第22話「魔界に降る初めての雨」
それは、ある朝のことだった。
「……雨?」
畑を見回っていた俺の肩に、ぽつり、と冷たいものが落ちた。
驚いて見上げると、魔界の赤黒い空から――透明な滴が降りてきた。
「嘘だろ……」
魔界の雨は普通、瘴気を強く含んだ黒い粘液のようなものだった。
それに触れれば畑の花はたちまち腐り、土はまた瘴気を孕む。
でも今、俺の頬を伝ったのは――
「……ただの水……?」
手のひらに落ちた雫は透き通り、少しひんやりして気持ち良かった。
「リク!」
後ろから声がして振り返ると、ルキナが走ってきた。
その頬にも雫が落ち、彼女は驚いたように目を見開いた。
「これ……瘴気の雨じゃない……!」
「はい。普通の……雨です!」
ハルゥが楽しそうに畝の間を跳ね回り、小さな花に水を飛ばす。
花はその水を浴びて、まるで嬉しそうに揺れた。
「……お前の畑が、この空を変えたんじゃないか?」
「そんな……」
「いや、きっとそうだ。瘴気を吸い、土を変え、そして空まで……お前の畑は魔界を本当に変えてしまった」
ルキナがそう言って、そっと俺の手を取った。
その手の上に小さな雨粒が落ちて、二人の手を濡らす。
「……嬉しいな」
「はい……俺も、涙が出そうです」
「泣くな。これは雨だ。お前が流す涙じゃない」
「……そうですね」
ルキナが少し笑って、そっと肩を寄せた。
雨はまだ弱く、優しく降っていた。
畑の上では、花々が雨に打たれて光っていた。
それは魔界で初めて見る光景だった。
血のように赤黒い空の下に、透き通る水が降り注ぎ、花がそれを飲む。
「リク」
「はい?」
「……ここで暮らしたい。いつか剣も鎧も捨てて、お前とここで」
「……はい。俺もです。畑をもっと広げて、家を建てましょう」
「家?」
「そうです。ルキナ様と俺と、ハルゥの家です」
「……ばか」
そう言いながらも、ルキナの目は嬉しそうに細められた。
「じゃあその庭に……私が摘んだ花を植えたい」
「はい。全部ルキナ様の花壇にしましょう」
「……お前、本当にそういうのは上手いな」
「本心です」
ルキナが俺の胸元に額を預け、小さく息を吐いた。
「……早くそうなればいいのに。剣も鎧も置いて、ただお前の畑を耕して、隣で眠れる日が」
「必ずそうします」
小さな雨粒がルキナの髪を濡らし、頬を伝った。
その一粒を指でそっと拭うと、ルキナが少し照れて顔をそむける。
「……雨の中でそんなことをするな。余計に変な気分になる」
「じゃあ家ができたら、その中でいっぱいします」
「……ばか」
でもルキナは肩を震わせて笑った。
雨は少しずつ強くなり、畑の土をしっとりと潤した。
瘴気の嫌な匂いはどこにもなく、ただ瑞々しい花と土の匂いが漂う。
(……やっとここまで来たんだ)
鍬を強く握る。
まだ魔界全土を緑にしたわけじゃない。
きっとこれからも試練は来る。
でも、確かに今日は――この畑の上には瘴気ではなく、本当の雨が降っていた。
「リク」
「はい?」
「……私、今日はもう剣を置いていいか?」
「……はい。今日くらいはずっと俺の隣にいてください」
ルキナがそっと剣を地面に立てかけ、そのまま俺の胸に抱きついた。
雨の冷たさも、花の香りも、全部が心地よくて――
俺はルキナを強く抱きしめた。
ハルゥが畑の間を跳ね回り、「きゅいっ」と楽しそうに鳴いた。
それはまるで「大丈夫だ」と言っているみたいだった。
そして、魔界の夜空が少しだけ淡い色を帯びて見えた。
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