第8話 見えない壁の向こう側
エリアスとの面談から戻った翌日、図書館の個室。
午後の陽光が高い窓から差し込み、机の上に広げられた羊皮紙を白く照らしている。エリアスから託された練習問題の複雑な術式文が、まるで古代の暗号のように羊皮紙を覆い尽くしていた。
三人は重い沈黙に包まれて、その文字列を見つめていた。
「これが……中間考査の応用問題」
カノンの声がかすれる。のどの奥が渇いていた。術式に使われている記号の半分以上が、教科書で見たこともないものだった。一つ一つが精密で、少しでも間違えれば全体が成り立たないであろうことは容易に想像できる。
「基礎問題はともかく、これをI組の平均以上で……」
リアナも顔を曇らせ、羽根ペンを指で回している。いつもの余裕が、今日はどこにも見当たらない。
「問題は、採点基準が全く分からないことよ」
ミレーネが腕を組み、手帳を膝の上に置いた。いつものようにデータを整理しようにも、今回は情報が圧倒的に不足している。
「正解を出せばいいのか、過程を重視するのか。何を評価されるのか分からなければ、対策の立てようがない」
カノンの胸に焦りが広がっていく。昨日まで感じていた希望が、複雑な文字列を前にして揺らいでいる。
でも——数式なら理解できる。パターンなら見抜ける。自分には、それがある。
緊張で手がこわばっているのが分かったが、同時に小さな決意も芽生えていた。
その時、リアナが何かを思い出すように顔を上げた。
「エリアスさんが言っていたこと……『二種類の評価者』について」
その声には、かすかな希望が込められていた。
◆
「『革新を求める者』と『秩序を守る者』」
ミレーネが手帳に書き留めたエリアスの言葉を読み上げる。ページをめくる手の動きが、いつもより慎重なのをカノンは見逃さなかった。
「でも、それだけじゃあいまいすぎる。具体的に誰が採点するのか分からなければ——」
その時、リアナが机に身を乗り出した。金色の髪が肩から滑り落ちる。
「待って。もしかして、採点する教授が決まってるのかな?」
「採点する教授?」
カノンが首をかしげる。そんなことまで考えが及ばなかった。
「編入試験を採点する教授が分かれば——」
説明しながら、リアナの目に光が宿る。
ミレーネも手帳をぱたりと閉じ、立ち上がった。
「どこかで調べられるんじゃない? 中庭の掲示板とかに担当者の発表が出てるかもしれない」
その瞳には、いつものデータ収集への情熱が宿っている。
三人はそれぞれ立ち上がった。敵の正体が見えないまま戦うことはできない。霧の中を手探りで歩くのは、もう終わりにしなければ。
◆
一時間後、学院の中庭。
石造りの回廊が中庭を取り囲み、その柱の間に掲示板が設置されていた。三人はその前に並んで立ち、公示書類の文字を上から下へと追っていく。たくさんの告知の中から、中間考査に関する情報を探していた。
「あった」
ミレーネが小さく呟く。指先が、掲示板の羊皮紙の一行を指し示した。
「中間考査特別評価委員。サークス教授、グランデル教授」
カノンとリアナが慌てて身を寄せる。二人の肩が触れ合うほど近くで、三人は同じ文字列を見つめた。
「二人で採点するの?」
リアナが驚いたように身を乗り出す。
「そうみたい。応用問題の採点を分担するって書いてある」
ミレーネの指が、さらに細かい注釈を示す。『特別評価対象者選出は成績基準による』と記されている。
三人は顔を見合わせた。ついに敵の正体が見えた。それは人ではなく、冷酷なシステムだった。
「これで敵が見えたわ」
ミレーネが手帳をぱらりと開く。新しいページに、二つの名前を丁寧に書き留めた。
「次は、この二人の教授がどんな考えを持っているか調べましょう」
その声には、謎を解き明かす手がかりを見つけた時の興奮が宿っていた。
◆
夕暮れ時、再び図書館の個室。
机の上には、二人の教授の論文集が積み重ねられていた。
「サークス教授の論文……」
ミレーネがページをめくりながら分析を続ける。
「『魔術理論の論理的構築について』『術式設計における整合性の重要性』……間違いないわ。この人は常に論理の整合性を重視している」
彼女の声に確信が宿る。
「エリアスさんの言う『革新を求める者』は、この人よ」
一方、リアナは別の論文集を手に、眉をひそめていた。
「グランデル教授の著作……『魔術の血脈と神秘性について』」
リアナの声が小さくなる。
「ここに書かれている思想は……『血統こそが魔術師の根幹』『平民出身者の限界』……」
彼女の声が次第に小さくなった。
「これは『秩序を守る者』そのものよ。しかも——」
リアナは言葉を詰まらせる。
「ヴェル=クレア家が重んじる伝統とも違う。もっと排他的で、血筋を絶対視している……」
言葉が見つからず、三人は黙り込んだ。
カノンの手が、羊皮紙をしっかりと握りしめている。
◆
翌日、I組とII組の合同講義。
階段状の大教室に、両クラスの生徒が混じって座っている。カノンは後方のII組席で、前方に座るリアナとミレーネの後ろ姿を見つめていた。
魔術理論の講義中、グランデル教授が教壇に立っていた。五十代前半、鉄のような灰色の髪を撫でつけた、厳格な雰囲気の男性だった。
古典理論の説明を終えたグランデル教授が、ふと表情を変えた。
「近年、伝統を軽んじる風潮が見受けられる」
教授の声が教室に響く。カノンは無意識に姿勢を正した。
「小手先の技巧で魔術の本質を理解したつもりになる……」
グランデル教授の視線が教室を巡る。その目がII組席の方を向いた時、カノンは妙な違和感を覚えた。まるで誰か特定の人物を探しているような——
「実に嘆かわしいことです」
教授は微笑んでいた。しかし、その笑みには温かさがない。カノンの胸に、漠然とした不安が広がった。
胸の奥で不安が膨らんでいく。グランデル教授の視線が、まだ背中に残っているような気がした。
講義が終わると同時に、カノンは慌てて席を立った。前方でリアナとミレーネも振り返り、三人の視線が教室の空気を通して交わる。
急いで図書館へ向かう廊下で、カノンの足音が石床に響いた。
◆
「疑いの余地はないわ」
ミレーネが断言する。
「グランデル教授は、最初からカノンを落とすつもりよ」
リアナも重く頷いた。
「あの視線……明らかに敵意があった」
カノンは拳を握りしめる。今まで漠然とした不安だったものが、具体的な脅威として立ち現れた。
「でも」
ミレーネが手帳を開く。
「敵の正体が分かったということは、対策も立てられるということ」
彼女の声に、いつもの分析魂が戻ってきている。
「エリアスさんが示した二つの道……どちらか一方に媚びるのは危険よ。グランデル教授が反対すれば、サークス教授が賛成しても意味がない」
「じゃあ、どうするの?」
カノンが尋ねる。
リアナが深く息を吸った。
「第三の道を行くの」
二人が振り返る。
「純粋な論理で構築しつつも、伝統主義者への敬意を払った引用や注釈を加える」
リアナの瞳に決意が宿る。
「グランデル教授にさえ『反論の隙を与えない』完璧な答案を目指すのよ」
◆
それから三週間。
図書館の個室は、三人の戦場となった。机の上には、エリアスの練習問題、両教授の論文、そしてカノンが書き続けた数式と古典からの引用で埋め尽くされている。
「この問題の第三部分……論理的な解法に、ヴァーレント学派の伝統的解釈を注釈として加えたわ」
リアナが羊皮紙を指差す。
「調べた結果、この方式なら両方の教授の評価基準を満たせる可能性が高い」
ミレーネが手帳を閉じた。
「論理性と伝統への敬意……これ以上完璧な戦略はない」
カノンの手のひらに、安定した光の球が浮かんだ。三週間前とは比べものにならない完成度だった。
「君の数式による魔術理論も、古典的な魔術観との調和を保てている」
リアナが感心する。
「でも、本当にこれで通用するのかな……」
カノンの声に、かすかな不安が残る。
「やれることは全てやった」
ミレーネが力強く言い切る。
「あとは、あなたが私たちの戦略を完璧に実行するだけ」
◆
中間考査前夜。図書館の片隅。
夜が更けて、図書館には人影がまばらになっていた。魔導具の明かりが三人の机を照らしている。
机の上には、三つの宝物が置かれていた。
エリアスから託された練習問題の羊皮紙。複雑な術式が、希望への道標として静かに横たわっている。
二人の教授の思想を記した古い論文集。敵を知るための貴重な情報源。ページの隅が折れ、何度も読み返した痕跡が残っている。
そして、それらを統合してカノンが書き上げた完璧な答案設計図。理論と伝統を両立させた、誰も反論できないはずの論理構築。羊皮紙の余白まで、数式と古典からの引用で埋め尽くされていた。
「私たちの作戦に穴はない」
ミレーネが疲れた顔を上げ、右手をそっと差し出した。
「人脈、情報、知性。そして何より——」
リアナが左手をミレーネの手に重ねる。その手は、いつもより冷たかった。
「諦めない心」
カノンも両手で、二人の手を包むように重ねた。
三人の手が重なる。窓の外に広がる夜の学院。満月に照らされた石造りの尖塔が、静かに夜空に向かって伸びている。
「明日、不可能を可能に変える」
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