが、ほんまに素敵やなと思いました。渉さんの危うさって、読み手によっては少し距離を置きたくなるような危うさでもあるんですけど、それでも目を離されへんのは、作者さんがその人を雑に扱ってへんからやと思います。
寄り添いの温度で読んだぶん、今回は特に、この作品が持ってるやさしさを強く感じました。
やさしさ言うても、甘やかす感じやのうて、うまく生きられへん人のことを、ちゃんと見てくれるやさしさです。そこが、この作品の大きな魅力やと思います。
ユキナ with 太宰(GPT-5.4 Thinking/寄り添い ver.)
※ユキナおよび太宰先生は、自主企画のための仮想キャラクターです。