第13話 沈黙の密度

 翌日の授業中、カノンは額に手を当てていた。


 昨夜から続く頭の重さが今朝も収まらない。頭蓋の内側で鈍い痛みが脈打っている。教室の明かりさえ、針で刺されるように鋭く感じられる。


 それ以上に奇妙なのは、存在しないはずの気配だった。振り返っても同級生の机と椅子があるだけなのに、確かに何かがそこで蠢いている感覚がある。


 魔力学の教授の声が水の底から聞こえるように遠い。基礎理論の説明が霞んで、文字が宙に浮いて見える。集中しようとするほど、頭の奥で何かが軋む。


 昨日の転移実験の後から、ずっとこの調子だった。


 カノンが小さくため息をつく。机の上の羊皮紙には、授業内容のメモを取るつもりだったが、文字がぼやけて二重に見える。羽根ペンを握る手にも力が入らない。


 隣の席のエディが心配そうに覗き込んでくる。


 「おい、大丈夫か? 顔色悪いぞ」


 カノンは曖昧に頷いた。説明のしようがない。



 授業が終わると、カノンは中央ホールへ向かった。リアナとミレーネとの約束の時間だった。


 石造りの広いホールは、午後の陽射しが差し込んで明るい。しかし、カノンの頭の重苦しさは収まる気配がない。歩くたびに、めまいのような浮遊感が襲ってくる。


 「カノン」


 背後から声をかけられると、エリアスが近づいてくるところだった。穏やかな笑顔を浮かべているが、カノンの様子を見て表情が変わる。


 「君、体調が悪そうだが……」


 「あ、エリアスさん。えっと……なんで学院に?」


 カノンが首をかしげる。


 「サークス教授と研究資料の件で打ち合わせがあってね。それより、顔色がよくないようだが……」


 「大丈夫です、ちょっと頭痛がするだけで」


 エリアスがカノンの顔色をじっと見つめる。


 「君、本当に大丈夫かい? 無理をしてはいけないよ」


 カノンが曖昧に答えると、エリアスが少し迷った後、意を決したように口を開いた。


 「実は、君に相談があってね」


 エリアスがカノンの顔色を見て躊躇する。


 「……いや、やはり体調の良い時にしよう」


 「どんな相談ですか?」


 カノンが聞き返すと、エリアスは少し迷ったが、やがて口を開いた。


 「君の数式による魔力制御の手法について、いずれII組の学生たちに特別授業という形で紹介できないかと思っているんだ」


 エリアスがふと窓の外を見つめる。学院の尖塔が午後の陽射しに照らされている。


 「血筋や才能に頼らない制御法として、とても価値がある」


 カノンの目が見開かれる。人の役に立てるなら、という気持ちが胸に芽生えた。


 「でも今は無理をせず、まずは体調を整えることだ。この話には——」


 エリアスが一瞬言葉を選ぶように間を置く。


 「時期というものがある。詳しい話は、また今度にしよう」


 「体調が良くなったら、詳しく聞かせてください」


 エリアスが去っていく。その時、カノンは軽いめまいを感じて壁に手をついた。


 「カノン?」


 リアナの声が聞こえる。声のする方へ顔を向けると、彼女とミレーネが心配そうな表情で近づいてくるところだった。


 「どうしたの? 頭痛?」


 リアナがそっとカノンの頬に触れる。熱はない。


 「昨日の研究室から、少し変なんだ」


 カノンの言葉に、ミレーネの手帳を持つ手が止まった。



 三人は中庭のベンチに座っていた。人気の少ない場所で、落ち着いて話ができる。


 「症状を詳しく聞かせて」


 ミレーネが手帳を開きながら言う。治癒学で習った基本診断をしてみるつもりだった。


 「頭痛の場所は?」


 「頭全体が重くて……それと」


 カノンがこめかみを指で押さえる。


 「頭の中で、ズキンズキンと脈打つ痛みが……普通の頭痛とは違って、頭蓋骨の内側を何かが叩いている感じで……それに、時々歪みみたいなものが見えるような」


 ミレーネの羽根ペンが止まる。リアナが無意識に肩を寄せる。


 「拍動性の頭痛……それに視覚異常も?」


 ミレーネが小さな光の球を作り出し、カノンの瞳孔を慎重に観察する。光が瞳を照らすと、カノンが軽く顔をしかめた。


 「瞳孔の反応は正常……でも」


 ミレーネが眉をひそめる。


 「時々、何かを目で追いかけるような眼球運動がある。無意識に瞳が動いて、空中の一点を凝視したり……」


 ミレーネが困ったような表情で手帳を閉じる。いつもなら理論的に説明しようとするのに、今回ばかりは困惑が隠せない。


 「正直言って、私の知識じゃ分からない。お母様に診てもらいましょう。カノンの症状は普通じゃない」


 リアナも同意の声を漏らす。


 「そうね。専門の治癒術師に診てもらった方が安心」


 リアナがカノンの手を握る。


 「私たちがついてる。ひとりにはしないから、安心して」



 ミレーネの母への相談が決まると、三人はその足で王都の治癒院へ向かった。


 王都の治癒院は、薬草の香りに包まれた静かな建物だった。ミレーネの母、エルテア=アル=ティエラは、ミレーネが急に現れたことに驚いたが、カノンの様子を見るとすぐに診察室に通してくれた。


 「失礼いたします」


 カノンが緊張した面持ちで挨拶すると、エルテアの目尻が優しく下がる。ミレーネに似た知的な瞳だが、長年の経験が刻んだ深い慈愛があった。


 「こちらに座って」


 エルテアがミレーネの手帳を受け取り、記録を見ながら微笑む。


 「カノンくんね。診察記録、とても良くできているわ。基本的な項目は完璧」


 ミレーネが少し誇らしげに胸を張る。母親に認められたことが嬉しい。


 診察室は清潔で、壁には様々な治癒術の図表が並んでいる。エルテアがカノンを椅子に座らせると、手のひらに淡い緑の光を灯し、頭部に手をかざしながら瞳を詳しく見つめる。数分後、小さく息を吐いた。


 「身体には異常はないけれど……ミレーネが気づいた通りね。時々、何かを追いかけるような眼の動きをしている」


 カノンが症状の経緯を簡潔に説明すると、エルテアは棚から小さな瓶を取り出した。


 「魔力実験の後からの症状ね……既存の治癒法で対応できるけれど、正直に言うと、こういうケースは経験が限られているの」


 リアナが心配そうに聞く。


 「危険はないのでしょうか?」


 「身体的な危険は今のところ見当たらない。でも——」


 エルテアが一瞬言葉を選ぶように沈黙する。


 「こうした特殊な症状については、私の経験でも判断が難しいの。カノンくんが感じていることを軽視するべきではないと思う」


 診察室に静寂が落ちる。


 「今は様子を見ましょう。それと——」


 エルテアが小さな瓶をカノンに手渡す。中には薄い青緑色の液体が入っている。


 「月影花のエキス。頭痛や神経の緊張を和らげる調合薬よ。一日三回、食後にスプーン一杯ずつ」


 エルテアがカノンの手を優しく握る。


 「何か変化があったら、遠慮せずにここに来てちょうだい」


 三人が治癒院を出ようとした時、エルテアがミレーネの袖を軽く引いた。


 「ミレーネ、ちょっと」


 リアナとカノンが先に出ていく間、エルテアがミレーネを呼び止める。


 「お友達の様子を、よく見ておいて」


 エルテアの表情に、診察中にはなかった真剣さがあった。


 「偏頭痛としては説明がつくけれど……もし何か変わったことを言うようになったら、すぐに連れてきて」


 ミレーネが眉をひそめる。


 「お母様、何か心配なことが?」


 「今のところはない。でも……」


 エルテアが一瞬言葉を濁し、それから決意したように続ける。


 「治癒術師の勘というものがあるの。カノンくんの症状は、もしかすると私たちの知識を超えている可能性がある」



 帰り道、三人はゆっくりと歩いていた。


 「お母様の診察で、少し……」


 ミレーネが言いかけて、手帳を見つめる。


 「原因が分かっただけでも前進よね。でも、まだ完全に解決したわけじゃない」


 カノンが小さな瓶を見つめている。薬草特有のかすかな香りが漂ってくる。症状が消えたわけではないが、それでも得体の知れない恐怖から解放された。


 「生命に関わるものじゃないって分かっただけでも……」


 リアナがそっと近づく。


 「でも、無理は禁物。何かあったら、すぐに言って」


 カノンは二人の優しさに胸が温かくなる。まだ不安は残っているが、一人ではない安心感があった。


 「ありがとう。僕一人だったら、どうしていいか分からなかった」


 三人は並んで歩き始めた。カノンは薬への期待に静かに浸っている。


 その様子を見て、ミレーネが隣のリアナの表情に気づく。


 「リアナ?」


 「私、何もしてあげられなかった……」


 リアナがつぶやく。いつもの明るさが、今は影を落としている。


 「でも私は——いつもなら何か手伝えることがあったのに、今回は何もできなくて」


 ミレーネが歩みを緩める。


 「私も、同じこと考えてた」


 「え?」


 「診察はできても、根本的な解決はできなかった。結局、私たちにできることって……」


 ミレーネがカノンを見る。


 「ただ、隣にいることだけなのかもしれない」


 リアナが頷く。


 「でも、それで十分だったのかも。カノン、安心してたよね」


 その時、カノンがふと振り返った。


 「二人とも、ありがとう」


 カノンが少し照れたような表情で続ける。


 「リアナが一緒にいてくれて、ミレーネが診察してお母様に相談してくれて……僕、一人だったらもっとずっと不安だったと思う」


 リアナが微笑む。


 「それなら……良かった」


 三人は温かい雰囲気で歩き続けた。症状の原因は分かったけれど、まだ完全に解決したわけではない。でも、一人ではないという安心感が、カノンの心を支えていた。


 その時、カノンの頭に鋭い痛みが走った。


 背後を振り返ると、学院の尖塔の向こうで空気が微かに揺らいでいる。昨日の転移実験で感じたのと似ているが、より深く、より複雑に。


 「どうしたの?」


 リアナが足を止める。


 「いや……なんでもない」


 カノンは眉間を指先で軽く押す。小さな瓶を握る手に、微かな温もりを感じていた。

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