第14話 声なき証言

 翌日の昼休み、カノンは中庭のベンチでリアナとミレーネを待っていた。


 手元には月影花のエキスの小さな瓶がある。昨夜から指示通り服用して、確かに頭痛は和らいだ。頭蓋骨の内側を何かが叩くような激しい痛みは、今は鈍い重さに変わっている。それでも、視界の端で時々何かが揺らめく感覚は残っていた。


 中庭の石畳に午後の陽射しが差し込む。木陰のベンチは涼しく、鳥のさえずりが聞こえてくる。


 「カノン」


 リアナが近づいてくるのが見える。手には昼食の包みを持ち、その後ろにミレーネが手帳を抱えて続いている。


 「調子はどう?」


 リアナがカノンの隣に座る。表情には心配そうな陰があった。


 「頭痛はだいぶ楽になった」


 カノンが小瓶を見せる。


 「ミレーネのお母様のお薬、本当によく効いてる。ありがとう」


 ミレーネが手帳を開きながら頷く。


 「お母様も安心すると思う。でも——」


 彼女がカノンの瞳を観察するように見つめる。


 「まだ時々、視線が泳いでるわね。見えるの? 何か」


 カノンが困ったような表情で頭を振る。


 「はっきりとは……でも、空気が歪むような感じは、まだある」


 リアナが心配そうに眉を寄せる。


 「無理は禁物よ。もし症状が悪化したら——」


 「大丈夫、無理はしない」


 カノンが少し微笑む。薬の効果で痛みが和らいだせいか、気持ちにも余裕があった。


 「二人がいてくれるから、安心できる」


 三人は並んで昼食を取った。ミレーネが手帳に症状を記録した後は、授業の話や魔術理論の議論など、普段通りの会話に戻っていく。症状のことを忘れて話せることに、カノンは安堵を感じていた。



 午後の魔力学の授業中、カノンは席について教授の講義を聞いていた。


 基礎理論の復習で、魔力の流れについて図表を使った説明が続いている。いつもなら数式に置き換えて理解しようとするところだが、今日は集中が途切れがちだった。


 昼休みは普通に過ごせたのに、授業が始まって間もなく、頭痛は確かに軽減されているが、それに代わって奇妙な感覚が芽生えていた。


 最初は気のせいかと思った。しかし、教室の後方から、かすかに何かが聞こえてくる。


 振り返ると、同級生たちが真面目に講義を聞いている。特に変わったことはない。


 カノンが前を向き直すと、また聞こえた。再び後ろを振り返ると、何人かの同級生がカノンを見て、怪訝そうな表情を浮かべている。


 今度はより明確な、途切れがちな音だった。しかし、その音がどこから来るのかは分からない。教室の中ではない。もっと遠く、もっと深いところから。


 羽根ペンを握る手に力が入らない。インクが垂れて、ノートに小さな染みを作った。胸の奥で何かが軋む。この音は何なのか。なぜ自分だけに聞こえるのか。


 カノンが小さく頭を振る。月影花のエキスが効いているはずなのに、なぜこんな症状が。それとも——これは薬では治せない、別の何かなのか。胸の奥で不安が膨らんでいく。


 弱々しい音が続いた。


 やがて、その音が際立っていく。教授の講義が遠のいて、その音だけが鮮明に響くような感覚。


 音の正体を突き止めたい衝動に駆られ、カノンが席を立とうとした瞬間、教授が振り返った。


 「カノン君? 具合が悪いのかい?」


 教室中の視線がカノンに集まる。エディが心配そうに見ている。


 「あ……えっと、少し……」


 カノンが曖昧に答える。音のことは説明できない。


 「医務室に行きたまえ。体調が優れない時は、しっかり休むことが大切だ」


 教授の配慮に、カノンは頭を下げて教室を出た。


 廊下に出ると、音はいっそう明確に聞こえてくる。


 かすかで、頼りない音が続いていた。


 カノンが廊下を歩きながら、音の方向を探ろうとする。医務室に向かうふりをしながら、実際には音の聞こえる方向へ足を向けていた。



 音に導かれるように、カノンは中央棟の階段を上っていた。


 普段は用事のない五階へ向かう。ここは重要文書の保管や、上級生・教授専用の施設がある区域だった。廊下は静かで、人影もない。


 階段を上るにつれ、音がより鮮明になる。


 次第に、声のような響きが混じり始めた。何かを言おうとしているような、でも言葉としては聞き取れない曖昧な音が続く。


 五階に着くと、音の方向がはっきりと分かった。廊下の奥、重要文書保管室の前からだった。


 カノンが慎重に近づく。足音を立てないよう、石の床に静かに足を置く。


 保管室の扉は重厚な木製で、黄銅の取っ手が鈍く光っている。しかし、扉の向こうから音は聞こえてこない。


 音はもっと曖昧な場所から、まるで空間そのものから響いてくるようだった。


 カノンが保管室の前に立つ。音の正体を突き止めたいが、どこから来ているのかわからない。扉の向こうではないとすると——


 その時、階段の方から足音が聞こえた。


 カノンが慌てて廊下の柱の陰に身を隠す。そこから様子を窺った。


 現れたのは見覚えのある男性だった。高く結い上げた黒髪、銀細工の外套。腰には複数の魔導具が並んでいるが、今は金属製の小さな装置と銀色の球体を両手に持っている。


 カノンはすぐに思い出した。ヴェルニカの研究室前で一瞬すれ違った人物だ。あの時も今も、彼は何者なのかわからない。しかし、今の彼の表情は困惑に満ちていた。眉間に皺を寄せ、何度も装置を確認している。


 男性が装置を保管室の扉にかざす。装置は掌に収まる大きさで、複雑な術式が表面に刻まれている。青白い光が放たれると、扉の表面を蜘蛛の巣のような光の線が這い回った。まるで目に見えない何かを読み取り、解析しているような動作だった。


 次に銀色の球体をかざす。球体は手のひらに収まる程度の大きさだが、その表面は鏡のように滑らかで、周囲の空気が微かに振動している。男性が球体を持ちながら保管室の周辺をゆっくりと回ると、球体から柔らかいが強力な白い光が放たれた。その光に触れた空気が、微かに震えるように歪んで見える。


 カノンには、その光が何かを「消している」ように見えた。光が通り過ぎた場所では、空間そのものが洗い流されるような感覚があった。何かが存在していた痕跡すら、綺麗に拭い去られていく。


 かすかな響きが次第に弱くなっていく。まるで遠い場所へ引きずられていくような、消えゆく音だった。


 男性の作業が続く。装置からの青白い光が保管室内部へ向けられ、球体の白い光がその周辺を包み込む。


 カノンが息を殺して見守っていると、突然、音が途切れた。


 静寂が廊下を支配する。


 男性が装置と球体を回収し、振り返った。カノンは呆気にとられて物陰から身を乗り出していた。


 目が合った。


 男性が一瞬立ち止まり、カノンを見つめる。


 「おや、君は——こんなところで何を?」


 男性の表情は硬く、しかし学生への対応は意外なほど丁寧だった。


 カノンは慌てて物陰から出た。


 「すみません……その、なんか音が聞こえて……」


 そして、好奇心に駆られて続けた。


 「あの……さっき何をされていたんですか?」


 男性の眉がわずかに上がる。


 「空間魔力の異常を処理していた。もう危険はない」


 「でも、声のようなものが……」


 カノンの言葉に、男性の表情が一瞬変わった。しかし、すぐに職務的な調子に戻る。


 「声……?」


 男性が少し考え込むような間を置いてから続けた。


 「魔力異常の影響だろう。こういうものには近づかない方がいい。過去に暴走して事故になった例もある。君のような学生が巻き込まれでもしたら大変だ」


 「事故……ですか」


 「心配はいらん。処理は完了している。今度からは近づかないことだ」


 男性はそれだけ言うと、階段を降りていった。



 教室に戻る時、カノンの足取りは重かった。月影花のエキスは頭痛を和らげたが、新たな謎と不安を残していった。


 男性の説明は理解できる。しかし、あの音は本当に魔力の残滓だったのか。そして、なぜ自分だけに聞こえたのか。


 教室に戻ると、授業はまだ続いていた。席に着くと、隣の席のエディが小声で尋ねる。


 「体調、大丈夫か?」


 「うん……ちょっと良くなったかな」


 カノンが曖昧に答える。本当のことは説明できない。誰も信じないだろう。


 しかし、授業を聞いているふりをしながら、カノンの頭の中では、あの得体の知れない音が繰り返し残響していた。


 あの弱々しく、空ろな音が。


 あの男性は何を消したのか。なぜカノンにだけその音が聞こえたのか。あの音は、何だったのか。そして、消された存在には、何があったのか。


 カノンは机に肘をつき、こめかみを指先で軽く押した。頭痛は治まったが、心の中に新たな重いものが沈んでいる。それは薬では治せない種類の痛みだった。


 答えのない疑問が、カノンの心に新たな重荷として宿っていた。そして、その重荷は、時間が経つにつれてより深く、より重いものになっていくような予感があった。

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